Introduction of an artist(アーティスト紹介)
画家人物像
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ポール・ゴーギャン(ポール・ゴーガン) Paul Gauguin
1848-1903 | フランス | 後期印象派・象徴主義




後期印象派を代表する画家。印象主義の筆触分割に異議を唱え、それへの反発としてポール・ゴーギャンとエミール・ベルナールが提唱し、生み出された描写理論≪クロワゾニスム(対象の質感、立体感、固有色などを否定し、輪郭線で囲んだ平坦な色面によって対象を構成する描写)≫と、表現≪総合主義(別称:サンテティスム。クロワゾニスムを用いながらイメージを象徴として捉え、絵画上での平面的な単純化を目指す表現主義)≫によって表現としての新たな様式を確立。象徴主義における最も重要な流派(総合主義は広義においては象徴主義)であるほか、ナビ派にも多大な影響を与えた。また後年タヒチでの絵画制作など、プリミティヴィズム(原始主義)の先駆的な活動をおこなう。1848年、熱烈な共和主義者のジャーナリストであるクロヴィス・ゴーギャン(父)とアリーヌ(母)の間にパリで生まれる。翌年、ルイ・ナポレオンの台頭によってフランス第二共和政が危うくなると、一家で南米のマリへと逃れる(航海途中で父が急死)。1855年までリマで過ごすも、祖父ギヨーム・ゴーギャンの死により、遺産相続のためにパリへと帰国。幼少期の南国リマでの体験は後年のタヒチ移住への重要な役割を果たした。帰国後に入学した神学中学校を卒業後は、水夫として主に海上で過ごし、1871年(23歳)からは株式仲買商ベルタンの店に勤め、才能を発揮。また同年から絵画を本格的に学び始める。1873年に妻メット・ソフィネ・カーズと結婚、翌年カミーユ・ピサロと出会い、その後、ピサロを通じて印象派の画家たちと知り合う。1876年、サロン初入選。1879年からはピサロの助言もあり印象派展(第四回)に参加、最後の印象派展となる第八回まで出品し続けた。1881年、ピサロセザンヌと共に絵画を制作。1883年、株式仲買商を辞めて画業に専念することを決意(これが生涯続く困窮や妻との不仲のきっかけとなった)。1886年、エドガー・ドガと知り合うほか、総合主義の共同提唱者となるエミール・ベルナールや(後のポン=タヴェン派の代表的な画家となる)シャルル=ラヴァルと出会い、同1886年(第一次)、1888年(第ニ次)、1889年(第三次)と三度にわたりブルターニュ地方のポン=タヴェンで制作活動をおこなうなどブルターニュ原理主義(ポン=タヴェン派)が生まれる。またその間の1888年にはエミール・ベルナールと共に総合主義を成立させるほか、フィンセント・ファン・ゴッホの誘いを受け、南仏アルルを訪れるが、二人の共同生活はゴッホの耳切り事件などもあり、わずか二ヶ月で終止符を迎えた。1889年、パリ万国博覧会で絵画史上最初の象徴主義展を開催。1990年、ルドン、モンフレー、マラルメなど象徴主義の画家たちと交友を重ねる。1891年、エミール・ベルナールと総合主義の発端者を巡り離別(喧嘩別れ)。同年、憧憬であった熱帯地タヒチへ旅立つ。その後、健康状態の悪化や経済的困窮のために一度帰国するが、1895年に再訪すると没するまでタヒチへ留まった。同地では肉体的、精神的、経済的、家族など数々の困難に見舞われるも精力的に制作活動をおこなう。1898年、娘アリーヌの死によって深い悲しみと絶望に襲われ、『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』など遺書的な大作を仕上げ、自伝≪ノア・ノア≫を発表後、自殺を試みるも失敗。パペーテの病院に入院。1902年、アトゥアナの教会と対立。また心臓病と梅毒による健康の悪化により帰国を考えるも、モンフレーの反対により同地に留まる。翌年、原地民を擁護し官憲や教会(カトリック司教)に反抗。裁判で禁固三ヶ月の判決を受けるも、同年(1903年)5月8日に心臓病によって死去。
※耳切り事件については近年、ゴッホとゴーギャンが馴染みの娼婦を巡って口論となり、激昂したゴーギャンが剃刀を手に取りゴッホの耳を切り落としたとする新説が唱えられている。

Description of a work (作品の解説)
Work figure (作品図)
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裸婦習作(縫い物をするシュザンヌ)


(Etude de Nu (Suzanne cousant)) 1880年
115×80cm | 油彩・画布 | ニュー・カールスベルク美術館

後期印象派の巨匠ポール・ゴーギャン最初期の代表作『裸婦習作(縫い物をするシュザンヌ)』。1881年に開催された第6回印象派展への出品作である本作は、若いモデルを裸体姿を描いた≪裸婦≫作品で、ゴーギャンの画業の中で最初に人々から注目された作品としても重要視されている。第6回印象派展出品時、高名な批評家エミール・ゾラの優秀な弟子で、デカダン派の作家ユイスマンス(※この当時はまだ自然主義者であった)は本作について次のような称賛の言葉を残している。「ここに描かれる人物は現代の娘、それも出品用にポーズをしていない娘である。淫らでもなければ気取ってもいない。ただ裁縫に没頭している姿なのだ。しかも娘の肌は一点の染みも無いような滑らかな肌でもなく薔薇色に輝くわけでもない。腹は垂れ、深い皺がよる真実の姿だ。石膏像の模写で学んだ手法でアカデミックにモデルを描く画家に嫌悪感を覚える私にとって、この画家を喝采できることは真に幸いである」。このユイスマンスの言葉からも理解できるよう、本作で最も重要視すべき点は、まだ趣味として絵画に取り組んでいたゴーギャンの力強く客観性に溢れた写実主義的表現にある。画面の中央に描かれる裸婦は、古典絵画に登場する女神ヴィーナスのような理想的な裸婦ではなく、非常に現実性を感じさせる姿で丹念に描かれている。さらに本作にはゴーギャンの裸婦に対する関心はあまり感じられず、背景のマンドリンや裸婦の背後の緑色の衣服などと同様に作品を構成する一要素として取り組んでいる客観的な姿勢には、ゴーギャンの構成に対する重要視と理解の深さを見出すことができる。

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ゴーギャンの家の広間(カルセル街の画家の室内)


(Intérieur du Peintre a Paris, rue Carcel) 1881年
130.5×162.5cm | 油彩・画布 | オスロ国立美術館

近代絵画におけるひとつの表現様式の確立者ポール・ゴーギャン初期の重要な作例のひとつ『ゴーギャンの家の広間(カルセル街の画家の室内)』。ゴーギャンが株式仲買商ベルタンの店で仲買人として経済的成功を収める中、日曜画家として制作活動をおこなっていた時代に制作された本作は、パリのヴォージラール地区カルセル街の画家の自宅の情景を描いた作品で、1882年に開催された第7回印象派展への出品作としても知られている。印象派を代表する画家エドガー・ドガの影響を随所に感じさせる本作では、前景空間に色彩豊かな花が挿されたガラス製の花瓶が置かれるテーブルと、孤立的な椅子を一脚配し、後景空間にはピアノの前に座る画家の妻メット・ゴーギャンとひとりの男性が描き込まれている。そして中景には屏風的な衝立が配されており、その前後の空間を切断している。結果的に失敗となるものの、妻メットに対して自身の画家としての信念を想いを伝える目的でも制作された本作から強く感じられる心理的緊張感や孤立感は、この情景に相応しいであろう平穏で温かな雰囲気とは正反対であり、観る者へ鮮烈な印象を与えることに成功している。さらに表現手法的には印象派的様式や伝統的な写実性を見出すことができる本作の中景によって空間を意図的に遮断した構成、そして暗く重々しい色彩などは第7回印象派展への出品時、一部の批評家らから大きな注目を集めた。なお本作は1917年まで画家の妻メットが所有していた。

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四人のブルターニュの女の踊り(四人のブルターニュの婦人)

