Introduction of an artist(アーティスト紹介)
画家人物像
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クロード・モネ Claude Monet
1840-1926 | フランス | 印象派




印象派の中で最も名が知られた同派を代表する巨匠のひとり。自然の中で輝く外光の美しさに強く惹かれ、その探求と表現に生涯を捧げる。混合させない絵具での筆触分割(色彩分割とも呼ばれ、細く小さな筆勢によって絵具本来の質感を生かした描写技法)によって自然界の光(太陽光)と大気との密接な関係性や、水面に反射する光の推移、気候・天候・時間など外的条件によって様々に変化してゆく自然的要素を巧みに表現した作品を手がける。戸外風景を描いた作品が主要であるが、人物画や室内画、静物画なども残すほか、「積みわら」「ポプラ樹」「ルーアン大聖堂」「睡蓮」など画家の代表作となる連作的作品も多く残されている。1840年、パリのラフィット通り45番地で食品雑貨商の家に次男として生まれ、経済的状況からセーヌ河口の港町ル・アヴールに転居。10代中頃には絵の才能を見せ始め、1858年、18歳で対岸で活動していた風景画家ウジェーヌ・ブーダンから自然の中に潜む美を学び、同氏と共に屋外での制作活動を始める。またオランダ出身の風景画家ヨハン・バルトルト・ヨンキントの作品からも影響を受ける。翌年、本格的に絵画を学ぶためにパリへ出て自由画塾アカデミー・シュイスに入り、この時、同画塾でカミーユ・ピサロと出会う。1860年に兵役で入隊するも病にかかり帰家、1862年に入ったシャルル・グレールの画塾で、ルノワールアルフレッド・シスレーフレデリック・バジールらバティニョール派(後の印象派)と呼ばれる画家たちと知り合い、共にフォンテーヌブローの森で作品を制作。1863年エドゥアール・マネがサロンに出品した『草上の昼食』、1865年に出品した『オランピア』に示される伝統破壊的な絵画表現に注目、同氏と交友をもつようになるほか、同年この4人で同画塾を去る。この頃、写実主義の巨匠ギュスターヴ・クールベの作品にも感化を受け、度々サロンに作品を出品しサロンから賞賛と拒否の評価を繰り返すも、依然として経済的困窮が続く。1870年最初の妻カミーユ・ドンシューと結婚、一ヵ月後に普仏戦争が勃発したためにロンドンへと亡命、同地でターナージョン・コンスタブルらの作品から空気遠近法や色彩の表現技法を研究し、翌年オランダを経て帰国。1872年、代表作『印象 -日の出-』を制作。1874年に開かれた第一回印象派展でモネが出典した『印象 -日の出-』を、批評家ルイ・ルロワがル・シャリヴァリ誌で嘲笑する記事を寄稿し掲載された為に、バティニョール派らを始めとした賛同者たちは≪印象派≫と呼称されるようになる(印象派の名称はここに由来する)。1879年最初の妻カミーユが死去。1870年代は未だに困窮が続いていたも、1880年代で展示会が大成功するなど経済的に豊かになる。以降、ロンドンを数回訪れながら精力的に作品制作と展示会(彫刻家ロダンとの合同展も開催している)を開催し、1892年アリス・オシュデと再婚。1910年代初頭に白内障を患い、一時的に作品制作の意欲が著しく衰えるも手術で回復、最晩年には最後の大作『睡蓮』の大壁画を手がけた。1883年から借家で住み始め、1890年には買い取ったジュヴェルニーの自宅兼アトリエで1926年12月6日に死去。享年86歳。

Description of a work (作品の解説)
Work figure (作品図)
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並木道(サン=シメオン農場への道)


(Walk (Road of the Farm Saint-Siméon)) 1864年
81.6×46.4cm | 油彩・画布 | 国立西洋美術館(東京)

印象派最大の巨匠のひとりクロード・モネ最初期を代表する作品のひとつ『並木道(サン=シメオン農場への道)』。本作はモネが23歳の時に、友人フレデリック・バジールや師ウジェーヌ・ブーダンらと共に、セーヌ河口の港町オンフルールから西(トルーヴィル)へ向かう街道にある≪サン=シメオン農場≫近郊の情景を描いた風景画作品である。画面中央下部には右側へと湾曲するサン=シメオン農場への街道(農道)が配されており、道中には植えられた並木からこぼれる木漏れ日が林から落ちる深い影と見事な光彩的コントラストを生み出している。遠景となる画面奥(街道奥)には農場の母屋と思われる質素な建築物の屋根が描き込まれているほか、清々しい青空が広がっている。さらに街道(農道)の両端には背の高い木々が悠々と配され、観る者に高度的な空間の開放感を強調している(本作の縦長の画面構成は伝統的な風景画では珍しいアプローチであり、注目すべき点のひとつである)。本作で特筆すべき点は、やや粘性を感じさせる荒々しい筆触による各構成要素の描写と奔放な光彩の描写にある。特に画面手前の右から左斜めへと向けて勢いよく引かれる肌色の木漏れ日の表現は絵具独特の質感を残しながら遠目には光度の強弱が見事に表現されており、観る者の眼を惹きつける。さらにコローなどバルビゾン派の影響を感じさせる抑制的な色彩がそのような光彩表現をより一層際立たせており、これらの表現にはモネがルノワールと共に取り組むことになる印象主義的表現≪筆触分割≫を予感させる。

関連:『サン=シメオン農場の道』

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草上の昼食(習作)

(Le Déjeuner sur l'herbe) 1865年
130×181cm | 油彩・画布 | プーシキン美術館(モスクワ)

印象派の巨匠クロード・モネ初期の代表作『草上の昼食』。モネが手がけた『草上の昼食』は、印象派の先駆的存在エドゥアール・マネが1863年のサロンへ出品し、大きな論争と批判を巻き起こした問題作『草上の昼食』に強い刺激を受けた若き画家が、マネの『草上の昼食』で表現される≪歴史(古典)ではなく、現在を描く≫という現代性を、よりモニュメンタルにし、戸外の風景の中に人物像を描くことで、さらに一歩進んだ現代性を示そうとの試みから取り組まれた作品であり、本作はその習作(油彩スケッチ)である。さらに画家は『草上の昼食』を1865年のサロンへ出品しようと考え、300×600cmと非常に大きなサイズで制作したものの完成が間に合わなかったほか、写実主義の大画家であるギュスターヴ・クールベから批判を受けたこともあり、応募を止めたとされている(参照:サロン出品用『草上の昼食』)。なおサロン出品用『草上の昼食』は当初マネの手元にあったが、家賃代として当時住んでいた借家の大家に取られ、数年後、モネの元へ再び戻ってきた(取り戻した)時には画面の損傷が著しく、現在残される左側部分と中央部分以外は切り捨てられた。この『草上の昼食』では、後(1869年)に『ラ・グルヌイエール』で完成・誕生することになる印象主義的描写の先駆的表現が示されており、画家の表現様式形成の過程においても非常に重要な作品として位置付けられている。本作(この習作)からは戸外で民衆(市民)らが昼食を楽しむ情景≪現代性≫がありありと伝わってくるだけでなく、モネが前世紀(18世紀)の作品からのロココ的な雅宴性や構図的借用も見出すことができる。

関連:エドゥアール・マネ作 『草上の昼食』
関連:サロン出品用『草上の昼食(左・中央断片)』

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緑衣の女性(カミーユの肖像)

1866年
(La femme à la robe verte (Portrait de Camille))
231×151cm | 油彩・画布 | ブレーメン美術館

印象派の巨匠クロード・モネ1860年代の代表作のひとつ『緑衣の女性(カミーユの肖像)』。1866年、サロンに出品され絶賛された本作に描かれるのは、制作当時はまだ結婚していなかったものの、4年後の1870年には画家の妻となった女性≪カミーユ・ドンシュー≫19歳時の全身肖像である。本作は元々サロンに出品するために画家が(エドゥアール・マネ同名の代表作に着想を得て)制作していた『草上の昼食』が6メートル超の大画面であった為に間に合わず断念し、改めてサロン出品作として4日間という短期間で描かれた作品で、小説家であり印象派芸術の擁護者でもあったエミール・ゾラは本作を「此れは紛れも無く、写実主義を超えた、あらゆる細部を描写する繊細な理解者の、男らしい男の作品である」と評した。本作でカミーユがとる頭髪を気にし後ろを振り向く姿勢は、(作品を)観る者に衣服を見せるかのように背面を中心として構成されている。このカミーユの仕草の自然的で流れるような美しさを始め、質の良さを存分に感じさせる緑と黒のスカートの柔らかな質感や豪華な衣服は、シンプルな暗面の背景の中で際立った存在感を示している。なおモネ自身の言葉によると「只のがらくた、気まぐれに描いた作品」としながらも、本作の対画として位置付けている『ラ・ジャポネーズ』を、約10年後の1875から1876年にかけて制作している。

関連:ボストン美術館所蔵 『ラ・ジャポネーズ』

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揺りかごの中のジャン・モネ


(Jean Monet dans son berceau) 1867年 | 116.2×88.8cm
油彩・画布 | ワシントン・ナショナル・ギャラリー

19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍したフランスの画家であり、印象派最大の巨匠のひとりでもあるクロード・モネ初期の代表作『揺りかごの中のジャン・モネ』。本作はモネと、当時恋人(未婚)関係にあったカミーユ・ドンシューとの間に生まれた息子ジャンを描いた作品である。当時、サロンでの落選もあり経済的困窮が続いていたモネは、身篭っていたカミーユをパリに残し、自身は家族と共にサン=タドレスで暮らしていたが、息子ジャンの誕生をきっかけに一時的ではあるがパリへと戻っていたことが知られている。本作はおそらくその時に制作された作品であると推測されており、画面中央に描かれた生まれたばかりの息子ジャンの無垢な姿には、我が子への強い関心を見出すことができる。絵画作品として本作に注目すると、本作には明らかに印象派の先駆的存在エドゥアール・マネの影響を見出すことができ、特に高い視点からの平面的な構成要素の描写や、花柄のカーテンや乳母の帽子などに見られる大胆な筆触、そして幼子に付き添う乳母の身体の途中で切られた構図展開などは、その最も顕著な例としてしばしば指摘されている。さらに本作の大胆な構図には二本の浮世絵からの影響も有力視されている。なお本作に描かれる揺りかごのとなりの乳母については、(本作を手がけた3年後にモネの正式な妻となる)カミーユとする説の他、カミーユ・ピサロの恋人ジュリー・ヴェリー(当時、カミーユ宅の近所に住んでいた)とする説が唱えられている。

