Introduction of an artist(アーティスト紹介)
画家人物像
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エドゥアール・マネ Edouard Manet
1832-1883 | フランス | 印象派




印象派の先駆的画家。筆跡を感じさせる流動的な線と伝統的な形式にとらわれない自由で個性的な色彩を用い、近代の日常、風俗、静物、歴史、肖像、裸婦、風景など様々な画題を描く。また後に印象派らの画家らとの交友を深めると、自身の表現手法にその技法を取り入れるほか、当時流行していた日本の浮世絵・版画から太く明確な輪郭線描の影響を受けた。1832年、第二帝政の法務省高官を父、外交官の娘であった母という裕福で恵まれた家庭で生を受ける。マネの画業は1850年、サロンの第一線で活躍していた画家トマ・クテュールの画塾で7年間に入ることからに始まり、そこでルーヴル美術館などが所蔵する古典的絵画に触れ、それら現代化する表現を会得。1863年のサロンに出品された『草上の昼食』、1865年のサロンに出品された『オランピア』で実践するも、スキャンダラスな問題作として物議を醸す。しかしこれらの事件によってクロード・モネドガルノワールシスレーバジールなどシャルル・グレールの画塾で学んだ画家らと、ピサロセザンヌギヨマンなどアカデミー・シュイスで絵画を学ぶ画家らによって形成される前衛的で伝統破壊的な若い画家集団≪バティニョール派(後の印象派)≫に先駆者と見なされ、慕われるようになる。またサロン画家アンリ・ファンタン=ラトゥールや文学者ゾラ、詩人ボードレール、女流画家ベルト・モリゾなどとも交友を重ねる。バティニョール派の画家が1874年からサロンに反発し開催した独自の展覧会(印象派展)への出品を画家も熱心に誘われるも、マネは「サロンこそ世間に問いかける場」との考えから出品を拒み続けた。なお都会に生まれた画家は洗練された趣味や思想、品の良い振る舞いを身に付けており、外出時は必ずシルクハットを被り正装したという逸話も残されている。

Description of a work (作品の解説)
Work figure (作品図)
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アプサントを飲む男

 (Le buveur d'absinthe) 1858-1859年
181×106cm | 油彩・画布 | ニイ・カールスベルグ美術館

印象派の巨匠エドゥアール・マネ初期の代表作『アプサントを飲む男』。コペンハーゲンのニュー・カールスベア美術館に所蔵される本作に描かれるのは、ニガヨモギの根から抽出する≪アプサント≫と呼ばれた安価で毒性の強い緑色の蒸留酒の水割りを飲む路上生活者である。この路上生活者はルーヴル近辺では比較的名が通っていた屑拾いで、画家の近所に居たコラルデという男をモデルにして描かれており、本作では1900年代初頭には禁止されることになる≪アプサント≫と共に、社会的、文学的な主題への関心を示した、最も初期の自然主義的作品としても重要視されており、この自然主義的な描写は、画家が学んでいたトマ・クテュールとの決別を意味するほか、本作はサロン出品時に批判の対象となった最初の作品でもある。スペイン絵画の大画家ディエゴ・ベラスエスに倣う簡素な画面による肖像展開が大きな特徴である本作の画題≪アプサントを飲む男≫はフランス近代詩の父シャルル・ボードレールに想を得ていたと考えられ、マネ自身もボードレール宛に本作を認めることを求める嘆願の手紙を送っているほか、小説家エミール・ゾラの著書との関連性も指摘されている。この頃、パリではアプサントを始めとする度の強い酒による重篤なアルコール依存症が社会問題化しており、本作においても画面中央左部分に描かれるアプサントのほか、地面に転がる酒瓶、男の纏う(洗練された紳士的服装の風刺・揶揄である)古着の黒衣などにマネの社会性や文学性を帯びた絵画的挑戦を強く感じさせる。なお本作は大多数の批評家が拒絶・拒否したものの、サロン審査に参加していたロマン主義の画家ドラクロワは擁護していたことが知られている。

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老音楽師(辻音楽師))


(Le vieux musicien (Le musicien ambulant)) 1862年頃
187×248cm | 油彩・画布 | ワシントン・ナショナル・ギャラリー