 (La danse des quatre bretonnes) 1886年頃
139×374.5cm | 油彩・画布 | ノイエ・ピナコテーク

総合主義(サンテティスム)の創始者のひとりポール・ゴーギャン第一次ブルターニュ滞在期の最も重要な作品のひとつ『四人のブルターニュの女の踊り(四人のブルターニュの婦人)』。1886年5月に開催された最後の印象派展(第8回印象派展)の終了後、かねてから興味を持っていたブルターニュ地方の田舎ポン=タヴェンへ翌6月から11月まで赴いた、ゴーギャンの初の同地滞在となる第一次ブルターニュ滞在期での体験をもとに制作された本作は、素朴なブルターニュの若い女性たちが民族的な踊りを踊る情景を描いた作品である。ゴーギャンはこの1886年6月から11月までのブルターニュ滞在で、後のポン=タヴェン派の代表的な画家となるシャルル・ラヴァルや、画家と共にクロワゾニスム、そして総合主義(サンテティスム)の創始者となる若きエミール・ベルナールと出会うこととなり、この数ヶ月間の体験は画家の作風形成を促したと同時に、2年後の総合主義の成立を考えると、美術史的にも非常に重要なものとなった。本作に描かれる四人のブルターニュの娘達は民族衣装に身を包み、円陣を組むように踊りを踊っている。この情景は、観光客の来訪によって比較的裕福となったブルターニュの人々が余暇を楽しむように(観光客向けの)パフォーマンスに興ずる姿が元となっているものの、ゴーギャンはそこに(パリなどの)都会では感じることのできない原始的な美しさを見出し、本作ではそれを生き生きと捉え表現されている。遠近的表現、質感、陰影の複雑な描写などクロワゾニスム(対象の質感、立体感、固有色などを否定し、輪郭線で囲んだ平坦な色面によって対象を構成する描写手法)的な表現は本作では明確に示されていないものの、鮮明な輪郭線の使用や単純化されつつある形態・色彩表現などに、本作にはそれまでの作品とは異なる、総合主義(サンテティスム)的表現の萌芽を感じことができ、ゴーギャンは本作を手がけた二年後、『説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)』の制作によってクロワゾニスムによるサンテティスムを宣言した。

関連:1888年制作 『説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)』

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説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)


(Vision après le sermon ou Lutte de Jacob avec l'ange)
1888年 | 73×92cm | 油彩・画布 | スコットランド王立美術館

印象派的表現を捨て、総合主義(サンテティスム)的表現を宣言した、エミール・ベルナールの『草地のブルターニュの女たち』と共に、同主義を確立させた最初の作品として名高い、ポール・ゴーギャン随一の傑作『説教のあとの幻影、ヤコブと天使の闘い』。1888年2月から10月までを指す第二次ブルターニュ滞在期に制作された本作に描かれるのは、旧約聖書 創世記第32章 23-31節に記される、イスラエルの民の祖アブラハムの孫ヤコブが兄エサウと和解するため、妻ラケルと羊を連れ兄エサウに会いに行く途中、ペヌエルの地で神(天使)と一晩中格闘をおこなうことになり、激闘の末、最後にヤコブが勝利すると、父なる神から「今後、お前はイスラエル(神の勝者、神の護る人の意)と名乗れ」と祝福を受けた場面≪天使とヤコブの戦い(イスラエルの命名)≫を、フランスの最西端に突き出た半島(ブルターニュ地方)で開かれるパルドン祭で幻視する信仰厚き同地の女たちである。本作の数ヶ月前にエミール・ベルナールが制作した『草地のブルターニュの女たち』を見て、その実験的で革新的な表現手法≪クロワゾニスム(対象の質感、立体感、固有色などを否定し、輪郭線で囲んだ平坦な色面によって対象を構成する方法)≫に強く影響を受け、多大に刺激されたゴーギャンは、ブルターニュ地方のパルドン祭に画題を得て本作を制作した。クロワゾニスムという表現手法を用いることによって「自然を模倣(写実的表現を)せず、己の内に感じるまま、ある種の抽象性を以って描く」という画家の絵画表現の本質が具現化された本作の、幻影として投影された天使とヤコブの戦いの姿態は、ロマン主義の大画家ウジェーヌ・ドラクロワの『ヤコブと天使の戦い(部分)』や、葛飾北斎の『北斎漫画の力士図』との関連性が指摘されている。本作では空間は奥行きや遠近感を完全に消失し、明確な輪郭線に囲まれた、女たちや格闘する天使とヤコブ、樹木などの対象は、色面によって平面化・単純化されており、伝統的な表現手法や印象派的手法では辿り着けないほど表現対象として純化されている。特に画面手前で祈りを捧げる女たちの高い信仰心を感じさせる穏やかな表情の純朴性・純真性は、染み入るかのような深い感銘を観る者へと与える。また日本の浮世絵からの影響を感じさせる、画面内へ唐突に配された一本の樹木の奇抜な配置や、強烈な色彩表現も本作の特筆すべき点のひとつである。さらに本作と草地のブルターニュの女たちとの色彩的対比(赤色と黄緑色)も注目に値する。なお本作はニソンの教区司祭に献上されるものの、斬新な表現を認めず伝統を重んじる保守的な司祭から受け取りを拒絶されている。

関連:エミール・ベルナール作 『草地のブルターニュの女たち』
関連:ウジェーヌ・ドラクロワ作 『ヤコブと天使の戦い(部分)』
関連:葛飾北斎 『北斎漫画から力士図』

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アルルの夜のカフェにて(ジヌー夫人)


(Au Cafe a Arlés (Mme Ginoux)) 1889年
73×92cm | 油彩・画布 | プーシキン美術館(モスクワ)

後期印象派の最も重要なのひとり画家ポール・ゴーギャンのアルル滞在時代を代表する作品のひとつ『アルルの夜のカフェにて(ジヌー夫人)』。本作はフィンセント・ファン・ゴッホの招きにより1888年10月23日から二ヶ月間、滞在し共に制作活動をおこなった南仏の町アルルで制作された作品で、画家のゴッホの作品に対する解釈が示されている。本作はゴッホの二つの作品からの引用によって構成されており、前景で肘を突きながら椅子に座るカフェ・ド・ラ・ガールの主人の妻マリー・ジヌーの姿は『アルルの女(ジヌー夫人)』に、本場面の舞台となる夜のアルルのカフェは『夜のカフェ(アルルのラマルティーヌ広場)』に基づいている。ゴーギャン自身もエミール・ベルナールへの手紙の中で「僕は、フィンセントが好きな、しかし僕はそれほど好きではない(労働者階級が集う)カフェを描いた。この主題は基本的に僕のものではないし、粗野で田舎染みた地方独特の色彩は僕には合わない。」と述べているよう、本作はゴーギャンの作品としてはいささか異例的な作品ではあるが、それでも本作に示されるゴッホ作品への解釈は非常に興味深い点である。画面右側に配されるジヌー夫人の姿は画家自身も「かなり良く仕上げられているが、少し行儀が良すぎる。」と語っているよう、薄く柔らかい笑みを浮かべながら、やや気だるそうにテーブルへ肘を突きながら座っている。その背後には(中景として)一台のビリヤード台が配され、画面奥のカフェに集う客や娼婦らとの関係性を保っている。画面左側からは青白い煙草の煙がたなびき、夜のカフェの独特の雰囲気を強調する効果を発揮している。ゴッホの作品ではゴッホ自身の孤独的な感情や心理と重ねたかのような(描く)対象への肉薄が鮮明に表現されているものの、本作にはそれらが感じられず、むしろ(描く)対象と一定の距離感を保つことで絵画としての調和と均衡を導いている。これらはゴッホが感情的な人間で絵画に対しても同様のアプローチをおこなっていたのに対し、ゴーギャンが基本的には客観的(分析的)でプリミティブなアプローチあるという根本的かつ決定的な違いの明確な表れであり、どこか後の悲劇(耳切り事件)を予感させる。

関連:ゴッホ作 『アルルの女(ジヌー夫人)』
関連:ゴッホ作 『夜のカフェ(アルルのラマルティーヌ広場)』

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アルル、ぶどうの収穫(人間の悲劇)


(Misères humaines (Les vendanges)) 1888年
73.5×92.5cm | 油彩・画布 | オルドルップガード・コレクション

19世紀末にフランスで開花した総合主義の創始者のひとりポール・ゴーギャンアルル滞在期の作品『アルル、ぶどうの収穫(人間の悲劇)』。本作はフィンセント・ファン・ゴッホの熱心な誘いを受け、南仏アルルの地へ赴いた画家が1888年11月頃に同地で制作された作品で、アルルでのぶどうの収穫の風景の中へ、ブルターニュの伝統的な衣服を身に着けた女を配した、アルルとブルターニュの混合的作品でもある。本作についてゴーギャン自身が友人に宛てた手紙の中で次のように述べている。「君はこの『アルル、ぶどうの収穫』の中に描かれる悲観に暮れた哀れな者に気付くだろうか?知性や優美性、そしてあらゆる自然の恩恵を受けることができない人間ということではない。それはひとりの女である。彼女は頬杖をつき何も思考せず、ただ座り込んでいるが、太陽に照らされ赤々と大地を染める山積みのぶどうが意味する、自然の恵みの慰めを感じているのである。そして黒い服を身に纏う女が、彼女を姉妹を見るかのように眺めるのだ。」。このように画家自身が指摘するよう、本作で最も注目すべき点は頬杖をつきながら足を広げ大地に座り込む女と、黒尽くめの女との関係性にある。大地に座り込む憂鬱そうな女の姿態は、パリ民族博物館に所蔵されるミイラに着想を得られたものであり、画家晩年の傑作『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』を始め、その後もしばしば登場することとなる。この女の物悲しい雰囲気は本情景にではなく、人間そのものへ向けられたものだと解釈されており、ぶどうの収穫が意味する≪豊穣≫と対比するかの如く、悲劇や罪悪などの感情を見出すことができる。さらにそこから考察すると黒尽くめの女には、人間としての以外にも死の象徴≪死神≫的な関係性を導き出すことができるのである。また背景となる山積みのぶどうのすぐ下に配される泡立つ様な描写には、女性の性的解放の暗喩が隠されているとの指摘もある。