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王女の庭園(シャルダン・ド・ランファント)


(Le jardin de l'infante) 1867年 | 91.8×61.9cm
油彩・画布 | オバーリン大学アレン記念美術館

印象派最大の巨匠のひとりクロード・モネ、初期を代表する作品のひとつ『王女の庭園(シャルダン・ド・ランファント)』。本作はルーヴル美術館2階にある有名なコロナードのバルコニーからの眺望(近代化されたパリの街並み)を描いた、1860年代のモネを代表する作品のひとつである。パリで二度目の万国博覧会が開催された1867年の初めに制作された作品である本作は、画家を初め、ルノワールなど当時の先駆的な画家たちが強く惹かれて盛んに取り組んでいた、当時の近代的風景(近代性)を心象そのままに表現することが実践された戸外制作作品の代表格的な作品でもある。画面下部にはルーヴル宮(現ルーヴル美術館)の庭園として知られる≪王女の庭園≫が描かれており、緑豊かな芝生が画面の中で色鮮やかに栄えている。また王女の庭園の周囲には近代化されたパリの街中を行き交う多くの人々や、都市景観に馴染む美しい並木が描かれており、本作からは写真的な印象すら感じられる。またセーヌ川の奥の風景(遠景)として画面中央には、カルチェ・ラタンの丘に建てられた新古典主義建築における初期の傑作として名高いパンテオンの円屋根が見えており、その左側にゴシック建築随一の建築物であるノートルダム大聖堂が、右側にはヴァル=ド=グラス聖堂が聳えている。さらにその上空では曇りがかった空が広がっており、空間的な開放感を与えている。全体的には写実を機軸に置いた表現手法が用いられており、印象主義者の代表的存在として知られるモネの特徴的な筆触分割(色彩分割)の手法はまだ見出せないものの、前景の街中を行き交う人々の即興的で自由な表現には大きな可能性を感じさせる。なお本作のルーヴル美術館を背にした視点からの景観を描いた画家の意図として、モネの伝統への反抗を指摘する研究者もいる。

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サンタドレスのテラス(海辺のテラス)


(Terrasse a Sainte-Adresse) 1867年
98×130cm | 油彩・画布 | メトロポリタン美術館

印象派最大の巨匠のひとりクロード・モネ初期の代表作のひとつ『サンタドレスのテラス(海辺のテラス)』。本作は画家が幼少期を過ごし、風景画家ウジェーヌ・ブーダンから絵画を学んだノルマンディ地方のル・アヴールより北に位置する郊外の港町サン・タドレスに住むモネの父親アドルフと伯母ソフィー・ルカドル一家の人々を描いた私的な作品である。1867年、結婚はしていなかったものの息子ジャンが誕生した画家は生活費の援助を求める為に父親と伯母が住むサン・タドレスへ赴き、その際、同地で本作が制作されたが、本作の明瞭で輝くような陽光に照らされるサン・タドレスのテラスで寛ぐモネ一族の姿は、画家の逼迫した経済状況を伺い知ることはできないほど幸福的情景に溢れている。画面前景では画家の父親アドルフと伯母ソフィー・ルカドルがテラスに置かれる椅子に座りながら海を眺め、その奥(中景)ではモネの従姉妹となるジャンヌ=マルグリット・ルカドルが親族と談笑している。明確に区別された近景の庭と遠景の海景を組み合わせた構図は大胆な展開であるものの、強く明瞭な陽光によって浮かび上がる登場人物や庭の花々、風に靡く二本の旗(そのひとつはフランス国旗である)、庭の前に広がる海景と港を行き交う数多くの船舶、青々とした高い空などの表現は筆触分割を用いたモネ独特の印象主義的な表現と言うよりも、写実的性質が強いのが大きな特徴である。また色彩描写においてもその性格は同様で、本作には心象や印象に基づいた色彩ではなく、より現実に近い色彩が用いられている。

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かささぎ

(La Pie) 1869年
89×130cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

印象派最大の巨匠のひとりクロード・モネ初期の代表作のひとつ『かささぎ』。1868年暮れから妻カミール・息子ジャンと共に滞在したノルマンディー海岸のエルタトで制作された本作は、一面を雪に覆われた田舎の冬景色を描いた作品で、翌年(1869年)のサロンに出品されるも受理はされなかった作品としても知られている。本作で最も特筆すべき点は、画面の大部分を占める野原に積もった雪の描写にある。白色を多用する雪の風景は陽光と影の関係性やそれらが織り成す効果を探求するのに適しており、力強い大ぶりな筆触によって描写される青を基調とした雪の複雑で繊細な色彩表現など、本作にはモネの野心的な取り組みが顕著に示されているのである。また本作の名称となった画面右側の木戸に止まるかささぎの黒い羽は、白色や中間色が支配する本作の中で際立った存在感を示しており、絶妙なアクセントとして画面を引き締めている(ある種の緊張感を感じさせる)。平行軸を強調する画面中央の雪の積もる柵、それが落す青紫色の影、空の雲、画面右手奥の戸も窓もない家、それらとは対称的な垂直軸を強調するかささぎの止まる木戸、その奥の木々など簡素ながら絵画的奥行きの深い画面構成や、画面右側に配される木々が広げる枝の曲線的な描写も本作の大きな見所である。本作は後のラ・グルヌイエールに通じる、重要な印象主義作品として位置付けられている。

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ラ・グルヌイエール

(La Grenouillère) 1869年
75×100cm | 油彩・画布 | メトロポリタン美術館

印象派最大の巨匠クロード・モネ1860年代を代表する作品のひとつ『ラ・グルヌイエール』。本作に描かれるのは実業家スーランが興した、パリに程近いブージヴァル近郊セーヌ河畔の新興行楽地であった水上のカフェのある水浴場≪ラ・グルヌイエール≫で、1869年夏に友人であるルノワールと共に同地へ赴き、画架を並べ描いた作品としても広く知られている。「蛙の棲み処」という意味をもつラ・グルヌイエールの中央には、「植木鉢(又はカマンベール)」と呼ばれた人工の島があり、本作にもその島に集う人々が描かれているほか、画面右部には水上カフェを、画面下部には水上を行き交う小船を確認することができる。この頃(おそらく)サロン入選を目指していたと推測されていたモネとルノワールは当時、ラ・グルヌイエールで水面に反射する陽光の効果と表現の研究に没頭しており、光によって変化する色彩を、画面上に細かい筆触を置くことによって視覚的に混合させる≪筆触分割≫と呼ばれる表現手法を『ラ・グルヌイエール』の製作によって生み出した。このような点から現在では、近代的な画題(本作では新興行楽地ラ・グルヌイエール)を新たな表現手法(筆触分割)で描くという、所謂≪印象主義≫が本作によって誕生したと位置づけられており、画家の作品の中でも特に注目すべき作品のひとつである。なお本作は残される書簡から習作である可能性も指摘されている。

関連:ルノワール作 『ラ・グルヌイエールにて』

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印象 -日の出-

 (Impression, soleil levant) 1872年
48×63cm | 油彩・画布 | マルモッタン美術館(パリ)

印象派の名称の由来となった、巨匠クロード・モネが手がけた最も有名な作品のひとつ『印象 -日の出-』。本作は画家が10代の頃に住み風景画家ウジェーヌ・ブーダンから自然光(外光)の美しさを学んだ地であるノルマンディ地方のル・アヴールの港町の写真家ナダールのスタジオで開かれた1874年に開かれた第一回印象派展で画家が出典した作品である。当初『日の出』のみの名称で出品されていたが、名称が短すぎるとの指摘を受けて、画家自らが前部に≪印象≫と付け加えた本作は、画家の最も特徴的な手法である筆触分割(色彩分割とも呼ばれ、細く小さな筆勢によって絵具本来の質感を生かした描写技法)を用いて、ル・アヴール港を素描写生的に描いた作品であるが、当時の批評家ルイ・ルロワはル・シャリヴァリ誌に「印象?たしかに私もそう感じる。しかしこの絵には印象しかない。まだ描きかけの海景画(壁紙)の方がマシだ。」と本作を嘲笑する記事を諷刺新聞に寄稿し掲載されたが、この記事によって反伝統のバティニョール派が開催した最初の独立展覧会に出典した画家ら(モネ、ルノワールエドガー・ドガカミーユ・ピサロギヨマンベルト・モリゾセザンヌシスレーなど)は印象派と呼称されるようになった。本風景の海面、船舶、船の漕ぎ手、煙、そして太陽などの構成要素は筆触分割によって、形状や質感の正確性・再現性は失っているものの、大気の揺らぎや、刻々と変化する海面とそこに反射する陽の光の移ろい、陽光による自然界での微妙な色彩の変化など観る者がこの風景の印象として受ける独特の感覚は、英国を代表するロマン主義の風景画家ウィリアム・ターナーの『ノラム城、日の出』に強い影響を受けた画家がより進化(発達)をさせた筆触分割兼印象的描写でなければ表現できなかったものであり、この新たな表現手法こそ当時席巻していたアカデミー的な伝統主義とは決定的に異なるモネのアプローチ方法であった。なおこの第一回印象派展はルイ・ルロワの批評もあって不評に終わっている。

関連:ウィリアム・ターナー作 『ノラム城、日の出』

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アルジャントゥイユの散歩道


(Promenade d'Argenteuil) 1872年
50.4×65.2cm | 油彩・画布 | National Gallery (Washington)

印象派最大の巨匠のひとりクロード・モネ1770年代初期の代表的な作例のひとつ『アルジャントゥイユの散歩道』。本作は画家が1771年12月から翌1772年1月にかけて滞在(居住)した、パリ北西20kmにあるセーヌ川右岸の街≪アルジャントゥイユ≫の散歩道(プロムナード)の風景を描いた作品である。画面中央より下部分の右側に本作の主画題となる散歩道が配されており、その最右側部分にはアルジャントゥイユの行楽地化を表すように婦人らが木陰で休息している。また散歩道のさらに奥(遠景)には近代化を象徴するかのように工場の煙突が描きこまれている。その反対側となる画面左側には土地を象徴するセーヌ川とそこを進む一隻のヨット、そして画面中央から右上にかけて青々とした広大な空が広がっており、画面全体に寂々とした雰囲気を漂わせている。本作ではモネ独特の感覚による色彩表現は姿を表さず、依然として写実性が色濃く残されているほか、印象主義の典型的な筆触分割(色彩分割)による描写手法表れてはいないものの、戸外制作の大きな目的となる明瞭で自然的な陽の光の追求と、それによる絶妙な効果の表現は秀逸の出来栄えを示しており、特に散歩道に差し込む筋となった陽光の表現やセーヌ川に反射する光の描写は観る者の目を奪うばかりである。