印象派の先駆的存在エドゥアール・マネ初期の代表作『老音楽師(辻音楽師)』。画面の全体的な構成に、『喫煙所(衛兵詰め所、又は騎兵の休息)』などフランス古典主義の画家ル・ナン三兄弟の作品からの影響が指摘されている本作は、(おそらく)当時再開発が進んでいたパリ市内サン=ラザール駅裏手にあった取り壊し後の貧民街の殺風景な風景の中に、そこへと集まる老音楽師や浮浪者、大道芸人、屑拾いなどを描いた集団人物図版的風俗画である。老音楽師は己のアトリエ近郊の≪小ポーランド≫と呼ばれるユダヤ人街に居たゲルーという男をモデルに、大道芸人はバティニョル近郊に住んでいたジャン・ラグレールというジプシーをモデルに描かれているほか、シルクハットを被る屑拾いは画家の1850年代の代表作『アプサントを飲む男』と同一人物である。また中央やや左寄り部分に描かれる二人の浮浪者の子供の描写には17世紀セビーリャ派の巨匠バルトロメ・エステバン・ムリーリョ作『蚤をとる少年』や、ロココ美術の大画家アントワーヌ・ヴァトー作『ピエロ(ジル)』などに典拠を得たと考えられている。登場人物各々が独立し、やや分裂気味に描かれる画面の中に、当時のパリの近代性や社会的変化、そしてそれがより進むであろう未来的予測を見出すことのできる本作には、画家の時代を実直に見つめる鋭い観察眼と、マネのサロン様式にとらわれない、確信犯的かつ野心的な自然主義的写実性が顕著に感じられる。

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テュイルリー公園の音楽祭


(La musique aux Tuileries) 1862年頃
76×119cm | 油彩・画布 | ロンドン・ナショナル・ギャラリー

印象派の巨匠エドゥアール・マネ初期の代表作『テュイルリー公園の音楽祭』。本作はフランス・パリのテュイルリー公園でおこなわれた音楽祭をモティーフにマネが1862年(1860年とする説も唱えられている)に描いた作品で、マネの写実主義的な思想による絵画表現がより明確に示されている。本作には画家自身はもとより、家族、友人、知人、同輩などを始めとした、当時の(芸術家や文筆家や評論家などの)文化的なブルジョワ層の人々が描かれている。左端にはマネ本人の半身が傍観的観察者のように描かれ、その隣にはマネの友人で画家であったステッキを手にするバルロワ卿アルヴェールが、さらに隣には評論家ザカリー・アストリュクが椅子に腰掛ける姿が描かれている。前景の二人の青帽子の女性は、軍事司令官の妻ルジョーヌ夫人と作曲家オッフェンバックの妻ジャック・オッフェンバック夫人が配され、その背後にはアンリ・ファンタン=ラトゥールやボードレールを始めとした写実主義者の一行が見える。また画面中央やや右寄にマネの弟ウジェーヌの姿を配し、その隣には眼鏡をかけた口髭の作曲家オッフェンバックが、そして帽子を上げ挨拶する画家シャルル・モンギノの姿が描かれている。群集肖像画とも呼べる本作ではマネが現代的な生活を営む現代人の優位を賞賛しており、写実主義の巨匠ギュスターヴ・クールベの傑作『画家のアトリエ』に比較し得る現代性の描写が明示されているのである。このような意味でも本作はエドゥアール・マネの転換期における重要な作品のひとつと位置付けられている。

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草上の昼食

 (Le Déjeuner sur l'herbe) 1862-1863年
208×264.5cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

印象派の先駆的画家エドゥアール・マネの名を一躍有名にした問題作『草上の昼食』。本作はルネサンス三大巨匠のひとりラファエロが残したデッサンに基づいて後世の画家マルカントーニオ・ライモンディが制作した銅版画『パリスの審判拡大図)』や、ルーヴル美術館が所蔵する巨匠ティツィアーノ(原筆はジョルジョーネ)の代表作『田園の奏楽』に(構図的)着想や典拠を得て、神話的主題を、そして古典的名画をマネが当時、民衆の間で流行していたセーヌ河畔で過ごす休暇風景に準って現代化し、『水浴(Le bain)』の名で1863年のサロンに出典された作品である。本作はサロンから拒絶され落選し、落選作品が展示される会場(落選展)で民衆に公開されると、批評家、記者を始めとした来場者の殆どが「堕落した恥ずべき作品」、「批評家をからかい、混乱させるために描いた稚拙で厚かましい作品」と猛烈な批難を浴びせたが、このスキャンダラスな事件はエドゥアール・マネの名を一気にパリ中へ浸透させ、前衛的で伝統に批判的だった若い画家らがマネを先駆者として慕い集うきっかけとなった。裸体で草上に座り観る者と視線を交わす女はヴィクトリーヌ・ムーランという女性をモデルに、正装するふたりの男は画家の弟であったギュスターヴと後に義弟となるフェルディナン・レーンホフをモデルに描いた本作で、最も重要なのは、『田園の奏楽』など伝統的な作品に示されるような、非日常的場面でありながら文学的で芸術性を感じさせる神話的裸体表現の意図とは決定的に異なる、現実の中に描かれる現実の裸体表現にある。こちらを見つめる裸体の女は、観る者に否が応にも現実世界であることを感じさせ、(当時の者にとっては)強い嫌悪感を抱かせる。このような挑発的で伝統への挑戦的な行為はマネ芸術の根幹であり、それは後の印象派らの画家たちと通ずる思想や表現でもあった。なお本作はマネの個展が1867年に開かれた際、現名称である『草上の昼食』と画家自身が変更した。