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自画像(レ・ミゼラブル)


(Autoportrait dit 'Les misérables) 1888年
45×55cm | 油彩・画布 | ファン・ゴッホ美術館

フランス象徴主義の偉大なる巨匠ポール・ゴーギャンを代表する自画像作品『自画像(レ・ミゼラブル)』。本作は1888年に南仏アルルを訪れていた画家がフィンセント・ファン・ゴッホの強い願い(※ゴッホがゴーギャンとの強い友情を求めたため)により制作された自画像作品で、フランスのロマン主義作家ヴィクトル・ユーゴーの傑作小説≪レ・ミゼラブル≫に更なる典拠を得ているのが大きな特徴のひとつである。画面左側へと配されるゴーギャン自身は、≪レ・ミゼラブル≫の主人公ジャン・ヴァルジャンのような不敵で無頼的な表情を浮かべた姿で描かれている。背景には幼さや純潔を象徴する花柄の壁紙が大胆に配されており、さらに画面右側には本作が制作された1888年にゴーギャンと共に総合主義を成立させたエミール・ベルナールの肖像画が掛けられているほか、画面右下には画家の署名、年記と共にレ・ミゼラブルの筆記を確認することができる。本作を制作後、ゴーギャンは友人シュフネッケルに宛て次のような手紙を送っている。「前景に無頼な顔、つまりレ・ミゼラブルにおけるジャン・ヴァルジャンだ。そしてまたこの姿はひとりの印象派をも表している。背景の花柄は純潔の象徴であり、またエコール・デ・ボザール(当時の著名な美術学校)の腐敗に汚されていない印象派の純潔を示しているのだ」。画家自身も述べている本作の象徴性や大胆な画面構成も重要視すべき点であるが、本作の現実離れした色彩表現にも画家の優れた才気を感じさせる。特に背景の赤味の強い黄色の色彩と画面の中のゴーギャンやエミール・ベルナールの肖像画、そして壁紙の花々に用いられる緑色の色彩的対比は観る者を強く惹きつけるだけではなく、本作におけるゴーギャンの内面的世界をも表現している。

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ひまわりを描くフィンセント・ファン・ゴッホ


(Van Gogh peignant des tournesols) 1888年
73×92cm | 油彩・画布 | ファン・ゴッホ国立美術館

後期印象派の巨人にして、フランス象徴主義も代表する画家ポール・ゴーギャンのアルル滞在期の作品『ひまわりを描くフィンセント・ファン・ゴッホ』。本作はゴーギャン同様、後期印象派を代表する画家フィンセント・ファン・ゴッホに共同生活による制作活動を誘われたゴーギャンが、1888年10月23日から二ヶ月間滞在した南仏アルルで制作された作品である。当時のゴーギャンは描く対象の(自然主義的な)写実的表現を否定し、クロワゾニスムを用いて己の内面で見えるものを描くことを理念としていたことに対して、ゴッホは本作に示されるよう対象(ここではひまわり)を置き、それを見ながら制作する方法を採用しており、この相容れない二つの芸術論は次第に二人の関係を悪化させ、独りになることを恐れたゴッホは嫉妬深くなり精神を病んでいく。そんな関係が続く中、ゴーギャンは本作を制作し、完成後に本作を見たゴッホは「これは確かに私だ。しかしこれは気が狂った時の私の姿だ」と述べ、本作が大きな要因のひとつとなってゴッホは自ら剃刀で耳を切り落とし娼婦ラシェルのもとへ届けるという有名な≪耳切り事件≫を起こして、ショックを受けたゴーギャンはアルルを去り、両者の共同生活に終止符が打たれた。画家の特徴的な高い視点によって描かれる本作のゴッホは、ゴッホ自身が認めるよう、非常に陰鬱な雰囲気を感じさせる苦悩と孤独感に満ちた神経質な表情を浮かべている。このゴッホの姿はゴーギャンが感じたゴッホの姿そのものであり、画家の残酷なまでの(両者の間に生まれた決定的な亀裂の)真実性の描写は観る者の目を奪う。絵画表現としても、本作は空間的奥行きを感じさせない平面的描写、特に前景のゴッホやひまわり、画架以降の空間的平面性は、画家の様式的特徴を良く表している。

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こんにちは、ゴーギャンさん(今日は、ゴーガンさん)


(Bonjour monsieur Gauguin) 1889年
113×92cm | 油彩・画布 | プラハ国立美術館

近代絵画様式の確立者のひとりポール・ゴーギャンの注目すべき作品のひとつ『こんにちは、ゴーギャンさん(今日は、ゴーガンさん)』。本作はアルル滞在期中、1888年12月にフィンセント・ファン・ゴッホと共にモンペリエのファーブル美術館で閲覧した写実主義の巨匠ギュスターヴ・クールベの代表作『出会い、こんにちはクールベさん』に感銘を受け制作された作品である。原作との図像的類似点は殆ど見出せない本作では、画面中央にゴーギャン自身が、画面右側に民族的な衣服を身に着けた人物画ひとり配されている。両者の間には木製の柵が描き込まれているほか、大雲が立ち込める暗い空と色鮮やかで豊潤な大地の色彩は、観る者を本作の独特の世界観へと強く惹きつける。本作で最も注目すべき点は画題そのものの意味的類似性にある。原図である『出会い、こんにちはクールベさん』ではクールベ自身が当時の美術界における先駆者(写実主義者)として意味付け描かれており、本作でゴーギャンは己の姿を美術界の先駆者(又は芸術への殉教者)として描き込んでいる。さらにこの傾向は同年に制作された『黄色いキリスト』や『オリーブ山のキリスト(自画像)』で一層顕著に示されることになる。

関連:クールベ作 『出会い、こんにちはクールベさん』

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アルルの病院の庭にて(アルルの老女たち)


(Dans le jardin de l'hôpital d'Arles) 1888年
73×92cm | 油彩・画布 | シカゴ美術研究所

総合主義の確立者のひとりポール・ゴーギャン、アルル滞在期の代表作『アルルの病院の庭にて(アルルの老女たち)』。フィンセント・ファン・ゴッホの誘いを受け1888年の10月から南仏アルルへ滞在していた頃に制作された本作は、アルルでの住まい兼アトリエであった「黄色い家」近くの公園を描いたとされる作品で、ゴッホも同公園を画題とした作品を幾つか手がけたことが知られている。画面手前中央から左側には巨大な茂みが配され、その反対側となる右側には赤々とした柵が描かれている。この茂みの陰影で目、鼻、髭が形成されており一部の研究者からはゴーギャン自身の重複像との指摘もされている。その背後には紺色の郷土的な衣服を身に着けた2人のやや年齢の高い婦人がほぼ同様の姿態で描かれており、特に顔が明確に描かれる左側の婦人は南仏アルル駅前にあったカフェ・ド・ラ・ガールの主人の妻マリー・ジヌー夫人であることが明白である。そしてこの2人の夫人と呼応するかのように右側へはミストラル(南仏特有の北風)避けとして藁で覆われた糸杉の若木が2本配されているほか、遠景にはもう一組の婦人らが配されている。本作で最も注目すべき点は総合主義の典型的表現手法であるクロワゾニスム(輪郭線で囲んだ平坦な色面によって対象を構成する表現描写)による様式的アプローチと、日本趣味からの影響を感じさせる非遠近的表現にある。茂み、柵、人物、糸杉、緩やかに曲がる小道、そして画面右上の池など構成要素のほぼ全てが明瞭な輪郭線と大胆な色彩を用いた色面によって平面的に描写されているが、さらに本作では遠近法を用いない複数の視点(本作の近景と遠景では視点が大きく異なる)を導入することによって装飾性が極端化されている。また画面右上の池には新印象主義的な点描表現の痕跡も確認することができ、本作の様式的近代性をより強調している点も特に注目すべきである。

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光輪のある自画像(戯画的自画像)


