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ポール・セザンヌ Paul Cézanne
1839-1906 | フランス | 後期印象派
近代絵画の父と呼ばれ、20世紀絵画の扉を開いた後期印象派を代表する画家。多角的な視点の採用、対象の内面に迫る心情性に富んだ形体・色彩の表現、単純化された堅牢な造形性など印象主義的なアプローチとは異なる、独自性に溢れた革新的な表現方法によって絵画を制作。また「印象派より永続的で堅牢なものを」と、印象派的な過度の分析法に反対の意を表し、造形的な画面の構成に力を注いだ。長く正当な評価を得ることはできなかったものの、自然などのモティーフを前にしたときの感覚を重要視した表現は、数多く生まれた世紀末〜20世紀初頭の絵画様式、特にパブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックによって提唱・創設されたキュビスムの形成に多大な影響を与えた。なお画家の個性的な表現手法は19世紀フランスの画家
アドルフ・モンティセリから受けた影響が色濃く反映している。セザンヌは静物画や風景画を好み、これらの画題で幾多の作品を残しているが、肖像画や自画像、水浴図に代表されるモニュメンタルな大構図の作品でも優れた作品を手がけている。1839年、当時結婚はしていなかったものの、南仏の小さな町エクス=アン=プロヴァンス(通称エクス)で帽子の販売業を営んでいた裕福な父ルイ=オーギュスト・セザンヌと母アンヌ=エリザベート・オノリーヌの間に長男として生まれる。両親が正式に結婚(1844年)した後の1848年、父ルイ=オーギュスト・セザンヌが知人と共にセザンヌ・カバソール銀行を設立、事業は成功しセザンヌ家はさらに裕福になる。少年時代(1852-58年)にエミール・ゾラと知り合い、詩作や絵画の創作に熱中しながら友情を育む。1858年エミール・ゾラがパリへと移住。1859年から父の希望で法律を学ぶためエクスの大学に入学するが、その就学は必要最小限にとどめ、本格的な絵画を学び始める。次第に画家への想いが強くなり、1861年、法律の勉強を放棄しパリへと旅立つ(父との対立が本格化する)。同年、アカデミー・シュイスに入り、
カミーユ・ピサロや
ギヨマンらと出会う。中でもセザンヌにとって最も良い理解者となった
ピサロとの出会いは画家にとっても重要な転機となった。その後、一時的にエクスへと帰郷するも翌年、パリへ再来、この年にカフェ・ゲルボワで
クロード・モネ、
ルノワール、
アルフレッド・シスレー、
フレデリック・バジールら後に初期印象派を形成する主要な画家たちと知り合う。またこの頃、色彩の魔術師とも呼ばれた
ロマン主義の巨匠
ウジェーヌ・ドラクロワと、
写実主義の大画家
ギュスターヴ・クールベを崇拝に近いほど賞賛し、精力的に研究をおこなう。その後、
エドゥアール・マネや
エドガー・ドガなどと知り合い、当時の印象派の画家たちと行動を共にしていたものの、近代都市と変貌していたパリの雰囲気に馴染むことができず、故郷エクスとパリを往復する生活を送りながら第1回、第3回の印象派展に参加するが、作品はほとんど理解されなかった。1772年、後に妻となるオルタンスとの間に息子ポール誕生。1886年、数年前から不仲となっていたエミール・ゾラが、主人公の失敗した画家のモデルにセザンヌを反映したと思われる小説≪制作≫を出版、二人の間に決定的な亀裂が生じる。また同年、父ルイ=オーギュスト・セザンヌが死去。父が残した莫大な遺産により生涯の経済的不安から開放される。1880年代以降はエクスに戻り、プロヴァンスの風景画、人物画、静物画、水浴画など、後にセザンヌを代表する作品を制作することに専念。1890年代後半から次第に評価を得るようになり、晩年期には高額で絵画が取引されるようになったものの、糖尿病など健康状態が悪化。精神状態も不安定になり、対人関係が困難となった。1906年、偉大なる巨匠としての地位は確立されていたものの、エクスのアパートで肺炎により死去。