関連:ライモンディ作『パリスの審判』 / 右下部分拡大図
関連:ティツィアーノ作『田園の奏楽』

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オランピア

 (Olympia) 1863年
130.5×190cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

画家エドゥアール・マネが世に出した最もスキャンダラスな作品『オランピア』。本作はルネサンスヴェネツィア派最大の巨匠ティツィアーノの傑作『ウルビーノのヴィーナス』に直接的な構図的着想を得て、選定基準が緩められた1865年のサロンに、当時の娼婦に多く用いられた通称である『オランピア』の名称で出品された作品である。しかし当時は『ウルビーノのヴィーナス』に基づくとは知られていなかった為に、サロンに入選するも、露骨に娼婦を描いた卑猥な作品として1863年の『草上の昼食』以上の大きなスキャンダルと物議を醸した。しばしば新古典主義の画家で当時最高のアカデミー画家のひとりカバネルの代表作『ヴィーナスの誕生』(『草上の昼食』落選時の入選作品で当時の皇帝ナポレオン3世が購入した)との関連性も指摘される本作は、『草上の昼食』同様、ヴィクトリーヌ・ムーランを娼婦のモデルに、おそらく植民地からの入植者である黒人女性ロールを召使のモデルに描かれれている。この露骨な裸婦像の、神話的アプローチ以外では認めていなかった当時の裸婦表現の風潮とは明らかに異なる現実過ぎた裸婦表現は、人々に強くエロスと背徳感を抱かせ、混乱させたのである。さらに近年の研究によって、画家の友人であった詩人ボードレールの『現代生活の画家』中に記される芸術家の娼婦の比較のくだり「芸術家は娼婦と同様、自らの身体やいかなる手法を用いても、観る者の注意を惹きつけなければならない」から、オランピアを画家自らに重ねて描いたとも推測されている(これはオランピアが身に着ける腕輪が、マネの毛髪が入れられた画家の母親の腕輪であることとも関連付けられる)。またオランピアの肢体が纏う最小限の装飾は、観る者によりこの女性が娼婦であることを印象付け、片足の脱げたサンダルは処女の喪失を表しているとされ、オランピアの足下の黒猫は自由の象徴であり、立てられた尾は高ぶる性欲を意味している(典拠となった『ウルビーノのヴィーナス』では従順を象徴する犬が描かれている)。