(Portrait-charge de Gauguin) 1889年 | 79.2×51.3cm
油彩・画布 | ワシントン・ナショナル・ギャラリー

近代絵画の大画家ポール・ゴーギャンを代表する自画像作品のひとつ『光輪のある自画像(戯画的自画像)』。本作は画家が一時期滞在していたル・プールデュにあったマリ・アンヌ食堂の食器棚の装飾画(装飾パネル)として制作された作品である。ゴーギャンと共にル・プールデュへ滞在していたオランダ人画家ヤコブ・メイエル・デ・ハーンの肖像画との対画として制作された作品でもある本作に描かれるゴーギャンの頭上には光輪(円光)が描かれており、約2年程前に手がけた主イエス(キリスト)に自身の姿を重ねた一連の自画像作品(参照:黄色いキリストのある自画像オリーブ山のキリスト)同様、己の姿を聖なる存在(又はポン=タヴェン派やナビ派など若い画家らの指導者的な立場にある特別な存在)として表現している。対画として制作された『ヤコブ・メイエル・デ・ハーンの肖像』には17世紀を代表する英国の詩人ジョン・ミルトンを代表する傑作叙事詩≪失楽園≫が描き込まれており、本作の中へ象徴的に配された、一方は未熟を思わせる緑色の、もう片一方は成熟を思わせる赤色に実るふたつの林檎(禁断の果実)や、舌を出す蛇の姿と関連している。またこれらはフランス象徴主義(ナビ派)の典型的なアトリビュートであることも注目すべき点である。また色面のみによって構成される天使の羽の上に描かれるゴーギャンの顔は聖者というよりも、まるで悪事を企てる者のように邪悪な印象を感じさせる表情を浮かべており、画家の劇場的な性格を暗示させる刺激的な赤色の背景色との相乗的な効果によって、本作の解釈を困難にしている。なお本作に描かれる林檎を具体的な性の暗喩として、ゴーギャンの表情を友人メイエル・デ・ハーンと食堂の女主人マリ・アンヌの密接な関係(情事)に対する皮肉的な感情≪嫉妬≫と解釈する説も唱えられている。

関連:対画 『ヤコブ・メイエル・デ・ハーンの肖像』

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緑のキリスト(ブルターニュのキリスト磔刑像)


(Mahana no atua (Jour de Dieu)) 1894年
66×108cm | 油彩・画布 | シカゴ美術研究所

近代絵画様式の確立者のひとりポール・ゴーギャン第3次ブルターニュ滞在期の代表作『緑のキリスト』。かつてゴーギャン自身はブルターニュのキリスト磔刑像、ブルターニュの受難と呼んでいた本作は、ブルターニュ地方ポン=タヴェン近郊ニゾンにある苔に覆われた土俗的な石の磔刑像に着想を得て、ブルターニュの女たちの素朴的で熱心な信仰心を表現した作品である。画面前景には苔が厚く覆う磔刑像の前でこの地方独特の民族的な衣服を身に着けた女が腰を屈めながらその敬虔な信仰心を示している。一方、画面左側に描かれる中景から遠景では、海草集めを終えて岸から上がってくる人物などこの情景とは全く関わりの無い現実感に溢れた場面が展開している。本作に見られる信仰という超現実的で幻想的な思想と、日常生活など現実的な感覚の融合は、前年(1888年)に画家が手がけた傑作『説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)』に通じるものであり、ゴーギャン自身の面影を感じさせる本作のキリスト像には、ほぼ同時期に制作された『黄色いキリスト』を予感させる。表現手法に注目してみても、太く明確な輪郭線を用いた平面的な色面による対象構成や、多少重々しさを感じさせる緑色の展開による画家自身の内面的精神性の表現など、クロワゾニスムによるサンテティスム(総合主義)様式の代表的な特徴が良く示されている。

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黄色いキリスト

 (Le Christ jaune) 1889年 | 92×73cm
油彩・画布 | オルブライト=ノックス・アート・ギャラリー

近代絵画芸術の巨人ポール・ゴーギャン第三次ブルターニュ滞在期の代表作『黄色いキリスト』。第二次ブルターニュ滞在期に画家が手がけた作品『説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)』と並び、象徴主義的な総合主義絵画の代表的作例として知られている本作に描かれるのは、ブルターニュの農婦らが厚い信仰によって磔刑に処される主イエスを幻視する姿である。象徴的に描かれる黄色の主イエスの姿は、≪総合主義(サンテティスム)≫の提唱した地でもある、ブルターニュ地方ポン=タヴェン近郊の教会≪トレマロ礼拝堂≫の木彫りのキリスト像(十字架像)から着想が得られているが、主イエスの姿は農婦らの幻視ではなく、画家自身の内面的心象の表れであると考えられている。事実、ゴーギャンは同時期に、この黄色い主イエスの姿を背後に配した自画像『黄色いキリストのある自画像(サン=ジェルマン=アン=レ美術館所蔵)』や、キリストの顔を自身の顔に変えた『オリーブ山のキリスト(ノートン・ギャラリー所蔵)』を制作している。秋のブルターニュの風景の中に描かれる、主イエスや敬虔な農婦らの姿、朱々と紅葉する木々、黄色く輝く丘などは太く明確な輪郭線によって個々が区別され、内部の平面的で強い(原色的な)色彩描写によって純化されている。これらクロワゾニスム(対象の質感、立体感、固有色などを否定し、輪郭線で囲んだ平坦な色面によって対象を構成する描写方法)を用いた独自的な絵画展開は、画家とエミール・ベルナールが提唱した総合主義そのものであり、今なお、その輝きは色褪せず、観る者へと深く迫ってくるようである。なお内容的・表現的特徴の類似からエミール・ベルナールは本作を見た後、「これは私の作品の盗用である」との言葉を残している。

関連:『黄色いキリストのある自画像』
関連:『オリーブ山のキリスト(自画像)』

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ハムのある静物

 (Jambon) 1889年
50.2×57.8cm | 油彩・画布 | フィリップス・コレクション

後期印象派の大画家でありフランス象徴主義の先駆者ポール・ゴーギャンの最も著名な静物画作品のひとつ『ハムのある静物』。ゴッホとの南仏アルルにおける共同生活の終焉を迎え、再びブルターニュへ赴いた≪第3次ブルターニュ滞在時期≫に制作された本作は、金属の平皿に置かれたハムや玉葱(又は大蒜)、ワイングラスを描いた静物画で、この頃、ゴーギャンは『扇面のある静物』など約20点の静物画を制作しているが、本作はその中でも特に注目すべき作品として重要視されている。ゴーギャンの静物画は先人ポール・セザンヌの造形性や色彩表現の影響に基づいているが、本作ではそのような観点が消失し独特の虚構的雰囲気が支配している。画面中央に描かれる銀色の皿に配される巨大なハムの塊は、皿の金属と対比するかのように生物性を感じさせる強烈な色彩で描写されており、その存在感は単純化された色面による造形によってより強調されている。さらに静物が置かれるテーブルを支える細い柱が、(まるで宙に浮いているかのような)不安定感を本作に与えている。この視覚的不安定性にゴーギャン自身の(不安的)心情を指摘する研究者も少なくない。また他の静物画と比較しあまりにも単純な背景の処理と、そこへ加えられた象徴的な(鎖を思わせる)3本の縦文様に、ゴーギャンの類稀な画才を見出すことができる。

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純潔の喪失:春の目覚め(処女喪失)

 1890-1891年
(La perte du pucelage ou l'éveil du printemps)
90×130cm | 油彩・画布 | クライスラー美術館

偉大なるフランス象徴主義の巨匠ポール・ゴーギャン第3次ブルターニュ滞在期の最後を飾る代表作『純潔の喪失:春の目覚め(処女喪失)』。本作は1889年4月から翌1890年11月まで滞在した第3次ブルターニュ滞在期の末頃から制作が開始された作品で、画家自身が「象徴主義的な大作」と信じ込み、象徴主義者たちへ向けて意図的に手がけた(発信した)作品とも伝えられている。画面手前へ当時、恋人関係にあり画家の子を身篭っていた20歳の愛人ジュリエット・ユエをモデルに横たわる裸婦が描かれ、裸婦の傍らには(裸婦が抱き寄せるように)一匹の狐が配されている。この狐は淫猥や誘惑を象徴していると考えられており、裸婦が手にする一本の赤い筋の入ったシクラメンの花は純潔の喪失(処女喪失)を表している。また横たわる裸婦の表現にはエドゥアール・マネの問題作『オランピア』や、エミール・ベルナールの代表作『愛の森のマドレーヌ』との関連性が指摘されているほか、裸婦の上に描かれる草むらの段段した先端の不安定的な様子は処女喪失への不安感を意味していると推測されている。さらにブルターニュ地方ル・プルデュの情景が描かれる背景の中の道には人々の集団の列が描かれており、この一団はブルターニュ地方でおこなわれる結婚式と関連付けられている(これは本画題への皮肉的な意味合いも含んでいる)。色彩表現を考察してもクロワゾニスムを用いて描かれる各構成要素の意味や内面を的確に表すような色彩が用いられており、特に画面中景の燃えるように赤々とした田園風景と、その上下の寒色による強烈な色彩的対比は本作の非現実的で夢裡のような幻想性をより強調させる効果を発揮している。なお本作の解釈についてブルターニュ地方の民話と関連つけた説を始め諸説唱えられており、現在も議論が続いている。

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タヒチの女たち

 (Femmes de Tahiti) 1891年
69×91.5cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

