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ポール・ゴーギャン(ポール・ゴーガン) Paul Gauguin
1848-1903 | フランス | 後期印象派・象徴主義
後期印象派を代表する画家。印象主義の筆触分割に異議を唱え、それへの反発としてポール・ゴーギャンと
エミール・ベルナールが提唱し、生み出された描写理論≪クロワゾニムス(対象の質感、立体感、固有色などを否定し、輪郭線で囲んだ平坦な色面によって対象を構成する描写)≫と、表現≪総合主義(別称:サンテティスム。クロワゾニムスを用いながらイメージを象徴として捉え、絵画上での平面的な単純化を目指す表現主義)≫によって表現としての新たな様式を確立。象徴主義における最も重要な流派(総合主義は広義においては象徴主義)であるほか、ナビ派にも多大な影響を与えた。また後年タヒチでの絵画制作など、プリミティヴィズム(原始主義)の先駆的な活動をおこなう。1848年、熱烈な共和主義者のジャーナリストであるクロヴィス・ゴーギャン(父)とアリーヌ(母)の間にパリで生まれる。翌年、ルイ・ナポレオンの台頭によってフランス第二共和政が危うくなると、一家で南米のマリへと逃れる(航海途中で父が急死)。1855年までリマで過ごすも、祖父ギヨーム・ゴーギャンの死により、遺産相続のためにパリへと帰国。幼少期の南国リマでの体験は後年のタヒチ移住への重要な役割を果たした。帰国後に入学した神学中学校を卒業後は、水夫として主に海上で過ごし、1871年(23歳)からは株式仲買商ベルタンの店に勤め、才能を発揮。また同年から絵画を本格的に学び始める。1873年に妻メット・ソフィネ・カーズと結婚、翌年
カミーユ・ピサロと出会い、その後、
ピサロを通じて印象派の画家たちと知り合う。1876年、サロン初入選。1879年からは
ピサロの助言もあり印象派展(第四回)に参加、最後の印象派展となる第八回まで出品し続けた。1881年、
ピサロや
セザンヌと共に絵画を制作。1883年、株式仲買商を辞めて画業に専念することを決意(これが生涯続く困窮や妻との不仲のきっかけとなった)。1886年、
エドガー・ドガと知り合うほか、総合主義の共同提唱者となる
エミール・ベルナールや(後のポン=タヴェン派の代表的な画家となる)シャルル=ラヴァルと出会い、同1886年(第一次)、1888年(第ニ次)、1889年(第三次)と三度にわたりブルターニュ地方のポン=タヴェンで制作活動をおこなうなどブルターニュ原理主義(ポン=タヴェン派)が生まれる。またその間の1888年には
エミール・ベルナールと共に総合主義を成立させるほか、
フィンセント・ファン・ゴッホの誘いを受け、南仏アルルを訪れるが、二人の共同生活は
ゴッホの耳切り事件などもあり、わずか二ヶ月で終止符を迎えた。1889年、パリ万国博覧会で絵画史上最初の象徴主義展を開催。1990年、ルドン、モンフレー、マラルメなど象徴主義の画家たちと交友を重ねる。1891年、
エミール・ベルナールと総合主義の発端者を巡り離別(喧嘩別れ)。同年、憧憬であった熱帯地タヒチへ旅立つ。その後、健康状態の悪化や経済的困窮のために一度帰国するが、1895年に再訪すると没するまでタヒチへ留まった。同地では肉体的、精神的、経済的、家族など数々の困難に見舞われるも精力的に制作活動をおこなう。1898年、娘アリーヌの死によって深い悲しみと絶望に襲われ、『我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』など遺書的な大作を仕上げ、自伝≪ノア・ノア≫を発表後、自殺を試みるも失敗。パペーテの病院に入院。1902年、アトゥアナの教会と対立。また心臓病と梅毒による健康の悪化により帰国を考えるも、モンフレーの反対により同地に留まる。翌年、原地民を擁護し官憲や教会(カトリック司教)に反抗。裁判で禁固三ヶ月の判決を受けるも、同年(1903年)5月8日に心臓病によって死去。