関連:ティツィアーノ作 『ウルビーノのヴィーナス』
関連:カバネル作 『ヴィーナスの誕生』

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キアサージ号とアラバマ号の海戦


(Combat du "Kearsarge" et de l'"Alabama") 1864年
134×127cm | 油彩・画布 | フィラデルフィア美術館

エドゥアール・マネが手がけた歴史画の代表的な作品のひとつ『キアサージ号とアラバマ号の海戦』。1872年のサロン入選作品である本作に描かれるのは、アメリカで始まった南北戦争会戦から四年後の1864年、フランス北西部、イギリス海峡に突き出すコタンタン半島先端に位置する港湾都市シェルブールの沖で、北部連合の軽巡洋艦キアサージ号が南部連盟の巡洋艦アラバマ号を撃沈する海戦の場面で、一部からは目撃者だったとの証言もあるが、現在ではおそらくマネは本場面を実際に目撃せず、ブーローニュ港に停泊していた時に予め描いていたキアサージ号のデッサンと当時の新聞に掲載された写真を用いて制作されたと考えられている。本作はマネがサロンへの入選を目指して(目的として)描かれた歴史画であるが(サロンの審査委員会は風俗的な画題より歴史画などに興味を示していた)、うまく描写的誇張を示しながらも、真実性に溢れた表現は当時の著名な小説家兼批評家ジュール・バルベイ・ドールヴィリから「単純で力強い自然と風景の感覚によって表現された、このキアサージ号とアラバマ号の海戦の絵画に私は感情の高揚を覚えた。あのマネがこのような作品も描けるとは。構想、表現、どれも素晴らしい。」と賞賛された。正方形よりやや縦長の画面に描かれるシェルブール沖の海上を高まる波で荒々しく描き出すことによって、砲撃され撃沈される巡洋艦アラバマ号の迫力をより一層効果的に見せている。また実際に本海戦を見るため、多数の民衆らが船で海上へ押し寄せていたこともマネは逃さす本作に描写している。なお本作は後にルノワールの有力なパトロンにもなった若き著名な出版事業者ジョルジュ・シャルパンティエが所有していたものの、1888年に画商デュラン=リュエルを介し、米国の美術収集家ジョン・G・ジョンソンに売却された。

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兵士に侮辱されるキリスト(キリストの嘲笑)


(Le Christ insulte par les soldats) 1865年
195×150cm | 油彩・画布 | シカゴ美術研究所

印象派の先駆者エドゥアール・マネを代表する宗教画作品『兵士に侮辱されるキリスト(キリストの嘲笑)』。マネ最大の問題作『オランピア』と共に1865年のサロンへ出品された作品である本作は、新約聖書に記される≪キリストの嘲笑≫を主題に制作された宗教画作品で、画家は本作以外にも『死せるキリストと天使たち(キリストの墓場の天使たち)』など幾つかの宗教画作品を残しているが、本作はその代表的な作例として位置付けられている。画面中央には、一際白い肌が強調された荊の冠を着けられた受難者イエスがほぼ裸体で配されいるが、その視線は父なる神の住まう天上へと向けられている。受難者イエスの周囲にはユダヤ人やローマ兵たちが配され、イエスに侮蔑の言葉や嘲笑を浴びせている。本作で最も注目すべき点は、各登場人物に注力した扱いと、その表現にある。背景を黒一色で統一することで人物以外の要素を除外し観る者の視線を登場人物へと集中させている本作の受難者イエスと三人のユダヤ人やローマ兵たちには宗教的な意識は殆ど見出すことができず、まるで当時マネが描いていた肖像画の人物像がそのまま描き込まれているかのような、ある種の近代的生々しさに溢れている。また構図や構成を観察すると本作には偉大なるルネサンスの先人ティツィアーノの同主題の作品や、ヴァン・ダイクの『茨の冠のキリスト』の影響が随所に感じられるものの、大胆に画布の上へ乗せられる絵の具や、力強さを感じさせる肉厚の筆触などにはマネの確固たる画家としての個性を存分に感じることができる。

関連:『死せるキリストと天使たち(キリストの墓場の天使たち)』

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笛吹く少年

 (Le fifre) 1866年
161×97cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

印象派における先導的存在の画家エドゥアール・マネ屈指の代表作のひとつ『笛吹く少年』。本作は、ボナパルト朝フランス帝国(フランス第二帝政)衛兵に所属する鼓笛隊の横笛奏者をモデルとして描かれた人物画であるが、画家の様式的発展や、受けた影響を考察する際に欠かせない作品で、マネが賞賛していた17世紀スペイン自然主義的絵画史における最大の巨匠ディエゴ・ベラスケスが手がけた人物画『道化師パブロ・デ・バリャドリード』や、日本の版画の研究・影響が如実に示されている。マネはベラスケスの『道化師パブロ・デ・バリャドリード』から対象(本作では横笛を吹くの少年)と空間のみで構成される単純・簡素化された人物画の表現を、日本の版画からは、対象を正面から捉え描く平面的なアプローチ方法や、強く太い輪郭線を用いて対象と空間を隔離する(アカデミックな絵画様式には見られない)斬新な表現手法、非常に鮮烈な印象を観る者に与える大胆な色彩などを本作で取り入れている。特に少年が穿くズボン側部の一本の縦縞模様は、そのまま少年の輪郭も形成しており、本作と対峙する者を錯覚させる。また黒、白、赤、黄、茶、そして少年の肌色と非常に抑えられた本作の色数も、日本の版画から取り入れた重要な特徴であり、本作の注目すべき点のひとつである。本作はもう一点の作品と共に1866年のサロンに出品され落選したが、画家の良き理解者であり友人であった文学者エミール・ゾラは、簡素で単純ながら、装飾的で極めて空間的調和のとれた作品であると賞賛している。