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アルジャントゥイユのレガッタ


(Régates à Argenteuil) 1872年頃
48×75cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

印象派最大の巨匠のひとりクロード・モネ印象主義時代の代表作『アルジャントゥイユのレガッタ』。本作はセーヌ川右岸にあるイル=ド=フランス地方の街≪アルジャントゥイユ≫でおこなわれるレガッタ(ボートレース)の準備の情景を描いた作品である。印象派の画家にとってアルジャントゥイユ(沿いのセーヌ川の)の風景や、レガッタ(ボートレース)という競技は最もポピュラーな画題であり、エドゥアール・マネルノワールカミーユ・ピサロアルフレッド・シスレーを初めとしたモネ以外の(印象派の)画家たちも様々な角度からアルジャントゥイユの風景や本画題を描いている。画面中央で水平に配される数隻のヨットと川岸を境にし、揺れ動く水面に映ったその姿は、印象主義の特徴的な大ぶりで大胆な筆触によって表現されており、画家の代表作『ラ・グルヌイエール』、そして『印象 -日の出-』に通じる、この独特の水面の表現の斬新性は観る者を強く惹きつける。また水面や空の青色、ヨットの黄色、画面右側に描かれる二軒の家々の赤色、そして岸辺の自然の緑色と、基本的には(単純な)四色で構成される本作ではあるが、本作から感じられる陽光の輝きの美しさは特に注目すべき点のひとつである。なお本作は完成後、ギュスターヴ・カイユボットが購入し、カイユボットの死後、生前に残していた遺言によって国家へと寄贈された。

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アルジャントゥイユのモネの家の庭(ダリアの咲く庭)


(Le jardin de Monet a Argenteuil) 1873年
61×82.5cm | 油彩・画布 | ワシントン・ナショナル・ギャラリー

印象派の大画家クロード・モネ作『アルジャントゥイユのモネの家の庭(ダリアの咲く庭)』。本作は1871年末にアルジャントゥイユでモネが初めて借りた、サン・ドニ大通りとピエール・ギエン通りに面するセーヌ川近郊の家(モネの友人であったオーブリー=ヴィテ夫人所有の家)の庭を描いた作品である。モネはこの家に1874年まで滞在したが、本作では画家が庭に咲くキク科の多年草で縹色の種類が非常に豊富な≪ダリア≫に強い関心を寄せていたことが明確に示されている。画面中央から左側に描かれる赤色、桃色、橙色、黄色、白色、薄紫色など多様な色彩を奏でるダリアの群生は、眩い陽光を受け、色彩の洪水となり非常に複雑な表情を見せている。その形態もやや写実性が残るものの花のひとつひとつは隣り合う葉や茎などの白色に輝く緑色と対比し、画面の中で鮮やかに映えている。そして、この画面を覆うかのようなダリアの群生と対照的に空間が開放される画面右側部分には一組の男女が仲睦まじげにこの庭を散歩しており、観る者に幸福的な印象を与えている。さらに可視加減により鈍くグレイッシュな色彩で描かれる空と溶け合うかのような、画面中央やや右寄りの借家のおぼろげな表現など、本作の近景と遠景(背景)の絶妙な色彩感覚と繊細な調和性はモネ1870年代の作品の中でも特に優れた出来栄えを示しており、今なお人々を魅了し続ける。なおモネは本作以外にも『アルジャントゥイユのモネの家』などこの家を画題とした作品を複数制作している。

関連:シカゴ美術研究所所蔵 『アルジャントゥイユのモネの家』

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アルジャントゥイユのひなげし


(Coquelicots à Argenteuil) 1873年
50×65cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

印象派最大の巨匠クロード・モネ1870年代を代表する作品のひとつ『アルジャントゥイユのひなげし』。印象派の名称の由来となった『印象 -日の出-』と共に、1874年に開催された第一回印象派展に出品された本作は、しばしばルノワールの『草原の坂道(夏の田舎道)』との関連性・類似性が指摘されているよう、夏のアルジャントゥイユ郊外の坂道を日傘を差した母娘らが下ってくる姿を描いた作品である。パリ北西、セーヌ川右岸の街≪アルジャントゥイユ≫各所の風景を(一時的であるが)画家は精力的に画題として取り組んでいたことが知られており、本作はその中でも特に著名な作品のひとつである。画面左部分から画面右下部へと引かれる微かな筋道を通り、一組の母子がひなげしが咲くアルジャントゥイユ郊外の丘を下っている。この薄青色の裏地の日傘を手にした母と、ひなげしを持つ子は、画家の妻であるカミーユと息子ジャンをモデルに描かれた。また丘の上には、これもルノワールの『草原の坂道(夏の田舎道)』同様、もう一組の(おそらく)親子が配されている。本作で最も注目すべき点は、鮮やかで対比的な色彩の使用と、色彩による画面構成である。ほぼ中央から上下に分けられる本画面は、上部が空の青色と雲の白色が、下部がひなげしの赤色と叢の緑黄色がほぼ全面的に支配している。特にひなげしの赤色と空の青色との鮮明な対比関係は観る者に爽快感と強い印象を与えているほか、白色、緑黄色を的確に配置することによって、それらをより効果的に引き立たせている。さらにほぼ水平に背の高い木々や一軒の家屋を連ねて、ほぼ水平線上へ描くことで上下が分離し過ぎず、画面内に統一感を持たせているのである。

関連:ルノワール作 『草原の坂道(夏の田舎道)』

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アルジャントゥイユの橋

(Port routier, Argenteuil) 1874年
60.5×80cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

印象派の巨匠クロード・モネのアルジャントゥイユ居住時代の代表的作例のひとつ『アルジャントゥイユの橋』。本作はパリの北西、セーヌ川右岸にあるイル=ド=フランス地方の街≪アルジャントゥイユ≫にある橋の情景を描いた作品で、クロード・モネは1871年12月からアルジャントゥイユ滞在し、その美しい風景(主に川の情景)に魅了され、以後、精力的に手がけているが、本作はその中でも色彩分割による印象主義的表現の完成度が非常に高い作品としても知られている。プティ・ジェヌヴィリエ川岸の貸しボート小屋の近くからの視点で制作された本作で最も注目すべき点は、水面に映るアルジャントゥイユの橋や木々や空、対岸のカフェなどの影の表現にある。本作で用いられる色彩分割(絵具を混合させない筆触分割)技法は、明確な形状や描くには適さないものの、その形象を表現するのには非常に効果的な技法であり、本作の水面に映る影の描写は特に秀逸の出来栄えを示してる。また本作の明瞭な色彩による光の表現や瑞々しいアルジャントゥイユの風景の描写も大きな見所のひとつである。画家は本画題を複数制作しており、ワシントン・ナショナル・ギャラリー(該当作品)を始めとした世界の美術館が所蔵している。なお2007年10月8日未明に若者の男女5人が本作を所蔵するオルセー美術館へ侵入し、本作の橋脚部分下部を約10cm破損させたという事件が起こったものの、後日、犯人は逮捕されたほか、現在は作品の修復がおこなわれている。

関連:『アルジャントゥイユの道路橋』

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アルジャントゥイユの鉄道橋(鉄橋)


(Le Pont du chemin de fer, Argenteuil) 1874年
54.5×73.5cm | 油彩・画布 | フィラデルフィア美術館

印象派最大の巨匠のひとりクロード・モネの典型的な印象主義的作品のひとつ『アルジャントゥイユの鉄道橋(鉄橋)』。第1回印象派展が開催された1874年に制作されたと推測される本作に描かれるのは、パリの北西に位置するイル=ド=フランス地方の街で行楽地(歓楽地)としても数多くの人が訪れていた≪アルジャントゥイユ≫を流れるセーヌ川にかかる鉄道橋である。画面左側には本場所が余暇を楽しむ行楽地であることを示すかのようにセーヌ川を進む一隻のヨットが真横から描かれ、画面中央には陽光に照らされ白く輝く鉄道橋の円柱が秩序正しく並んでいる。その鉄道橋の線路上では労働の象徴として白煙を上げながら一列車の蒸気機関車が走っており、近代的で人工的な印象を作品へ与えている。この余暇と労働、自然と人工、そして停滞(定着)と変化などの二面性は当時のモネが大変興味と関心を示していた画題であり、本作にはその典型が示されている。また画面右側には前景として急坂となった川沿いの草原が配されているが、この斬新な構図展開も本作の最も注目すべき点のひとつである。本作の表現手法に目を向けてみても、やや大ぶりの筆触によって整列的に描かれるセーヌ川の水面に映り込む鉄道橋の描写や、前景に配される影の落ちた濃緑色の葉の表現などはモネによる印象主義的表現の特徴が良く表れており、今なお観る者を魅了する。なおモネは本作以外にもオルセー美術館が所蔵する『アルジャントゥイユの鉄道橋』など同主題、同構図の作品を複数枚手がけていることが知られている。

関連:オルセー美術館所蔵 『アルジャントゥイユの鉄道橋』

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カピュシーヌ通り

 (La boulevard des Capucines) 1873年
61×80cm | 油彩・画布 | プーシキン美術館(モスクワ)

19世紀後半のフランスを代表する印象派の巨匠クロード・モネ1870年代の代表作のひとつ『カピュシーヌ通り』。第1回印象派展への出品作としてもよく知られている本作は、オペラ座に面するパリの大通り≪カピュシーヌ通り≫を、写真家でありモネを始めとしたバティニョール派の画家たちと交友していたナダールの仕事場(アトリエ)から眺めた視点で描いた風景画作品である。印象派の画家たちは当時おこなわれていたナポレオン3世によるパリの大改革(都市整備)に近代性を見出し、(カミーユ・ピサロは別として)たびたび画題として取り組んでいたことが知られており、本作もそのような近代的都市風景画のひとつとして位置付けられている。画面の右下から左上にかけて大通りが二分されており、左側は差し込む陽光によって建物や並木が輝きに満ちているが、右側に描かれるカピュシーヌ通りを行き交う人々は建物の影に沈むように暗く描写されている。この行き交う大勢の人々に対して批評家ルイ・ルロワは「無数の黒い涎」と痛烈な言葉を浴びせているが、この黒色とあたかも黄金のように輝く並木や画面奥の建物との色彩的対比は、モネが本作で取り組んだ印象主義的表現の効果が良く表れている。また画面中央最右側へ帽子を被った2人の男性がこの情景を眺める姿が描き込まれており、この客観的傍観者の存在も本作では特に注目すべき点である。なおモネは本作以外にも同時期に同画題でもう1点作品を手がけており、この作品が第1回印象派展への出品作と考察する研究者も多く、更なる今後の研究が期待される。