近代絵画の巨匠ポール・ゴーギャン第一次タヒチ時代の代表作『タヒチの女たち』。本作はゴーギャンが1891年の4月から1893年の6月まで滞在した、自身初となるタヒチで到着後間もない頃に制作された作品で、同地の女性を画題とした作品の中でも特に画題に特化した作品としても広く認知されている。タヒチの浜辺を作品の舞台に設定し、画面中央から左右へ現地の女性が座位の姿で配されている。画面右側の女性はどこか警戒しているかのように右方へ視線を向けながら、縄らしいものを撚っている。左側の女性は瞳を伏せながら撚られる縄らしきものへと視線を向けているが、その姿態は自然体で緊張の様子は見られない。一方は(本作を)観る者へと身体を向け(画面右側の女)、もう一方は観る者へ背を向けるという人物同士の対比的位置関係や堂々としたタヒチの女性の生命力に溢れた独特の美しさも本作の大きな見所ではあるものの、最も注目すべき点は、タヒチの光景を目の当たりにしたゴーギャンの喜びに満ちた感情による画題の扱いそのものにある。例えば色彩は暖色を多用し、明るさと力強さを兼ね備えながら、(ゴーギャンがタヒチで感じていたであろう)楽園的な神秘性や自然美をも同時に表現している。表現手法としてはクロワゾニスムを用いた総合主義的な側面が色濃く、フランス時代の画家の表現に則られているものの、タヒチの女性への(崇拝にも似た)画家の個人的視点や観察による対象の捉え方には、画家としての喜びの感情や溢れる野心的感覚を感じずにはいられない。

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イア・オラナ・マリア(アヴェ・マリア、マリア礼賛)


(Ia orana Maria) 1891年
114×89cm | 油彩・画布 | メトロポリタン美術館

フランス総合主義の創始者ポール・ゴーギャン第一次タヒチ滞在期の代表作『イア・オラナ・マリア(アヴェ・マリア、マリア礼賛)』。1891年4月から1893年の6月まで都市パペエテを中心とした南国タヒチに滞在した時期(第一次タヒチ滞在期)に制作された本作は、タヒチを形成する小さな島のひとつにある村≪マタイエア≫の人々を描いた作品である。マタイエアの現地民は他の島民とは異なりカトリック教徒が多く、ゴーギャンもそれに触発されて制作した本作の出来栄えは、画家自身も満足しており、友人ダニエル・ド・モンフレーに宛てた手紙の中でも「黄色い翼の天使が二人のタヒチの女へ教えるように、やはりこれもタヒチ人の聖母マリアと神の子イエスを指差している。タヒチの女たちは花柄の綿の衣服(パレオ)を身に着けており、背景は非常に暗い山々と花咲く木々だ。濃紫色の小道と青緑色(エメラルドグリーン)の前景、そして左側にはバナナ(の木)がある。僕はこの作品の出来には大いに満足しているよ。」と記している。画面右側には鮮やかな赤色の衣服を着たタヒチ人の聖母マリアが幼子イエスを肩に乗せている姿が描かれており、光輪が頭上に浮かぶ両者は意味深げな表情を浮かべながら観る者へと視線を向けている。画面中景の左側には黄色の翼の天使が、二人のタヒチの女(現地人)に対して聖母と神の子の存在(降臨)を指し示しており、画面中景の中央に描かれる二人のタヒチの女が胸の前で両手を合わせて聖母と神の子に信仰の証を示している。この二人のポーズはゴーギャンが写真で見たジャワの寺院に彫られた僧像の装飾彫刻に典拠が得られている。天使とる二人のタヒチの女が立つ小道がゴーギャンが述べるよう濃紫によって描かれており、さらにその前景には美しい青緑色の色面が平面的に配されている。画面左下に描かれるバナナの前には『IA ORANA MARI』と記されており、『IA ORANA』は現地では挨拶の時に用いる言葉で、画家の自伝的著書『ノア・ノア』にも登場させるなど、当時の画家が大変興味を示した言葉のひとつである。

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ヴィヒネ・ノ・テ・ヴィ(マンゴーを持つ女)


(Vahine no te vi (Femme au mango)) 1892年
70×45cm | 油彩・画布 | ボルティモア美術館

近代絵画様式の確立者ポール・ゴーギャンを代表する女性肖像作品『ヴィヒネ・ノ・テ・ヴィ(マンゴーを持つ女)』。本作はゴーギャンが1891年4月から1893年6月まで滞在した南国タヒチ(第一次タヒチ滞在期)で制作された作品の中の1点で、モデルとして描かれる女性は画家が同地の人間に紹介され、結婚したテハマナ(通称テフラ、当時13歳)である。ゴーギャンは第一次タヒチ滞在期に自然的で生命感に溢れる美しさを備えていたテハマナをモデルとした作品を、本作以外にも『マナオ・トゥパパウ(死霊は見守る、死霊が見ている)』など複数枚手がけているが、本作は少女テハマナの母性を象徴化した作品として特に重要視されている。画面中央に大きく配されるやや下方へ視線を向けるテハマナの姿態は、顔とは逆を向けられており画面の中に(観る者の視線を惹きつける)動きを生み出している。また幼さが残るもののプリミティブで力強さを感じさせるテハマナの顔立ちには、ある種の聖人的な印象を感じさせる。さらにテハマナが手にするマンゴー(ウルシ科マンゴー属の常緑高木。菴羅、菴摩羅とも呼称される)の実は、現地では古くから豊穣を象徴するものであり、ここにゴーギャンの自然(そしてタヒチ)に対する尊敬の念と、テハマナの母性を見出すことができる。これらも本作で特に注目すべき点ではあるが、本作ではそれらを強調する効果を見事に発揮している明快で簡潔な平面的表現に、より注視すべきである。このような生のある人間そのものを宗教画のように象徴化した本作には、西洋の古典的な絵画の表現手法と通じており、画家がタヒチを訪れる要因ともなった西洋文化そのものによる、自身の肯定的態度は特筆に値するものである。

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アレアレア

 (Arearea) 1892年
75×94cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

近代絵画様式の確立者のひとりポール・ゴーギャン、タヒチ滞在時の典型的な作例のひとつ『アレアレア(楽しみ、喜ばしさ、笑い話)』。本作はゴーギャンが1891年4月から1893年6月まで南国タヒチへ滞在した第一次タヒチ滞在期に制作された作品で、同地の牧歌的風景や生活と宗教的風習が画面の中に描き込まれている。前景には2人の若いタヒチの娘が1本の樹木の傍らで腰を下ろしながらゆったりと過ごしており、その中のひとりは目を瞑りながら細い縦笛を奏でている。また画面左下には一匹の神秘的な動物が配され、観る者に自然と人間の調和的世界観を明確に示している。さらに後景では現地ポリネシアに伝わる月の女神ヒナを順に礼拝する女たちが描かれ、同地の生活的風習と異国的情緒を見事に捉えることに成功している。本作で最も注目すべき点は、ゴーギャンのブルターニュ滞在期から取り組んできた総合主義的表現の昇華にある。輪郭線で囲んだ平坦な色面によって対象を構成するクロワゾニスム的手法を用いた対象要素や構造の単純化と象徴化は、本作では強烈な色彩による色面とその対比によって表されており、タヒチ独特の南国的(異国的)雰囲気や様子がよく伝わってくる。これらの色彩表現や構成的展開は当時のゴーギャンの大きな特徴であり、本作にはそれらを明確に見出すことができる。

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ナフェア・ファア・イポイポ(あなたはいつ結婚するの?)


(Nafea faa ipoipo (Quand te marles-tu ?)) 1892年
101.5×77.5cm | 油彩・画布 | バーゼル美術館

後期印象派随一の巨匠であり、フランス象徴主義(総合主義)の先駆者でもある画家ポール・ゴーギャン第1次タヒチ滞在期の代表的な作品のひとつ『ナフェア・ファア・イポイポ(あなたはいつ結婚するの?)』。1891年4月から1893年6月まで南国タヒチに滞在した期間、いわゆる第1次タヒチ滞在期に制作された本作は、タヒチに住む現地民の若い女性をモデルに、同地の女性の(性的な意味を含む)有り様を描いた作品で、画家が1893年にパリへと帰国した後、画商デュラン=リュエルの画廊で開催したゴーギャンの個展に出品された作品の中で最も高値(1,500フラン)が付けられたことからも、画家自身にとって非常に重要な作品であったことをうかがい知ることができる。画面中央には二人の若い女性が配されており、本作の名称『ナフェア・ファア・イポイポ(あなたはいつ結婚するの?)』という言葉は、おそらくは濃桃色と衣服を着た背後の女性が、その前の花飾りをした前屈みの女性へ発した言葉だと推測される。南国タヒチの強烈な光や香りを感じさせる、異国情緒に溢れた風景の中で語らう二人の若い女性は、健康的な美しさと奔放な性的官能性が混在した独特の雰囲気を醸し出している。この両者と風景(背景)の描写は伝統的な写実性を捨て、輪郭線と色面によって平面的に構成する表現手法≪クロワゾニスム≫が明確に用いられており、独特を調和性を感じさせながら、観る者の目を強く惹きつける鮮やかな原色的色彩の表現には、ゴーギャンの優れた(色彩的)個性が良く表れている。さらに画面上部から黄色(空)、深い青(遠景の山)、黄緑色(中景の草地)、明瞭な水色(水溜り)、山吹色(女らが腰を下ろす大地の色)、そして最前景の深い緑色(草地)と明確に隔てられた構成要素の色彩的対比と強弱は、画家がこの時期に制作した作品の中でも特に優れた出来栄えを示している。

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エア・ハエレ・イア・オエ?(あなたは何処へ行くの?)