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皇帝マクシミリアンの処刑


(L'execution de l'empereur Maximilian) 1867年
252×305cm | 油彩・画布 | マンハイム市立美術館

印象派の先駆者エドゥアール・マネが手がけた歴史画の代表作『皇帝マクシミリアンの処刑』。画家の作品の中でも特に有名な本作に描かれるのは、ナポレオン3世の要請により(フランス軍の現地駐留という条件付で)メキシコ皇帝に即位した、オーストリア皇帝フランツ・ヨゼフの弟≪マクシミリアン≫大公がメキシコのベニート・フアレス軍によって銃殺刑に処される場面で、構図や画面構成はロマン主義の大画家フランシスコ・デ・ゴヤの傑作『1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺』から着想を得られていることが知られている。ナポレオン3世はアメリカ大陸でのフランスの影響力の拡大する目的で1861年から1863年にメキシコへ軍を侵攻させ、1864年に同地で皇帝マクシミリアンを即位させたが、その関係はマクシミリアンの即位後、わずか1年足らずで悪化し、1867年3月にはナポレオン3世がメキシコへ駐留していたフランス軍を全て撤退させた。フランス軍によって北へ追い出されていたものの、アメリカの軍事支援を得ていた指導者ベニート・フアレス率いるメキシコ軍はこれを契機にメキシコへ進軍、フランス軍の後ろ盾が無くなったマクシミリアンに退位を迫ったがマクシミリアンがこれを拒否し、1867年6月19日に処刑がおこなわれた(その後フアレスは共和制を復活させた)。この一連の事件は皇帝ナポレオン3世への責任問題へと発展しただけでなく、皇帝によるフランス第二帝政に対して反感の象徴ともなった。共和主義者であったマネは本歴史画を制作することで(真意は不明であるが)現実としての表現による絵画的挑戦をおこなったほか、それは官展(サロン)へのアピールも兼ねていた。本作は事実とは異なる点が多く、銃殺刑の執行者たちはフアレスの正規軍の制服ではなく、フランス軍の制服に類似している(画家の友人ルジョーヌ将軍に頼み、小部隊をモデルとして使用した)。本作が『1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺』と決定的に異なるのは、人物の動作、姿態的感情にある。ゴヤの作品では登場人物は演劇的な激しい感情に溢れているが、本作ではマクシミリアン(と部下であるミゲル・ミラモン将軍、トマス・メヒヤ)や銃殺執行隊はある種醒めた感情表現によって描写され、粛々と刑の執行が進められているようである。また事実とは異なり、受刑者三人の真ん中にマクシミリアンを配することで、この処刑を受難者イエスに準えたとする解釈もある。マネの政治的意図が顕著に示される本作は当局により反政府的と見なされたほか、本作を見たエミール・ゾラはナポレオン3世の失政に対して皮肉を込め「マクシミリアンはフランスによって銃殺されたのだ」と述べている。なお本作以外に本場面を描いた作品が、油彩画3点、リトグラフ1点確認されている。

関連:ゴヤ作 『1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺』
関連:ボストン美術館所蔵(油彩)(リトグラフ)
関連:ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵(油彩)
関連:ニイ・カールスベルク彫刻館所蔵(油彩)

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エミール・ゾラの肖像

 (Portrait d'Emile Zola) 1867-1868年
146×114cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

印象派の先駆者エドゥアール・マネが手がけた肖像画の代表作『エミール・ゾラの肖像』。1868年のサロンに出品された本作に描かれるのは、画家アントワーヌ・ギュメの紹介で1866年にマネと知り合い、その後、マネとの友情が生涯続くことになる小説家兼批評家の≪エミール・ゾラ≫の肖像で、エミール・ゾラが冊子「エヴェヌマン」の中でマネを強く擁護した分析的論文に対し、マネがゾラへの感謝と賞賛の証として描いた作品である。ゾラの前の机上には様々な書物や小冊子が置かれており、その中に画家の署名代わりともなっている≪MANET≫の文字が記されたマネに関する冊子が確認できる。また壁にはエミール・ゾラが強く擁護したマネの代表作『オランピア』の版画や、マネが賞賛していたバロック絵画の巨匠ディエゴ・ベラスケス作『バッコスの勝利(酔っ払いたち)』のエッチング、そして当時マネが強く関心を寄せていた日本趣味的要素として二代目歌川国明による多色刷浮世絵木版画『大鳴門灘右ヱ門』が飾られ、いずれもゾラへと視線を向けているほか、ゾラの背後には江戸時代を代表する絵師尾形光琳を始めとした琳派を思わせる屏風絵が描かれている。本作ではエミール・ゾラの肖像として作品に名称を付けながらも、マネのゾラに対する興味より、マネが持つ自身の興味(スペイン絵画や日本趣味)を中心に画面を構成させている点から、現在では一般的にゾラの肖像画というよりも、己の関心を描いた静物画的人物画の側面が強い作品であると解釈されている。なおエミール・ゾラは(一面的、限定的ではあるが)印象主義の画家らの強い擁護者でもあったが、マネとセザンヌをモデルとした小説≪作品≫の発表(1886年)により、印象派の画家らと決定的な亀裂が生じ、関係の終焉を迎えている。