関連:ネルソン=アトキンズ美術館所蔵 『カピュシーヌ通り』

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草原(ブゾンの原)

 (La Prairie) 1874年
57×80cm | 油彩・画布 | ベルリン国立美術館

印象派最大の巨匠のひとりクロード・モネの美しい良作『草原(ブゾンの原)』。1875年にバティニョール派(後の印象派)の画家たちと結びつきの強かった画商デュラン=リュエルの画廊で開催された第2回印象派展や、1889年に彫刻家オーギュスト・ロダンと共同で開催したモネ・ロダン展への出品作である本作は、当時、画家が住んでいたパリ近郊セーヌ川右岸にあるイル=ド=フランス地方の街アルジャントゥイユの西方に位置するブゾン(ベゾン)の草原で静かに読書する画家の最初の妻カミーユと息子ジャンを描いた作品である。近景として画面下部やや左に開いた日傘を逆さに置き、広く影が落ちる草原に座り込んで読書するカミーユが配されおり、その少し奥となる影の切れ目の向こう側には息子ジャンが画面のほぼ中央に、2本の幹の細い白木が息子ジャンの左側に配されている。そして中景には強い風によって大きく靡く数本の背の高い木々と、それよりやや背の低い木々が点々と、遠景には青味を帯びた小高い山々が描き込まれている。柔らかい陽光の射し込むブゾンの草原は輝きを帯びているかのように明瞭で、水平が強調される安定的で単純な画面構成ながら豊かな詩情的雰囲気を醸し出している。また速筆的な筆触による効果も手伝って、本作に用いられる色彩そのものも実に幸福的かつ抒情的であり、金銭的余裕は皆無に等しかったものの画家の芸術的充実とその探求がよく示されている。さらに靡く中景の木々を始めとした風という自然現象が静寂感の漂う画面の中に動的な運動性と時の連続性を与えている。本作のような草原(森林)内で読書する(余暇を楽しむ)婦人の姿は印象派の画家仲間の間ではすでに一般化しつつあったが、例えば、ほぼ同時期に本作と同様の画題を描いたベトル・モリゾの作品『読書(パラソル)』と本作を比較してみると、前者がその瞬間の雰囲気と感情性を捉えることを重要視しているのに対し、本作では色彩による情景全体の心象的描写により強い関心が寄せられているなど、画家によってその取り組みには大きな差異があることも注視すべき点である。

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赤い頭巾、モネ夫人の肖像(窓に立つカミーユ・モネ)


(Camille Monet a la fenêtre) 1873年
99×79.8cm | 油彩・画布 | クリーヴランド美術館

印象派最大の巨匠のひとりクロード・モネが手がけた意味深な肖像画作品『赤い頭巾、モネ夫人の肖像(窓に立つカミーユ・モネ)』。印象派の名称の由来ともなったモネ随一の代表作『印象 -日の出-』を手がけた翌年(1873年)に制作された本作は、1870年に結婚した画家の1番目の妻カミーユ・ドンシューをモデルに、窓辺に立つ女性の姿を描いた作品である。本作に描かれる妻カミーユは厚手のコートと傘を差しながら雪の降りしきる寒々しい屋外に立ち、ふと後ろを振り返るような仕草を見せている。薄く透けるレース地のカーテンこそ下方へ緩やかに向かうように開かれているものの、カミーユの手前に描かれる大きな窓は閉められており、屋内と屋外の明確な空間的区別が施されている。モネが生涯手放さなかった作品のひとつとしても知られている本作で、特に観る者の眼を惹きつけるのは屋内からの視点で捉えられるカミーユが身に着ける赤い頭巾と外套である。全体的にやや暗い色調や光彩で表現される本作において、カミーユの頭巾と外套に用いられた赤色は自然と観る者の視線を引き寄せることに成功しており、その計算された視線誘導は見事の一言である。さらに視線がカミーユのやや憂いを感じさせる表情へとつながるように絶妙に配置されている点も注目に値する。また緑味を帯びた室内の壁や降り続く雪の白色と、頭巾と外套の赤色の色彩的・彩度的対比や、四角体で構成される堅牢な構図展開も本作の大きな見所である。

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散歩、日傘をさす女性


(La promenade, La femme à l'ombrelle) 1875年
100×81cm | 油彩・画布 | ワシントン・ナショナル・ギャラリー

印象派の巨匠クロード・モネの最も世に知られる代表作のひとつ『散歩、日傘をさす女性』。1876年に開催された第二回印象派展に出典されたこの類稀な傑作に描かれるのは、クロード・モネが1860年代から70年代にかけてしばしば取り組んだ、戸外での人物像をモティーフとした作品で、画家が当時滞在していたパリ北西ヴァル=ドワーズ県の街アルジャントゥイユの草原に立ち日傘をさす女性は、当時の妻であるカミーユ・ドンシュー(カミーユは1879年に死去し、モネはその後1892年に再婚する)を、傍らに添う幼児は長男ジャン(当時5歳)をモデルに制作されている。観る者がこの二人(妻カミーユと息子ジャン)を見上げるような視点で描かれる本作で最も印象的なのは、逆光と風の中のカミーユのおぼろげな表情にある。日傘を手に観る者と視線を交わすカミーユの顔は、自然風の中でなびくヴェールによって遮蔽されている。この面紗(ヴェールの意)の自然的な運動による瞬間的な印象性を描き出すことによって、草原に立つ女性を観る者は面影として捉えるため、強く心象に残り、かつ神秘的にすら感じるのである。また画面の大部分を構成する青色、白色、緑色、黄色などの色彩は、自然と触れ合うことによって感じる爽やかで心地よい感覚を観る者に与えるのである。なお本作は人物の描写に重点を置いているが、画家が約10年後の1886年に制作した(本作と極めて類似する構図の)対画『戸外の人物習作(右向き)』、『戸外の人物習作(左向き)』では、人物と風景が渾然一体となって表現されている。

関連:クロード・モネ作 『戸外の人物習作(右向き)』
関連:クロード・モネ作 『戸外の人物習作(左向き)』

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ラ・ジャポネーズ

(La japonaise) 1875-1876年
231×142cm | 油彩・画布 | ボストン美術館

巨匠クロード・モネの日本趣味(ジャポネズリー)的要素や日本主義(ジャポニズム※注:本来はジャポニスムと呼称する)的要素が最も顕著に示された代表的作例『ラ・ジャポネーズ』。本作は背後や床面に様々な団扇を配し、手に扇を持ち鮮やかな朱色の日本の着物を着た画家の妻カミーユ・ドンシューの姿を描いた作品で、1876年に開催された第2回印象派展に出品され、2000フランもの高額で売却された(前回1874年の第1回印象派展に出品したモネの作品は、翌1875年に開催されたオークションで売却されたものの、その価格帯はどれも233フラン程度であった)。モネ自身は本作を「只のがらくた、ほんの気まぐれに描いた作品」としていたが、約10年前に描いた『緑衣の女性(カミーユの肖像)』との共通点・類似点から、対の作品として制作されたものであると位置付けられている。金髪のカツラ(鬘)を被ったカミーユは、如何にも日本的である朱色(赤色)地に、抜刀する武者などが立体感に刺繍された着物を纏い、わざとらしいまでの芸者風なポーズをとり、観る者を挑発するかの如く、笑みを浮かべ見つめている。さらにその手にはフランスの三色旗と同じ青・白・赤(トリコロール)の扇を持たせているほか、背後の壁や床面には典型的なジャポネズリー的装飾要素である団扇が、床には茣蓙(ござ)が敷かれている。当時の欧州を始めとした先進国ではジャポニズムが席巻しており、印象派の画家たちの中でも特にモネは一際ジャポニズムに魅了・影響された画家のひとりで、本作は(モネ自身や日本趣味愛好者の最も好む)ジャポニズム的要素をふんだんに取り入れることを画家が意識し、作為的に制作したものだとも考えられる(この頃のモネはあくまで戸外制作による光の効果を探求した風景画が主体であり、本作は例外的な作品でもある)。しかし、本作の明瞭で鮮明な色彩の美しさや、平面的に構成された画面、魅惑的なカミーユ・ドンシューの表情、筆跡を感じさせる独特のタッチなど画家の優れた代表作として、現在も人々を魅了し続けているのである。

関連:ブレーメン美術館所蔵 『緑衣の女性(カミーユの肖像)』

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サン・ラザール駅

(La gare Saint Lazare) 1877年
75.5×104cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

印象派最大の画家のひとりクロード・モネの代表的な作品のひとつ『サン・ラザール駅』。本作は1877年の第3回印象派展に出品された30点あまりの画家の作品群で最も批評家たちの注目を集めた、1837年に建設されたフランス初の鉄道の発終着駅≪サン・ラザール駅≫を描いた8作品の中の1点で、公式な許可を得て駅舎の中で描いたことが知られている。画家は近代的な画題としてこの≪サン・ラザール駅≫を描いたが、本作が他の印象派の画家たちの近代性への取り組みと異なるのは、モティーフそのものの近代性(機械化や機械文明)に重点を置き、それを絵画として描き出すのではなく、そこに発生する動的で喧噪的な雰囲気や、それらが醸し出す独特の情景を中心として絵画を成立させている点にある。技師ウジェーヌ・フラシャが設計したガラスと鉄による屋根が近代的なサン・ラザール駅では、蒸気機関車の煙や水蒸気が充満し、それらが天井のガラス窓から射し込む陽光によって様々な色彩と明暗が創り出されている。モネは本作で斬新な絵画的描写技法を駆使しながら、この直線的な近代的建築物の中に生み出されたそれら光の変化や印象、そして天候的環境による多様な効果を表現することに集中している。なお本作はカイユボットが所蔵した後、国家へと寄贈された作品であるほか、本作とほぼ同様の構図でサン・ラザール駅を描いた作品『サン・ラザール駅、列車の到着』がケンブリッジ(米国)のフォッグ美術館に所蔵されており、この『サン・ラザール駅、列車の到着』も、本作同様≪サン・ラザール駅≫を描いた複数の画家の作品の中で特に注目に値する作品である。