(Ea Haere ia oe (Où vastu ?)) 1893年頃
91×72cm | 油彩・画布 | エルミタージュ美術館

後期印象派の画家ポール・ゴーギャンの典型的な作例のひとつ『エア・ハエレ・イア・オエ?(あなたは何処へ行くの?)』。1891年4月から1893年6月までの第1次タヒチ滞在期に制作された本作は、現地の複数の女性を南国ポリネシアの情景の中へ描いた、ゴーギャンによるタヒチ時代の典型的な作品として知られている。画面手前には大きな果物を胸の前に抱いた若い娘が配されており、その原色的な赤色の腰布のみを身に着ける姿は、野性的で自然的な官能性と活き活きとした生命力に溢れている。また中景として画面左側には木陰で休む黒髪の女性が2人、画面右側には清潔な白地の衣服を身に着ける(子供を抱いた)母親らしき女性が描き込まれており、前者の中のひとりの姿態は明らかに前年頃に画家自身が制作した『ナフェア・ファア・イポイポ(あなたはいつ結婚するの?)』を引用している。ポリネシアの強烈な陽光による輝くような原色的色彩で彩られたポリネシアの情景も秀逸な出来栄えを示しているが、本作で最も注目すべき点は様々な説が唱えられる謎多き象徴性にある。例えば本作に用いられる名称『エア・ハエレ・イア・オエ?(あなたは何処へ行くの?)』が誰に向けられて誰が発しているのか?という点や、前景の若い女性が抱く南国風の果物の意味、4人の登場人物の交わらない視線、画面上部の緑色と赤色の樹木の葉など本作にはゴーギャンが己の内面へ抱いた(南国タヒチに対する)様々な象徴性が示されていると考えられているが、その解釈については当時より様々な説が唱えられており、もはやその真意は画家自身しかわからないのであろう。しかし本作の象徴性と南国独特の生命的な色彩との原始的な力の連動性は、観る者に対して強烈な心象を残すことに成功している。

関連:『ナフェア・ファア・イポイポ(あなたはいつ結婚するの?)』

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ジャワ女アンナ(アイタ・パラリ・テ・タマリ・ヴァヒネ・ジュディット)

 (Annah la Javanaise. Aita Tamari Vahina Judith te Parari) 1893-94年
116×81cm | 油彩・画布 | 個人所蔵(ベルン)

総合主義(サンテティスム)の創始者のひとりであり、後期印象派を代表する画家ポール・ゴーギャンの傑作『ジャワ女アンナ(アイタ・パラリ・テ・タマリ・ヴァヒネ・ジュディット)』。1893年の夏にタヒチからパリへと帰国したゴーギャンが同地で制作したと推測されている本作は習慣的に『ジャワ女』と呼称されているものの、描かれる人物については画商アンブロワーズ・ヴィラールの紹介で知り合った、セイロン出身の少女アンナ(当時13歳)であると考えられており、画家は1894年にパリのヴェルサンジェトリクス街に構えたアトリエで彼女と同居していたことが知られている。本作の原題となる『Aita Tamari Vahina Judith te Parari(アイタ・パラリ・テ・タマリ・ヴァヒネ・ジュディット)』の意味は「小娘ジュディットはまた汚れていない(処女である)」であり、ここにゴーギャンが本作へ込めた真の意図や本質的かつ皮肉的な象徴性を読み解くことができる。原題にある「小娘ジュディット」は画家の友人であった作曲家ウィリアム・モラールの(アンナと同年の)13歳となる義理の娘ジュディットであると推測されており、ジュディットは義父モラールを心から尊敬(崇拝)していた。純真性・処女性を強調したブルジョワ階級の都会的な娘ジュディットの名を原題に冠しながら、原始的な美しさを兼ね備えた同年齢のアンナを描くことによって、ゴーギャンは金銭以外に魅力と制作意欲を感じなかった都会への皮肉と(タヒチを見出した)己の美の信念を表したのだと考えられる。また本作に描かれるアンナの足元には(アンナのペットである)一匹の猿タオアが配されており、本作の異国性と象徴性を強調している。表現手法に注目しても構成的な平面性や水平・垂直性、鮮烈で刺激的な色面が強調される画面など本作から醸し出される総合主義独特の雰囲気や様式的特徴はこの頃制作された画家の作品の中でも特に優れた出来栄えを示している。

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マナオ・トゥパパウ(死霊は見守る、死霊が見ている)


(Manao Tupapau (L'esprit des morts veille)) 1892年
73×92cm | 油彩・画布 | オブライト・ノックス美術館

後期印象派を代表する画家であり、総合主義の創始者のひとりでもあるポール・ゴーギャン第一次タヒチ滞在期の傑作『マナオ・トゥパパウ(死霊は見守る、死霊が見ている)』。本作は1891年4月から1893年6月までフランス領ポリネシアに属する南国の島タヒチに滞在した期間≪第一次タヒチ滞在期≫に制作された作品で、同島で画家と愛人関係になり共に生活(同棲)していた13歳の現地民テハアマナ(通称テフラ)をモデルに描かれている。本作の制作動機については画家の自伝≪ノア・ノア≫で、次のように語られている。「私が家に帰り、ランプに灯りを灯そうとマッチを擦ると、テフラが裸でうつ伏せのまま、恐怖で大きく目を見開き、私をじっと見つめていた。その目はあたかも燐光が流れ出ているかのようであり、私はこんなにも美しい彼女を見たことが無かった。」。タヒチの現地民は伝統的に死霊に対して大きな恐れを抱いており、本作で描かれるテフラも、薄暗い夜の中で見た燐光を死者の魂と信じて、恐れ戦いていたのであろう、≪ノア・ノア≫に記されるよう、目を見開き、身体を硬直させながら観る者(ゴーギャン)を直視している。また画面の左奥にはテフラが見た(又は感じた)死霊が闇の中に潜むように(画家の言葉によればひとりの少女の姿で)横顔を覗かせている。本作の複雑な象徴性や心理的表情の解釈については諸説唱えられているも、一般的にはテフラが体験した非現実的な神秘と超自然的な恐怖を、(楽園であるタヒチにも潜む)生死の象徴として表現し、それを本作で証明したと考えられている。なお本作の寝台に横たわる裸婦の構図や画面展開は印象派の先駆者エドゥアール・マネの代表作『オランピア』から着想が得られていることが知られている。

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ネヴァモア(横たわるタヒチの女)


(Nevermore. O Tahiti) 1897年
60×116cm | 油彩・画布 | コートールド美術研究所

近代絵画の大画家ポール・ゴーギャン第2次タヒチ滞在期屈指の名作『ネヴァモア(横たわるタヒチの女)』。ロンドンのコートールド美術研究所に所蔵される本作は、1895年7月から没するまで滞在した、所謂≪第2次タヒチ滞在期≫に制作された作品で、扱われる画題や画面展開から5年程前に手がけられた第1次タヒチ滞在期の代表作『マナオ・トゥパパウ(死霊は見守る、死霊が見ている)』のヴァリアントとも推測されている。画家自身はモンフレーに宛てた手紙の中で「(ポーの大鴉ではなく)見張りをする悪魔の鳥」と否定しているものの、アメリカを代表する小説家兼詩人エドガー・アラン・ポーによる詩≪大鴉≫に記された「二度と無い(ネヴァーモア)」と鳴く神秘の鴉との明らかな関連性が指摘されている本作では、画面上部やや左側の窓に≪悪魔の鳥≫として象徴的で平面装飾的な青い鳥が描かれており、横たわる裸婦を見張っている。そして見張られる裸婦の恐々とした表情を浮かべながら視線を鳥の方へと向けており、その背後では二人の人物(女性)が密談を交わしている。本作に描かれる横たわる裸婦の暗喩的(象徴的)で意味深げな描写には、『マナオ・トゥパパウ』同様、印象派の先駆者エドゥアール・マネの代表作『オランピア』に重要な典拠が得られている(なおマネがかつて≪大鴉≫の石版画を制作していたことも重要視すべき点である)。画家自身の言葉「単純な裸体によって、ある種の野蛮な豪華さを暗示したかった。全体はわざと暗く悲しい色彩の中に沈んでいる。この豪華さをは絹でもビロードでも麻でも金でも馬鹿な女でもない。純粋に画家の手で紡ぎだされた豊かな質感(マティエール)である。人の創造力のみがこの空想上の住居を飾ることができるのだ」に従えば本作は裸婦の純粋な描写の昇華と解釈されるが、豊かで多様な色彩の表現は秀逸の出来栄えであり、作品の物語性を排除し絵画としての表現描写に特化した展開でも『マナオ・トゥパパウ』とは好対照である。