関連:フォッグ美術館所蔵 『サン・ラザール駅、列車の到着』

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サン=ドニ街、1878年6月30日の祝日


(La rue Saint-Denis, fête de 30 Juin 1878) 1878年
76×52cm | 油彩・画布 | ルーアン美術館

印象派最大の巨匠のひとりクロード・モネの作品のひとつ『サン=ドニ街、1878年6月30日の祝日』。1877年に開催された第3回印象派展への出品され、好評を博したと伝えられる作品である本作に描かれるのは、パリ万国博覧会の関連として、パリ・コミューン後、政治体制が第三共和制となったフランスで初めての国民の祝日を祝うサン=ドニ街の情景である。政府の推奨によって市民らが窓辺に掲げたサン=ドニ街を彩る無数のフランス国旗(三色旗)は、モネ(そして印象派の画家ら)独特の素早く荒々しい筆触によって描写されており、画面右部中央に配される三色旗の白地部分に「フランス万歳(VIVE LA FRANCE)」と記されているよう、祝日の興奮的な喧騒の様子が見事に表現されている(パリ・コミューン以後、国民は街中で群がることを禁止されていた為、この祝日は国民に歓迎された)。晴天のサン=ドニ街にはためく無数の三色旗は形体が崩れ、左右の建物の壁の色に際立つ色彩の坩堝と化している。大通りを闊歩する万国博覧会を訪れた観光客とパリ市民らの混雑の様子も画面下部で描かれている。また画面中央から上下で明確に分かれる光の描写にも注目したい。なおモネがこの祝日の熱狂的な情景を描いた作品として、本作である≪サン=ドニ街≫版と、オルセー美術館が所蔵する≪モントルグイユ街≫版の2作品が知られており、双方とも労働者階級が住まう街であった。

関連:モネ作 『モントルグイユ街、1878年6月30日の祝日』

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死の床のカミーユ・モネ


(Camille Monet sur son lit de mort) 1879年
90×68cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

印象派最大の巨匠のひとりクロード・モネによる異例的な人物画作品『死の床のカミーユ・モネ』。本作に描かれるのは1867年に未婚のままモネとの間に長男を出産し、1870年にようやく結婚した画家の妻カミーユ・モネ(旧姓カミーユ・ドンシュー)であるが、その姿は死を迎えた状態にある。本作が制作された1879年に、ヴェトゥイユでカミーユ・モネは(おそらく子宮癌のために)32歳という若さで夭折してしまうのであるが、モネは後年、友人である政治家ジョルジュ・クレマンソーに対して次のように語っている。「私は無意識的に死によって変化してゆくカミーユの顔色を観察しているのに気がついた。彼女との永遠の別れがすぐそこに迫っているので、カミーユの最後の姿(イメージ)を捉え頭に記憶しようとしたのは自然だったのだろう。しかし私は、深く愛した彼女を記憶しようとする前に、彼女の変化する顔の色彩に強く反応していたのだ」。これは夫としてではなく画家としての利己が勝ったとの解釈もできるが、むしろ、後の再婚相手となるアリス・オシュデに対して当時から特別な感情を抱いていたモネのカミーユに対する曖昧な感情を、自身の芸術的(絵画的)思考に置き換えたものであると言える。しかしながら本作と対峙すると、カミーユへの深い情念や苦痛、悲しみなどモネが抱いていた確かな愛情を感じずにはいられない。死して床に臥するカミーユの姿は夜明けに射し込んだ陽光の光によって鈍く照らされている。一見すると非現実的な色彩ではあるが、青色やその補色であり光の色彩でもある黄色が混在した多様な灰色が画家の目には映っていたのであろう。ここにはモネの相反する複雑な心情が反映されているのである。

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ヴェトゥイユの画家の庭園

 1880年(1881年)
(The Artist's Garden at Vetheuil) 151.5×121cm
油彩・画布 | ワシントン・ナショナル・ギャラリー

印象派最大の巨匠クロード・モネの美しい庭園風景作品『ヴェトゥイユの画家の庭園』。年記には80とあるものの、実際には1881年に制作されたと考えられている本作は、モネが一時期住んでいたセーヌ川下流の小村ヴェトゥイユの邸宅の庭を描いた作品である(モネの最初の妻カミーユ・ドンシューはこの邸宅で死去した)。このヴェトゥイユの家には画家の再婚相手となるアリス・オシュデらオシュデ一家も共に住んでおり、本作にもオシュデ家の子供が描き込まれている。画面のほぼ中央へ縦に配される邸宅への坂道の手前には当時4歳のオシュデ家のジャン=ピエールが、中景にはモネの次男ミシェル(当時3歳)とアリス・オシュデが配されている。坂道の両脇には大輪の花を咲かせる向日葵が色鮮やかに描かれており、清涼とした青空との色彩的対比は観る者に心地良い夏の印象を与える。本作で最も注目すべき点は穏やかで幸福的な光景とは全く正反対な画家の暗く複雑な状況と本作の光景そのものにある。本作を手がける前々年(1879年)にモネは妻カミーユ・ドンシューを同邸宅で亡くしており、経済的困窮も改善されない状況にあった。画家としても成人としても苦しい状況にあったモネが本作のような、まるで輝かしい未来と希望に満ち溢れた情景を、軽快で闊達な筆触によって、こうも見事に描き出せたことは、画家の内面的心情と画家的な性格を考察する上でも非常に興味深い。また画面上部へ向かうほど開放的になる空間構成や光に溢れた色彩表現も特筆に値する出来栄えを示している。

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プールヴィルの断崖の上の散歩


(La Promenade sur la falaise, Pourville) 1882年
66.5×82.3cm | 油彩・画布 | シカゴ美術研究所

偉大なる印象派の巨匠のひとりクロード・モネ1880年代の代表的作例のひとつ『プールヴィルの断崖の上の散歩』。本作は全長8km程の美しい砂浜と断崖で名高いフランスの海辺の避暑地≪プールヴィル≫の東北端にあるアモンの崖の風景を描いた作品である。モネにとって2度目のプールヴィル滞在となる1882年6月から10月までの期間(1度目は同年の2月から4月)に制作された本作には、おそらくは画家の再婚した妻アリス・オシュデとその娘をモデルとした人物が二人、プールヴィルの崖の上に立つ姿が描かれており、奥の人物は赤い日傘を差している。この日傘を差す人物というモチーフは最初の妻カミーユ・モネ(旧姓カミーユ・ドンシュー)をモデルとした有名な作品『散歩、日傘をさす女性』で示されているよう、画家にとって非常に重要な画題でもあり、本作ではそこに画家の心情なども感じることができる。また本作では崖の地形が作り出すドラマチックな風景の描写そのものにも特筆すべき点は多い。画面中央と右端に描かれる崖の先端の向こうには広大なプールヴィルの海が広がっており、本作には岸壁の圧迫感(又は危機感)と海の開放感とが絶妙に混在している。さらに右端の崖にかかる水平線の上に描かれる清涼感に溢れる蒼々とした空がそれらをより効果的に強調している。また描写手法に注意を向けてみても、風に揺らめく瞬間を映したかのような草々の強く上に跳ねる筆触や、白波の立つ水面の揺らめきの印象を感じさせる山型の筆触など、本作にはこの頃の画家の表現様式的探求が随所に示されている

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戸外の人物習作(右向きの日傘の女)

(Essai de figure en plein air, dit Femme à l'ombrelle toumée vers la gauche)
1886年 | 131×88cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

印象派の大画家クロード・モネによる最後の実験的人物画作品のひとつ『戸外の人物習作(右向きの日傘の女)』。本作は画家の友人であり、印象派の有力な庇護者でもあったオシュデ夫妻の三女で、当時18歳であったシュザンヌ・オシュデをモデルにジヴェルニー近郊のオルティエ島の土手に立つ人物を描いた習作的な作品で、『戸外の人物習作(左向きの日傘の女)』と共に対の作品として制作された。画家は11年前にも当時の妻カミーユ・ドンシューと長男ジャンをモデルに同様の作品『散歩、日傘をさす女性』を手がけているが、人物(カミーユ・ドンシュー)が主役であった『散歩、日傘をさす女性』と比べ、本作では人物と背後の風景が混ざり合い、一体となった表現が示されているのが大きな特徴である。品の良い白地の衣服に身を包み、日傘を差しながら土手の上に立つシュザンヌ・オシュデは陽光に照らされ、柔らかく輝いており、やや強い風が衣服や土手に生える草花を優しく靡かせている。これらの表現は戸外における人物と自然(光や風景)の融合を試みたモネの実験的要素が強いものの、その効果は非常に大きく、新鮮な印象を観る者に与えている。この頃(1880年代)のモネは印象主義(とそのグループ)に対して疑問と限界を抱き、新たな表現や手法を模索した時期でもあり、本作もその一例の作品としても知られている。

関連:クロード・モネ作 『戸外の人物習作(左向きの日傘の女)』
関連:クロード・モネ作 『散歩、日傘をさす女性』

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戸外の人物習作(左向きの日傘の女)

(Essai de figure en plein air, dit Femme à l'ombrelle toumée vers la droite)
1886年 | 131×88cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

印象派の巨匠クロード・モネが1880年代に手がけた人物画の代表作『戸外の人物習作(左向きの日傘の女)』。『戸外の人物習作(右向きの日傘の女)』と共に対の作品として制作された本作に描かれるのは、画家の友人であり、印象派の有力な庇護者でもあったオシュデ夫妻の三女で、当時18歳であったシュザンヌ・オシュデが日傘を差し、ジヴェルニー近郊のオルティエ島の土手に立つ姿を描いた作品である。本作は11年前に当時の妻カミーユ・ドンシューと長男ジャンをモデルに描いた『散歩、日傘をさす女性』と非常に類似した構図・構想的特徴が見られるものの、『散歩、日傘をさす女性』と本作を比較すると、前者が人物の形象の描写に重点が置かれているのに対し、後者(本作)は陽光が射し込み人物と渾然一体となる風景の自然的融合がより強調され表現されている。また本作でのモデルの顔は目・鼻・口などがヴェールに隠れ、もはや全く描き込まれておらず、輪郭のみで構成されている。これは1879年に死去した妻カミーユを想う画家の心情が表れたものだとも解釈されている。その他にも(本作の)名称が示すよう、戸外における人物と陽光が織り成す色彩と形体を捉えた巧みな表現や、土手に落ちるシュザンヌ・オシュデの深い影の描写など注目すべき点は多い。1880年代以降、風景画に専念するようになったクロード・モネによる最後の実験的人物画作品としても、本作は重要視されている。

関連:クロード・モネ作 『戸外の人物習作(右向きの日傘の女)』
関連:クロード・モネ作 『散歩、日傘をさす女性』

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ポール=コトンのピラミッド岩、荒海
(ソヴァージュ海岸、ポール=コトンの尖塔)


(Pyramides de Port-Coton, mar Sauvage) 1886年
65×81cm | 油彩・画布 | プーシキン美術館(モスクワ)