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ヒナ・テ・ファトゥ(月と大地、月と地球、月と地の神)


(Hina Te Fatou (La lune et la terre)) 1893年
114.3×62.2cm | 油彩・画布 | ニューヨーク近代美術館

総合主義の確立者のひとりポール・ゴーギャン第1次タヒチ滞在期の最も重要な作品のひとつ『ヒナ・テ・ファトゥ(月と大地)』。本作はタヒチのマリオ族に伝わる古代ポリネシアの神話≪月の神ヒナと大地の神ファトゥ≫の風習に典拠を得て制作された作品である。≪月の神ヒナと大地の神ファトゥ≫とは月の神ヒナが必ず死が訪れる哀れな人間が再度、生を受けられる(生き返る、又は不死)ように大地の神ファトゥへ懇願するものの、ファトゥがその願いを拒否するという逸話で、ゴーギャンは古代ポリネシアの神話から数多くの作品を生み出している。画面中央やや左側へ裸体の全身像にて描かれる背を向けた月の神ヒナは、画面右上に配される、まるで彫刻のような大地の神ファトゥへ縋るように人間の生を懇願している。大地の神ファトゥは月の神ヒナと視線を交わすことなく厳しい表情を浮かべており、ヒナの懇願を拒絶していることは一目瞭然である。全体的には非常に象徴的な本主題をゴーギャンは非現実的な様子で描写しているが、構成要素ひとつひとつに注目してみると、(特に月の神ヒナの裸体など)現実味を感じさせる表現が用いられていることは特に注目すべきである。また背を向けた月の神ヒナの姿態はエジプト美術からの影響が色濃く反映しており、この頃の画家の様式的傾倒を見出すことができるほか、一部の研究者からは新古典主義最後の巨匠ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルの傑作『泉』からの引用も指摘されている。さらに色彩表現に注目しても、太く明確な輪郭線に囲まれた面を平面的に描写し、その面によって構成される各対象の色彩的対比、特に月の神ヒナの明瞭な褐色的肌色と大地の神ファトゥの暗く沈んだ黒色に近い肌の色、ファトゥの下に描かれる鮮やかな緑色の植物とそのさらに下の毒々しさすら感じさせる濃密な水溜りの赤色の対比は、観る者に幻覚的で夢想的な感覚すら与える。なお本作はゴーギャンが本作を制作した1893年の6月に帰国しデュラン=リュエルの画廊で開催した個展に出品された際、印象派の巨匠エドガー・ドガが購入した作品としても知られている。

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マハナ・ノ・アトゥア(神の日)


(Mahana no atua (Jour de Dieu)) 1894年
66×108cm | 油彩・画布 | シカゴ美術研究所

後期印象派を代表する画家であり、近代絵画様式の確立者のひとりでもあるポール・ゴーギャン第4次ブルターニュ滞在期の代表作『マハナ・ノ・アトゥア(神の日)』。本作はゴーギャンが第1次タヒチ滞在(1891年4月-1893年6月)での制作活動で金銭的にも精神的にも行き詰まりを感じ、個展を開催しようと一時的にフランスへと帰国した、所謂、第4次ブルターニュ滞在期(1894年初頭-同年12月)に制作されたと推測される作品で、一般的には(おそらく)パリを拠点としていた時に手がけられたであろうと考えられている。画面前景には極めて装飾的に描かれる南国の強烈な陽光に光り輝く水辺が描かれ、その水際には三人の人物が配されている。この三名には誕生(身体の前面をこちらに向け小さく横たわる者)から生(水辺で髪を梳かす女性)、そして死(背中を向けて横たわる者)へと経過する人の一生の象徴化であると考えられており、ゴーギャンが抱いていた死生観や人生への不安など精神的心理を見出すことができる。そして生を謳歌する髪を梳かす女性の背後にはタヒチ文化を代表する神像である祭壇マラエに祭られる創造神タアロアが配されており、神への供物を運ぶ者などその周りを複数の女性らが囲んでいる。さらにこれらの構成要素は、画家が己の遺書としてタヒチで制作した自身の最高傑作となる『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』へとつながる重要な因子のひとつともなっている。また表現様式に注目しても、サンテティスムの洗練を思わせる神秘的で奇抜な(特に前景の水辺の)色彩表現や、タヒチ滞在時の作品には感じられた劇場的な個性と感情の喪失など、明確な解答的構成・表現となっていることなどは特筆すべき重要点に数えることができる。

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ヴァイテ・グーピルの肖像(若い女の肖像)


(Vaite Goupil, Portrait de jeune fille) 1896年
75×65cm | 油彩・画布 | オルドルップガード・コレクション

近代絵画様式の確立者ポール・ゴーギャンを代表する肖像画作品のひとつ『ヴァイテ・グーピルの肖像(若い女の肖像)』。本作はフランスから南国タヒチへの入植者であり、同地の裕福な商人かつ弁護士(法律家)でもあったオーギュスト・グーピルの末娘ジャンヌ・グーピル(タヒチ語ではヴァイテ・グーピル)の9歳の姿を描いた肖像画作品である。画面中央やや右側へ配される前髪を切り揃えたジャンヌはほぼ真正面から捉えられており、装飾が施された木製の椅子へ斜めに腰掛ける姿態は伝統的な肖像画様式を連想させる。末娘ジャンヌの表情は多少緊張の色が示されているかのように無表情で客観的印象を観る者に与えている。また背景は紫色に近い藍色と桃色とで二分される壁紙の中へ、末娘の純潔を象徴する花柄が丹念に描き込まれている点は本作の最も注目すべき点のひとつである。肖像画の依頼主オーギュスト・グーピルはゴーギャンの前衛的芸術精神を既知であったが故、肖像画の完成形にはやや心配の念を抱いていたものの、完成後の作品を観た同氏は肖像画の出来栄えに満足し、ゴーギャンを同家の子供らの絵画教師として迎えたことが知られている。この依頼主オーギュストの印象と行動からも理解できるよう、本作においてはゴーギャンの特徴的なプリミティブ(原始)的表現や野心的挑戦性は強く示されておらず、依頼主の意向や満足度を優先させていることが伝わってくるものの(※ゴーギャンは当時、金銭的な困窮に陥っていた)、強烈な背景の色彩や装飾、ジャンヌ・グーピルの平面的な胴体の表現などにはゴーギャンの確固たる信念と個性を感じることができる。

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ナヴェ・ナヴェ・マハナ:かぐわしき日々


(Nave Nave Mahana (Jours délicieux)) 1896年
96×130cm | 油彩・画布 | リヨン美術館

後期印象派の画家ポール・ゴーギャン第2次タヒチ滞在期の代表作『ナヴェ・ナヴェ・マハナ:かぐわしき日々』。一度帰国したものの再び南国タヒチへと戻ってきた第2次タヒチ滞在期に制作された作品である本作は、現地の人々に取材した群衆的情景を描いた作品で、ゴーギャンのフリーズ(古代ギリシア・ローマ建築において石柱の上に置かれた「まぐさ石(アーキトレーヴ)」のさらに上へ乗せられる装飾が施された石材)風表現への探求が示されている。フリーズを連想させる横長の画面の中央へは現地の民族的な衣服を身に着けた5名の若い女性が配されており、各々が象徴的な姿態で立っている。ほぼ同様の髪型で自身の影も描かれない人物表現は絵画としての平面性がよく表れており、装飾的効果も高い。この女性らの中で最も注目すべき点は右から2番目に配される頭に花輪と赤い花柄のパレオを身に着けた少女にあり、ひとりだけ(あたかも強調するかのように)深い緑色の陰影に包まれるこの少女については、一部の研究者から愛娘アリーヌの肖像とする説も唱えられている。さらに5人の女性らの周囲には地面に座り込む3名の人物が配されており、立像と坐像の人物的対比が考慮されている。さらに背景や画面の構成要素として描かれる複数の細い木々や白い花、赤々とした平面的な大地そのものの色彩表現もゴーギャンの特徴が良く表れており、観る者の視線を惹きつける。

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我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか

 (D'ou venons-nous? Que Sommes-nous? Ou allons-nous?) 1897年 | 139×374.5cm | 油彩・麻 | ボストン美術館

後期印象派の代表する巨匠にして総合主義の創始者ポール・ゴーギャンの画業における集大成的な傑作『我々はどこから来たのか、我々は何か、我々はどこへ行くのか』。1895年9月から1903年5月まで滞在した、所謂、第2次タヒチ滞在期に制作された作品の中で最高傑作のひとつとして広く認められる本作に描かれるのは、ゴーギャンが人類最後の楽園と信じていたタヒチに住む現地民の生活やその姿で、本作にはゴーギャンがそれまでの画業で培ってきた絵画表現はもとより、画家自身が抱いていた人生観や死生観、独自の世界観などが顕著に示されている。完成後、1898年7月にパリへと送られ、金銭的な成功(高値で売却)には至らなかったものの、当時の象徴主義者や批評家らから高い評価を受けた本作の解釈については諸説唱えられているが、画面右部分には大地に生まれ出でた赤子が、中央には果実を取る若い人物(旧約聖書に記される最初の女性エヴァが禁断の果実を取る姿を模したとも考えられている)が、そして左部分には老いた老婆が描かれていることから、一般的には≪人間の生から死≫の経過を表現したとする説が採用されている。また老婆の先に描かれる白い鳥の解釈についても、言葉では理解されない(又は言葉を超えた、言葉の虚しさ)を意味する≪神秘の象徴≫とする説など批評家や研究者たちから様々な説が唱えられているほか、画面左部分に配される神像は、祭壇マラエに祭られる創造神タアロア(タヒチ神話における至高存在)とする説や、月の女神ヒナとする説が唱えられている。さらに本作を手がける直前に最愛の娘アリーヌの死の知らせを受けたこともあり、完成後、ゴーギャンはヒ素(砒素)を服飲し自殺を図ったことが知られ、それ故、本作は画家の遺書とも解釈されている。本作に示される、強烈な原色的色彩と単純化・平面化した人体表現、光と闇が交錯する独特の世界観はゴーギャンの絵画世界そのものであり、その哲学的な様相と共に、画家の抱く思想や心理的精神性を観る者へ強く訴え、問いかけるようである。

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白い馬

 (Le Cheval blanc) 1898年
140×91.5cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

後期印象派を、そして総合主義を代表する画家ポール・ゴーギャン晩年期の典型的な作品『白い馬』。画家の友人である薬剤師の依頼により制作された本作は、おそらくパルテノン神殿東側の浮き彫り彫刻に着想を得て描かれた≪白馬≫を主題とした作品である。画面前景となる水辺で脚を休め水を飲む白馬は一見すると穏健な姿で描かれているが、そこに用いられる色彩は白色と緑色という非常に幻想性に溢れる彩色であり、この為に本作は依頼主から受け取りを拒否されている。ゴーギャンが娘の死をきっかけに自殺を図った(未遂に終わる)翌年に制作された本作に描かれる白馬に関する解釈については、ポリネシアの伝説から聖性の象徴とする説や、黙示録に記された死を告げる青褪めた馬とする説など諸説唱えられているが、画家の真意については依然として謎に包まれたままである。さらに画面中景から遠景にかけて配される二頭の茶色の馬と騎手らは楽園や自然との共存を象徴していると推測されているが、この二頭の馬と騎手らは画面左側へと歩みを進めており、もう二度と戻らないかのような一抹の不安すら感じさせる印象を観る者に感じさせる。そして画面全体を包み込む静謐な雰囲気と瑞々しく幻想的な色彩表現が本作の解釈をより困難なものとしている。何にせよゴーギャンの晩年期特有のやや陰鬱でメランコリックな精神性を強く感じさせる本作は、自殺未遂後の画家の作品の特徴を良く示しており、画家の生涯を研究する上でも重要視されている。なおゴーギャンは本作から約3年後の1901年にも馬と騎手を主題とした作品『浅瀬(逃走)』を手がけている。

関連:1901年制作 『浅瀬(逃走)』

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叫び声

 (Appel) 1902年
130×90cm | 油彩・画布 | クリーヴランド美術館

近代絵画様式の確立者のひとりポール・ゴーギャン最晩年期の典型的な作例のひとつ『叫び声』。本作はゴーギャンが最晩年に訪れたヒヴァ・オア島で制作された作品で、画家がこれまでの画業で得てきたタヒチでの霊感的表現や対象構成と、現地での同調的傾向の融合を見出すことができる。画面中央には一方は淡い桃紫色の衣服を身に着けた、もう一方はパレオ風の腰布を巻いた上半身が裸体の女性が配されており、画面ほぼ中心に位置する衣服を身に着けた女性は意味深げに視線を本作を観る者へと視線を向けている(※これは画家へと向けられた視線と解釈することもできる)。さらに画面右側には大地に座する裸婦が背後から描かれており、視線を右側遠方へと向けている様子である。さらに画面下部には石の隙間から茎を伸ばし花弁を開かせる白い花が象徴的に配され、画面上部には赤い実をつけた幹の太い樹木など自然的風景が丹念に描き込まれている。本作を構成する人物、植物、木々、そして地面などはゴーギャンの他の作品にも登場する要素であり、画家自身による過去の作品の再構成的側面としても捉えることができる(ゴーギャンはこのような構成要素の流用を多用している)。本作で最も注目すべき点は人間の感覚を超えた非現実的な場面の表現と画題に対する象徴性への回帰にある。これまでの作品にも登場した赤々とした大地と自然が残る遠景の緑色との色彩的対比は観る者にどこか現実離れした厭世的かつ同地への同調な精神性を感じることができ、また≪叫び声≫と題された名称と、(暴力的にすら感じられる本作の色彩とは対照的な)静寂感、静謐感が漂う全体の雰囲気は、晩年期におけるゴーギャンの内面性が滲み出ているかのようである。

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妖術使い:ヒヴァ・オア島の魔法使い


(L'enchanteur ou le sorcier d'Hiva Oa) 1902年
92×73cm | 油彩・画布 | リエージュ美術館

近代絵画様式の確立者のひとりポール・ゴーギャン最晩年の代表作『妖術使い:ヒヴァ・オア島の魔法使い』。画家の最晩年期となる1902年に制作された本作は、当時、まだ西洋文化が浸透していなかった未開の地(人食い人種が住んでいると考えられていた)であるタヒチ北東のマルキーズ諸島の主島≪ヒヴァ・オア島≫の儀式を司る原住民魔術師(魔法使い)パプアニを描いた作品である。画面中央から左側へ配される真紅の外套を身に着けた魔術師パプアニは右手親指と人差し指で小さな白花を摘み、後部に描かれる原住民の2人の婦人に差し出している。魔術師パプアニの視線はまどろみに包まれたかのように空虚な印象でありながら、不思議と野性味と生命力に満ち溢れている。パプアニの背後に描かれる樹の傍の2人の婦人はゴーギャンが同時期に制作した他の作品からの転用であることが知られており、両作品の関係性については今なお研究が進められている。さらに魔術師パプアニの顔面と対角線上となる画面右下には幻想性豊かな狐と野鳥が配されているが、これはマルキーズ諸島の古代信仰を意味していると考えられている。本作で最も注目すべき点は画家の空想性と夢遊性に溢れた光と色彩の表現にある。魔術師パプアニに用いられる強い原色的な赤色と濃紺の衣服は西洋絵画の伝統的な宗教的色彩と共通しているものの、そこから生み出される印象は全く異なるものであり、本作においてはゴーギャンが心象として抱いた魔術師の不可思議性や恐怖的感覚を見出すことができる。また人物などが配される画面左側と動物達が配される右下、そして遠景として描かれる森林には比較的強い光彩が用いられており、さらに中景の灰褐色で表現される小川が光によって鈍く輝いている。これらの表現が明確な色面と互いに相乗し合うことで、本作中にある種の調和性と自然(又は原始)の不変的神秘性を与えている。

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未開の物語(野蛮な物語)

 (Contes barbares) 1902年
130×89cm | 油彩・画布 | フォルクヴァング美術館

後期印象派随一の巨匠であり、近代絵画様式の確立した偉大なる画家でもあるポール・ゴーギャン最晩年の傑作『未開の物語(野蛮な物語)』。ゴーギャンの没地となったヒヴァ・オア島アトォオナで制作された本作は、画家の使用人カフィの養女トホタウア(赤毛の女)と現地の若い娘(黒髪の女又は男)をモデルにヒヴァ・オア島の情景を描いた作品であるが、そこへ幻視したブルターニュ時代の画家ヤコブ・メイエル・デ・ハーンが描き込まれてことが最大の注目点である。画面中央に配された黒髪の人物(女性か男性か判別はし難い)仏陀のように結跏趺坐しており、その表情も実に落ち着きを感じさせる。また黒髪の人物より手前に描かれる赤毛の女は、タヒチの現地民らしく豊満で原始に溢れた裸体が真横からの視点により強調されている。そして黒髪の人物の背後には獣の足をもった画家ヤコブ・メイエル・デ・ハーンは緑色の瞳を怪しく輝かせながら思惑深げに座している。ゴーギャン自身は本作について一切言及していないものの本作に描かれる2人の現地民は何物にも汚されていない(ゴーギャンを魅了した)力強い原始的な純粋性を、画家ハーンはそれを腐敗させる西洋の合理性を象徴していることは明らかであり、(人物同士ではなく)観る者へと向けられる登場人物の視線はその疑問と答えを問うているかのようである。また平面化が著しい背景の昼か夜かも分からない重々しい雰囲気の描写や、ヒヴァ・オア島に咲く植物の(毒々しいまでの)濃密な色彩表現は本作に示される謎めいた象徴性をより強調する効果を生み出している。

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