印象派の最も重要な画家クロード・モネ探求の時代の代表的な作例のひとつ『ポール=コトンのピラミッド岩、荒海(ソヴァージュ海岸、ポール=コトンの尖塔)』。本作は画家が印象主義的な表現に疑問と限界を抱き、新たな表現手法を模索していた1880年代に制作された作品で、ブルターニュ地方ベリール・アン・メールの海岸にある≪ピラミッド≫と呼ばれた尖塔岩が画題として描かれている。モネは1880年代半ばからフランス各地の沿岸に滞在し制作活動をおこなったことが知られており、ベリールには1886年の9月から11月まで滞在していた(この時、画家は40点近くの作品を制作した)。画面中央にピラミッドと呼ばれた尖塔岩が重厚的に描かれており、その周囲には高さの異なる先が鋭く尖った岩々が配されている。ベリール沿岸の荒々しい波が激しく岩を打ちつけ白い飛沫を上げている様子がよく伝わってくる本作の、どこか不吉で重々しい雰囲気は画家自身も十分に把握していたが、自分がこれまでに扱ってきた光り輝く画題とは全く異なるこの風景への取り組みそのものがモネを魅了していた(画商デュラン=リュエルへの手紙の中でそう述べられている)。特に本作に描かれる荒波の動きの捉え方やそこに反射する光の微妙な表現には、画家の自然に対する鋭い観察眼を見出すことができるほか、暗く沈みこむような風景の中に感じられる多様な色彩には画家の優れた色彩感覚が示されている。また研究者たちからはモネが所有していた浮世絵のコレクションの中の一枚(歌川広重の六十余州名所図会『薩摩 坊ノ浦 双剣石』)からの影響が指摘されている。なお本作に描かれるピラミッド(尖塔岩)を画題とした同一構図の作品がニ・カールスバーク美術館(コペンハーゲン)所蔵の『ベリール島の岩』を始め6点制作されている。

関連:歌川広重作 『六十余州名所図会(薩摩 坊ノ浦 双剣石)』
関連:ニ・カールスバーク美術館所蔵 『ベリール島の岩』

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舟遊び(ノルヴェジエンヌ号で)

 (On the Boat) 1887年
98×131cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

印象派最大の巨匠クロード・モネ探求の時代後期の代表的な作例のひとつ『舟遊び(ノルヴェジエンヌ号で)』。本作は画家が自身の邸宅兼アトリエとして(そして終の棲家ともなった)購入したジヴェルニーの家の近郊にあるセーヌ川支流エプト川に船を浮かべ優雅に余暇を過ごす婦人たちの情景を描いた作品である。本作に描かれる婦人のモデルは、後に妻カミーユと死別したモネの後妻となるアリス・オシュデ(※アリス自身も2度目の結婚となる)と前夫との間に生まれた娘たちで、右からブランシュ(次女)、シュザンヌ(三女)、そして画面のほぼ中央に描かれる舟端で釣り糸を垂らす白い帽子を被ったジェルメーヌ(四女)と配されている。本作で最も注目すべき点は、描かれる三人の娘ではなくエプト川の詩情性に溢れた描写にある。画面のほぼ中央から上下に、緑豊かなエプト側で優雅に余暇を過ごす娘たちの情景と、それを映すエプト側の水面が構成されているが、明らかに画家の興味は水面への反射や、吸い込まれるほど深い緑色の影を落す木々の表現に向けられている。特に画面上部の河岸の情景とそれを映す水面の微妙に差異をもたせた繊細な描写は、観る者に強い感銘と心象的情景を抱かせる。また色彩表現においても、緑色と青色を主色としながら木の幹や婦人らが身に着ける衣服には赤味を含ませた色彩が、帽子には黄色味を感じさせる色彩が用いられており、絶妙な色彩的対比と相対的強弱性(アクセント)的な効果を生み出している。なお東京の国立西洋美術館にはブランシュとシュザンヌの二名をモデルとした質の高い同主題の作品『舟遊び』が所蔵されている。

関連:国立西洋美術館所蔵 『舟遊び』

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積みわら、夕陽(積みわら、日没)


(Meules, soleil couchant) 1890-1891年
73×92cm | 油彩・画布 | ボストン美術館

印象派最大の巨匠のひとりクロード・モネが後年に手がけた有名な連続作品のひとつ『積みわら、夕陽(積みわら、日没)』。本作は、画家が1888年頃から手がけ始めた≪積みわら≫を描いた一連の作品群の中の一枚で、この頃の連作群で画家が一心に取り組んだ、(同一の)対象が刻々と変化してゆく様≪状態性≫、風景を特徴つける要因の時間軸≪瞬間性≫、周囲を包む光の効果≪大気性≫がよく表れている。特に大ぶりの筆触や強く残される筆跡と大胆でありながら繊細さを感じさせる色彩によって表現される、積みわらが日没の陽光によって変化する状態、そして、それらを包む大気と光の様子の描写は、他の積みわらにはない壮観さを醸し出しているほか、夕日の中の積みわらの(光の効果による)おぼろげな印象が見事に示されている。また本作の数年前(1888-1889年)に手がけられた『ジヴェルニーの積みわら、夕陽』らの作品群とは異なり、対象(積みわら)へより接近した視点から描かれており、積みわらと周囲の風景とが溶け合うかのような均一的な光の全体の統一感は、この頃の積みわら作品の大きな特徴である。

関連:埼玉県立近代美術館 『ジヴェルニーの積みわら、夕陽』

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積みわら、冬の効果

 (Meules, effet d'hiver) 1891年
65.4×92.1cm | 油彩・画布 | メトロポリタン美術館

印象派最大の巨匠のひとりクロード・モネが後年に手がけた有名な連続作品のひとつ『積みわら、冬の効果』。本作は『積みわら、夕陽(積みわら、日没)』同様、画家が1888年頃から手がけ始めたジヴェルニーの≪積みわら≫を描いた一連の作品群の中の一枚で、雪があたり一面を覆う1891年初頭の冬に制作された作品である。本作では陽光が穏やかに雪の積もった大地や画面中央に配される二つの積み藁に反射し、様々な色彩が織り成す光の世界を創り出している。特に逆光的に描かれる積み藁の寒冷的な青色の陰影や、そこへ微かに混じる(桃色などの)暖色などの色彩描写は、画家の瞳を通したジヴェルニーの美しい冬の風景そのものを映し出したかのようである。また背景のうっすらと見えるセーヌ川沿いのポプラ並木(後に画家はポプラ並木を画題とした連作にも取り組んでいる)のおぼろげで幻想的な表現や、素早く荒々しい筆触ながら、大胆さと繊細な性格を併せ持ったモネ独特の筆使いに、画家のこの風景(この情景)の瞬間的な美しさと、それの移りゆく変化を捉えんとする強い意欲が感じられる。なおジヴェルニーの冬の積みわらの情景を描いた本作以外の作品では、アメリカのシャルバーン美術館が所蔵する『積みわら、雪の効果』や、ボストン美術館が所蔵する『積みわら、雪の朝』などが知られている。

関連:シャルバーン美術館所蔵 『積みわら、雪の効果』
関連:ボストン美術館所蔵 『積みわら、雪の朝』

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エプト川のポプラ並木、白と黄の効果


(Poplars on the Bank of the Epte River) 1891年
100.3×65.2cm | 油彩・画布 | フィラデルフィア美術館

印象派最大の巨匠のひとりクロード・モネを代表する連作群『ポプラ並木』より『エプト川のポプラ並木、白と黄の効果』。本作に描かれるのはセーヌ川の支流であるエプト川岸に植えられた≪ポプラ並木≫で、目覚ましい成功を収めた連作『積みわら』に続き制作された本連作群には、モネの画業の意欲的で野心的な展開が顕著に示されている。本連作群は1891年の夏頃から翌年までの間に集中的に制作されており、その作品数は20点を超えている。本作に描かれる≪ポプラの木≫は1789年に起こったフランス革命や1848年に同国で起こった二月革命(不満を持った労働者階級による改革集会が政府によって強制的に解散させられた為に起こった大規模なデモやストライキ)の時に「自由の木」の象徴とされたため、同国の復興の象徴として本作品群が制作されたと解釈する説も唱えられている。本作に描かれるポプラ並木はエプト川に沿うよう緩やかなS字曲線を描いており、画面内に心地よいリズムを刻んでいるほか、エプト川に反射するポプラ並木の輝くような表現や色彩の使用は特筆に値する出来栄えである。このポプラ並木は河道の堤防としての役割も果たしていたが、本来は材木用として植えられた樹木で、本作が制作された1891年に議会で伐採計画が可決されると、モネは作品群を描き終えるためにポプラの木を落札し保有者となっていた材木商に落札金額の差額分を支払い、並木の共同保有者となることで伐採を延期させた。なお同様の構図で描かれた作品が日本のMOA美術館などに所蔵されている。

関連:個人所蔵 『ポプラ並木、夕日』
関連:MOA美術館所蔵 『ジュヴェルニーのポプラ並木:曇り空』

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陽を浴びるポプラ並木(ポプラ、三本の木、夏)


(Les trois Arbres, été) 1891年
93×73.5cm | 油彩・画布 | 国立西洋美術館(東京)

印象派最大の巨匠のひとりであるクロード・モネを代表する連作群『ポプラ並木』より『陽を浴びるポプラ並木(ポプラ、三本の木、夏)』。本作はモネが1891年の初夏頃から翌年までの期間、集中的に取り組んだ≪ポプラ並木≫を画題とした一連の作品群の中の一点で、画面中央から左側にかけて画面を突き抜ける三本のポプラの木が描かれているのが大きな特徴である。本作は蒼々と葉が茂るポプラの枝や清涼感に溢れる清々しい空などの様子からも連作の開始当初となる1891年の夏に描かれた作品であることがよく分かるが、その表現においても特に注目すべき点が多い。前記したよう画面左側には三本の印象的なポプラの木が配されており、その後ろにはポプラ並木がS字曲線で遠景へと続いている。三本のポプラの根元には美しい緑色が画面の中で映える草が斜めに描かれており、その様子は風に靡いているかのようである。さらに画面下部にはエプト川が流れており、本風景を反射している。やや荒々しく闊達な筆触で全体が処理されているが、その描写は何れもポプラ並木や草々、空と雲、エプト川の豊かな表情の瞬間を見事に捉えており、モネの様式的特性がよく表れている。また青色、黄色、緑色、白色、そして若干の朱色と桃色が用いられる本作の輝くような色彩表現は、観る者に本情景の魅力を的確に伝えることに成功している。なお本作とほぼ同様の構図ながら秋頃(ポプラの葉が黄金色に紅葉している)に制作された作品『ポプラ並木、秋(ポプラ、三本のバラ色の木、秋)』がフィラデルフィア美術館に所蔵されている。

関連:『ポプラ並木、秋(ポプラ、三本のバラ色の木、秋)』

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ルーアン大聖堂、扉口とアルバーヌの鐘塔、充満する陽光

(Cathédrale de Rouen, le portail et la tour d'Albane, plein soleil)
1893年 | 107×73cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

印象派の巨匠クロード・モネが手がけた連作群の代表的作例のひとつ『ルーアン大聖堂、扉口とアルバーヌの鐘塔、充満する陽光』。1895年に画商デュラン=リュエルの画廊で開催された、モネが≪ルーアン大聖堂≫を描いた全33作品の連作群の中から選定された20作品で構成される展覧会に出品された作品の中のひとつである本作は、聖堂という自然的造形要素の無い人工(建築物)物を画題とした珍しい作品であるが、この≪ルーアン大聖堂≫の作品群は、画家が対象(聖堂)に当たる陽光と、それが作り出す陰影の時間経過による変化と効果にのみ集中して取り組む為に、戸外(聖堂前)にカンバス(画布)を複数枚並べ、太陽の動きと共に画家自身が移動しながら制作されたことが知られている。≪ルーアン大聖堂≫の連作は西正面、裏手の庭と二つの角度(観点)から制作された作品に二分され、本作は西正面からのアングルで描かれた作品の中の1点である。本作において最も優れており、注目すべき点は、ノルマンディー地方の代表的なゴシック様式の建造物であるルーアン大聖堂の堅牢な石質を除外した光の描き方や光の陰影の効果の描写にある。一説には本作品群を見た後期印象派の巨匠ポール・セザンヌから「モネは何という眼を持っているのか、しかしただの眼である(賞賛の言葉として前句と後句を逆に紹介されることもある)」と、質感が失われるこの描写法、表現法を批判されたと伝えられているも、本作の眩いばかりに石面へ反射する陽光の表現や、それが織り成す多様な陰影の描写は、現在も観る者の眼を奪うばかりである。なおモネは1892年の晩冬から早春(2月中旬から4月中旬)、1893年の晩冬から早春(2月中旬から4月中旬)と2回の滞在で、ルーアン大聖堂を画題とした作品を集中的に取り組み、自身のアトリエで仕上げている。

関連:連作『ルーアン大聖堂』作品例(一部)

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ジヴェルニー近郊のセーヌ川の朝

 1897年
(Matinée sur la Seine (Bras de la Seine près de Giverny))
81.4×92.7cm | 油彩・画布 | ボストン美術館

印象派最大の巨匠のひとりクロード・モネを代表する連作群のひとつ『ジヴェルニー近郊のセーヌ川の朝』。本作は1896年の8月から翌1897年の同月頃にかけて制作された21点から構成される連作≪ジヴェルニー近郊のセーヌ川支流≫の中の1点で、1898年6月に画商ジョルジュ・プティの画廊で開催された画家の個展への重要な出品作のひとつでもある。本作はパリ北西80km程の地点にある画家の住んでいた小農村≪ジヴェルニー≫近郊のセーヌ川とエプト川の合流地点まで平底船で乗り付け、その夜明け前の光景を描いた作品(※画家は早朝3時半に家を出て制作場所となるこの合流地点に向かったとの証言も残されている)であるが、注目すべきは刻々と移ろう陽光の瞬間を捉えた非常に繊細な表現にある。画面のほぼ中央から上下に風景と水面が分けられており、水面はまるで水平線を軸に風景を反転させたかのように(対称的に)反射している。細かく揺らめく水面の絶妙な描写も秀逸な出来栄えであるが、薄く射し込む陽光の微妙な加減や大気的な靄の効果はどこか19世紀のフランスを代表する風景画の巨匠ジャン=バティスト・カミーユ・コローを連想させるほか、静けさの漂う独特の雰囲気の描写にはある種の幻想性すら見出すことができる。また色彩表現の点においても早朝独特の湿度的な寒気を感じさせながらも、時間の経過と共に柔らかく広がる陽光の薄紫色は、木々の濃緑色と見事な調和を示している。なお本作以外にこの連作群では1896年に制作されたボストン美術館所蔵の『ジヴェルニー近郊のセーヌ川の朝』や本作と同年に制作されたひろしま美術館所蔵の『ジヴェルニー近郊のセーヌ川の朝』などの作品が知られている。

関連:1896年制作 『ジヴェルニー近郊のセーヌ川の朝』
関連:1897年制作 『ジヴェルニー近郊のセーヌ川の朝』

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ロンドンの国会議事堂、霧を貫く陽光


(Le Parlement, trouée de soleil dans le brouillard) 1904年
81×92cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

印象派の巨匠クロード・モネ作『ロンドンの国会議事堂、霧を貫く陽光』。本作は1899年から1901年にかけて、数回に分けて滞在(各滞在は2〜3ヶ月程度)し、ロンドンとテムズ川の風景を連作的に制作した作品の中の一点で、今では名物ともなっているロンドンの霧に包まれる冬の≪国会議事堂≫と≪陽光≫を描いたものである。モネは1870年に普仏戦争を避けて半年間ロンドンへと移住しており、今回の制作も、1898年にロンドンへ留学していたが同地で病に臥してしまった息子ミシェルを訪ね滞在したことが切っ掛けとなったと推測されている。モネは3年間のロンドンでの制作活動で≪国会議事堂≫を画題とした作品を約20点、≪ウォータールー橋≫や≪チャーリング・クロス橋≫を画題とした作品を約80点近く制作したが、何れも未完成であった為に帰国後、ジュヴェルニーの自宅兼アトリエで同時進行で仕上げ、その中から37点、1904年に画商デュラン=リュエルの画廊でおこなわれた「テムズ川の眺めの連作」と題される展示会(1904年開催)へ出品された(※本作もその1中の点)ことが確認されている。本作はロンドンの聖トマス病院からの視点によって制作されており、本作同様、水辺を描いた(印象派の名称の由来ともなった)『印象 -日の出-』と比較してみると、濃霧ゆえの国会議事堂の鬱屈した雰囲気や重質感、それを劈くように射し込む太陽の光の表現や、光による強烈な幻想的色彩など表現様式やその手法に如実な変化が示されている。モネは本作のような冬のロンドンの霧が織り成す独特の(街の)雰囲気やその風景に魅了されていたことが知られ、後に「好みは冬だけだ。霧が無ければロンドンに魅力はないだろう。霧はロンドンに驚嘆に値する広がりと、規律正しく建てられる建築物に神秘的なヴェールと静けさを与えている。」と言葉を残している。

関連:『ロンドンの国会議事堂、テムズ川の反射』
関連:『ロンドンの国会議事堂、太陽の効果』
関連:『ロンドンの国会議事堂、夕暮れ』
関連:『ロンドンの国会議事堂、日没』
関連:『ロンドンの国会議事堂』

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睡蓮の池、バラ色の調和(太鼓橋)


(La bassin aux nymphéas ;harmonie rose) 1900年
89.5×100cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

印象派最大の巨匠のひとりクロード・モネが、睡蓮の制作に本格的に取り組み始めた1899年〜1900年頃の作品群のひとつ『睡蓮の池』より『睡蓮の池、バラ色の調和(太鼓橋)』。本作は個展などの成功により経済的にゆとりを持てるようになったモネが、パリ西方約80km郊外のジヴェルニーで購入した自宅兼アトリエに建造した庭の池と、そこに咲く草花や睡蓮を描いた画家の1890年代以降を代表する作品のひとつでもあり、本作に用いられる構図や画面構成に歌川広重の版画『名所江戸百景 亀戸天神境内』からの影響が多くの研究者から指摘されている。本作では太陽の移り変わりによって様々に変化させる色彩が、モネの驚くべき眼と、大ぶりな筆触や色彩分割による表現手法よって見事に表現されている。特にモネの大きな個性となっている一見、非現実的な色彩感覚は、造園した庭に池の木々や池、そこに浮かぶ睡蓮、水面に映る影の表現をより一層、表情豊かなものにしている。本作以外にもモネは、ほぼ同一の展開によるボストン美術館の『睡蓮の池』や構図は同一ながら描かれた時間が異なるオルセー美術館の『睡蓮の池、緑の調和』、やや縦長の画面によるメトロポリタン美術館所蔵の『睡蓮の池』など同一の画題を扱った作品が数多く手がけている。なおモネは本作品群の制作から約20年後、白内障により視力を失いながらも、『日本風太鼓橋』としてこの太鼓橋を再度描いている。

関連:歌川広重作 『名所江戸百景 亀戸天神境内』
関連:オルセー美術館所蔵 『睡蓮の池、緑の調和』
関連:ボストン美術館所蔵 『睡蓮の池』
関連:メトロポリタン美術館所蔵 『睡蓮の池』
関連:マルモッタン美術館所蔵 『日本風太鼓橋』

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モネの家の庭、アイリス


(Le jardin de Monet, les Iris) 1900年
81×92cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

印象派最大の巨匠クロード・モネが晩年期に手がけた代表的作品のひとつ『モネの家の庭、アイリス』。本作は1880年代におこなった展示会の成功により経済的に安定し、1890年の11月にそれまで借家として住んでいたジヴェルニーの土地と家を購入した画家が若い頃から関心を寄せ(また当時の流行でもあった)、積極的に造園した自宅に庭に咲くアイリスの花々を描いた作品である。土地の購入直後からおこなわれた造園は、19世紀末のフランスを代表する文筆家であり、画家同様、花々に対して強い関心を示していたオクターヴ・ミルボー(花の縁でモネとは良い友人であった)の助言もあり、本作が制作された頃には見事な出来栄えを見せていた。画家はその後、自ら「私は花のおかげで画家になれたのであろう」と述べているよう、花の自然的な美しさに魅了され画業の初期から花の描写をおこなっており、本作では小道へ均一に植えられたアイリスの紫色の色彩が画面内で洪水のように広がっている。さらにそこへと射し込む陽光によって紫色が多様な変化を見せ、美しく輝いている。またアイリスの紫色と小道や遠景のエゾマツの赤茶色、茎や草葉の緑色の色彩的対比も観る者の目と心を奪う。画面内で無秩序的に動く画家独特の奔放な筆致は花々や、草木の生命感をも描き出しているかのように力強く、躍動的である。画家はジヴェルニーの庭の花々を描いた作品を数点残しているが、本作はその中でも屈指の代表作として今でも人々に親しまれている。なお本作が制作された翌年から2年かけて、モネは自身の庭の池の拡張をおこなっており、その時に庭を描いた作品『ジヴェルニーのモネの庭の小道』がウィーン美術館に所蔵されている。

関連:『ジヴェルニーのモネの庭の小道』

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睡蓮

(Nymphéas) 1914-1917年
200×200cm | 油彩・画布 | マルモッタン美術館(パリ)

クロード・モネ作『睡蓮』。本作は画家が1890年代末(19世紀末)頃から最晩年となる1926年まで取り組み続けてきた、あまりにも有名な作品群≪睡蓮≫の中の1点である。モネは1911年に2番目の妻アリス・オシュデを、次いで1914年には長男ジャンを亡くし、悲観に暮れる中、自らも白内障を患ったことも手伝って1910年代初頭から1914年頃まで一時的に作品制作の意欲が著しく衰えてしまい、殆ど制作活動をおこなわなかったが、本作はその時期を乗り越え(白内障は手術によって回復)、再び筆をとった頃に制作された作品で、最も特徴的なのは画面の左上から右下にかけて覆われる緑色の使用にある。この対角線上の緑色と対称的に、画面左下と右上に睡蓮の群生が配されているが、一見すると大雑把で、遠近感も無視(左下の睡蓮よりも右上の睡蓮を大きく描いている)して描写されているものの、白色、黄色、緑色、青色、赤色、桃色と複雑な色彩によって繊細に表現されており、何とも詩情性に溢れている。そして陽光の光を反射しながら、このジヴェルニーの庭の池に落ちる深い陰影が絶妙に混在する大胆な対角線上の緑色の画面展開や、画面上部の青色との色彩対比は、モネによって数多く制作された≪睡蓮≫の作品群(例:東京国立美術館所蔵 『睡蓮』)の中でも、傑出した幻想性を醸し出している。画家は制作活動を再開した1914年以降、一世一代の連作的大装飾画『睡蓮』を本格的に取り組んでいくが、本作は画面寸法や色彩、描写手法など、その先駆的特徴や表現が示されている。

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睡蓮

(Nymphéas) 1916年
200.5×201cm | 油彩・画布 | 国立西洋美術館(東京)

印象派最大の巨匠のひとりクロード・モネが晩年期に手がけた最も有名な連作『睡蓮』。第一次大戦(1914-1918年)中に描かれた本作は、画家が1683年から借家で住み始め、1690年には買い取ったジュヴェルニーの自宅兼アトリエに造園した名高い庭園の池に浮かぶ睡蓮を連作的に描いた作品であるが、画家らしい移ろう水面やそこに反射する陽光の表現、色鮮やかな睡蓮や揺らめく水草の印象的な描写は、正にモネの『睡蓮』の名に相応しい素晴らしい出来栄えである。本作はモネと親交のあった松方幸次郎が、1916年から1923年にかけて日本の若い画家のために本物の西洋絵画を求め収集されたコレクション(松方コレクションと呼ばれる)の中の一枚で、1899年からモネは庭園の他のモティーフと共に『睡蓮』の連作を描き始めたことが知られているが、1910年代初頭には『睡蓮』のみの描写・表現に没頭していく。その中でも本作の水面に揺蕩う睡蓮の色彩、特に睡蓮の蕾に用いられた鮮やかな赤色や黄色や、強く筆跡が残された淡紅色や真紅などの暖色は、池の深淵な蒼色と互いに引き立て合い、美しさや刻々と変化する水面の動きや時間だけでなく、観る者に神秘的な印象すら与える。

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日本風太鼓橋(日本の橋)

 (La port japonais) 1918-24年
89×100cm | 油彩・画布 | マルモッタン美術館(パリ)

印象主義の偉大なる画家クロード・モネ最晩年期の代表作のひとつ『日本風太鼓橋(日本の橋)』。本作はパリ西方約80km郊外のジヴェルニーに構えた自宅兼アトリエで造園した庭の池に架けられた≪日本風の太鼓橋(橋が太鼓の胴のように半円形に反った形状をしている為にそう呼称される)≫を画題に制作された作品のひとつである。晩年の画家は手術により白内障により通常ならば絵画を制作するのが困難になるほど視力が著しく低下ていたものの、この頃の画家は衰える眼で連作的巨大装飾画『睡蓮』や本作を始めとした、自身の画業の集大成となる作品を数多く制作している。本作では画面中央に緑色で二本の湾曲した線がおぼろげに描かれており、その形状から、この二本の緑色の線が池に架けられた日本風太鼓橋であるということをうかがい知ることができる。視力が低下する以前に描かれた同画題の作品『睡蓮の池、バラ色の調和(太鼓橋)』と比較してみると、もはや太鼓橋としての形を僅かに感じられるほど形象は抽象化され、あたかもこの風景を夢裡で見ているような非現実感が漂っている。また画面下部では池の水面に反射する木々や浮かぶ水草(睡蓮)の形状を不鮮明ながら感じることができるが、遠景のモネの庭の木々はもはや形すら失われ、色彩の洪水と化している。日本風太鼓橋など緑色が主体として画面の色彩が構成されている本作ではあるが、それ以外にも緑色と隣り合い、視覚上で渾然一体となる赤色や桃色、黄緑色、黄色、青色など多様な色彩が用いられており、本作の抽象性をより強調する効果を発揮している。なおモネは同時期に本作以外にも本画題≪日本風太鼓橋(日本の橋)≫の作品を手がけており、それらの作品は本作同様マルモッタン美術館(1918年制作)や、ミネアポリス美術館(1922年制作)に所蔵されている。

関連:オルセー美術館 『睡蓮の池、バラ色の調和(太鼓橋)』
関連:マルモッタン美術館所蔵 『日本の橋』
関連:ミネアポリス美術館所蔵 『日本の橋』

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しだれ柳

 (Le Sule Pleureur) 1918-19年頃
100×120cm | 油彩・画布 | マルモッタン美術館(パリ)

印象派最大の巨匠のひとりであり、同派の最も純粋な画家のひとりでもある大画家クロード・モネ晩年の作品『しだれ柳』。本作がモネが晩年期に手がけた睡蓮以外の代表的な単一画題による連作の中の1点で、自宅兼アトリエとして住んでいたジヴェルニーの邸宅の庭に植えた≪しだれ柳≫を描いた作品である。画面からはみ出さんばかりの大きさで描かれる一本のしだれ柳は、枝葉をその名の如く緩やかに撓らせながら大地に近接するほど垂れ下げている。身をくねらせながらも天へと伸びる柳の幹は紫色や桃色に近い色彩で表現されており、枝葉の緑色や青色などの寒色と見事な対比を示している。さらに注目すべき点は柳の幹を中心に、画面左部分は青色、右部分は緑黄色で葉を描いている点にある。この色彩のグラデーション的な使用は、陽光によって絶えず変化する自然界の色彩を、モネが自身の目を通して見える世界として画面上へと映したものに他ならない。観る者は画面右側の緑黄色が映える柳の葉には陽光の生命力に溢れる暖かさを、画面左側の蒼白く輝く柳の葉には光そのものの透明感を見出すことができる。なおモネは本作を手がけた1918年頃から最晩年までの期間で≪しだれ柳≫を画題とした作品を10点程度手がけたことが知られている。

関連:オルセー美術館所蔵 『しだれ柳』

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バラの並木道、ジヴェルニー


(Une allée des rosiers, Giverny) 1920-1922年
89×100cm | 油彩・画布 | マルモッタン美術館(パリ)

印象派最大の巨匠クロード・モネ最晩年期を代表する作品のひとつ『バラの並木道、ジヴェルニー』。本作は画家が晩年に国家へと寄贈するために制作した睡蓮の大画面構成による装飾画と同じ頃に手がけられた、薔薇の小径をモティーフとした連作の中の一点である。1890年代初頭以降、画家が描き続けたジヴェルニーの自身のアトリエを兼ねた邸宅の庭の中央には、アーチ状の木々で覆われた薔薇の並木道があり、本作ではそれを正面から捉えた視点で描かれている。晩年に近くなると1910年代初頭に煩った白内障から回復したモネの視力は急速に衰え、画題となった薔薇の小径の姿を正確に捉えることはできない状態にあり、本作でも小径の明確な形体・形象は殆ど見られず、もはやそれは楕円形と色彩による抽象的と呼べるような表現である。しかしながらモネ自身が「絵画を制作すること、描くことは私にとって強迫観念である」と述べるよう、画家の衰えない絵画への意欲・精力を感じさせる本作の(結果としてそうなった)抽象的表現は、観る者にジヴェルニーの邸宅の庭に自らが造園した薔薇の小径からモネが受けた霊感を感じさせるだけではなく、ある種の幻想・幻惑的な雰囲気すら感じさせる。また混沌としながらも光とそこに落される影(陰影)が織り成す絶妙な色彩とその視覚的感覚や、筆圧の強さを顕著に感じさせる画家独特の筆致などに画家の生命感に溢れた絵画に対する熱情や、自身が描き続けた庭への愛情を見出すことができる。なお薔薇の小径の連絡は現在までに7点確認されており、本作以外では同じくマルモッタン美術館が所蔵する『バラの小径』などが知られている。

関連:マルモッタン美術館所蔵 『バラの小径』

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薔薇の庭から見たモネの家


(La maison vue du jardin aux) 1922-24年
89×92cm | 油彩・画布 | マルモッタン美術館(パリ)

印象派最大の巨匠のひとりクロード・モネ最晩年の作品『薔薇の庭から見たモネの家』。本作はモネが白内障の悪化により著しく視力を落した(後に手術によって回復)最晩年となる1922年から1924年に制作された≪画家の家≫を画題とした連作の中の一点である。画面左上に遠景としてモネのアトリエを兼ねていた邸宅の一部が見えており、前景には睡蓮の池と共に画家が愛して止まなかった薔薇の庭が画面を覆っている。画面上部の明度の高い黄色で描かれる部分が何を示すのかは明確ではないが、雰囲気や印象から夕暮れ(又は朝焼け)の陽光の眩い光を思わせる。本作の無秩序にすら感じられる奔放で抽象的な色彩による形態表現は、モネの視力の著しい低下が第一の原因であるものの、僅かに薔薇や邸宅など対象の固有の色彩を感じさせる画家独特の捉え方や幻想的描写にはモネの色彩に対する類稀な感覚と心象(又は内面)的精神性を感じることができる。なおモネはこの頃から晩年期までに、自身の邸宅を画題とした作品を19点制作しており、本作のような白内障を患っていた頃の作品としては全部で8点確認されている。

関連:別ヴァージョン 『薔薇の庭から見たモネの家』

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