関連:エドゥアール・マネ作 『オランピア』
関連:ディエゴ・ベラスケス作 『バッコスの勝利(酔っ払いたち)』

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バルコニー

 (Le Balcon) 1868-1869年頃
170×124.5cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

印象派の先駆者エドゥアール・マネの代表作のひとつ『バルコニー』。ロマン主義の巨匠で近代絵画の創始者のひとりとして知られるフランシスコ・デ・ゴヤの『バルコニーのマハたち』との関連性が指摘される本作は1869年のサロンで展示された作品で、当時は「現代の生活を、ただ描いただけの絵」、「画布に絵具を塗っただけの平面的な絵」として批難を受けた。本作の登場人物は、一番手前で椅子に座る女性が印象派の女流画家でマネの弟ウジェーヌと結婚したベルト・モリゾ、隣に立つ日傘を持った女性がヴァイオリニストのファニー・クラウス、その後ろのネクタイの紳士は印象派を支持していた風景画家アントワーヌ・ギュメ、奥の部屋の影に溶け込んでるように描かれる帽子の男(給仕)は画家の息子レオン・レーンホフなど、画家の親しい友人や知人をモデルに描かれており、画家とその周辺の者との繋がりを示す作品でもある。真正面から捉えられる本作の画面構成は部屋の奥行きを、陰影など古典的描写を逸脱した平面的かつ装飾的に描かれる光の描写は衣服や物体の立体感を失わせ、パリ街を傍観し、観る者と視線が交わらない無感情な人物描写は画面の中にある種の緊張感を生み出している。このような手法はマネの絵画における空間構成の疑念と、アカデミックで伝統的な絵画芸術に対する挑戦の表れであり、画家の絵画的思想の特長を良く示す作例のひとつとしても重要視されている。

関連:フランシスコ・デ・ゴヤ作 『バルコニーのマハたち』

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すみれのブーケをつけたベルト・モリゾの肖像(黒い帽子のベルト・モリゾ)

 (Berthe Morisot au bouquet de violettes (au chapeau noir)) 1872年
55×38cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

印象派の先駆者エドゥアール・マネが手がけた肖像画の代表作『すみれのブーケをつけたベルト・モリゾの肖像』。『黒い帽子のベルト・モリゾ』とも呼ばれる本作に描かれるのは、マネの良き友人かつ師弟関係にあり、画家の弟ウジェーヌと結婚した印象派を代表する女流画家ベルト・モリゾの単身像で、画家独特の大ぶりな筆触や平面的な画面展開、抑えられた落ち着きのある色彩などが大きな特徴である。ベルト・モリゾがルーヴル美術館で模写をおこなっていた時に、画家の友人アンリ・ファンタン=ラトゥールから同氏を紹介されて以来、マネとベルト・モリゾは親密な交友関係を持つに至り、画家の代表作『バルコニー』を始め、幾度もベルト・モリゾをモデルとして作品を手がけている(ただし弟ウジェーヌとの結婚後はベルト・モリゾをモデルとした作品は描かれていない)。本作はマネが1872年にベルト・モリゾの肖像を描いた4点の作品の中の1点であり、観る者と対峙し、こちらを見つめるベルト・モリゾの魅力的な表情の描写は見事の一言である。またベルト・モリゾの衣服と帽子の黒色は画面の中で圧倒的な存在感を示しているが、この黒色と背景に用いられた灰色が画面の大部分を占めることによって、本作中の色味、つまりベルト・モリゾの顔や頭髪に用いられた明瞭な茶色や肌色、すみれのブーケの控えめな青色が、より洗練された印象を観る者に与えるのである。なお本作は画家の死後、画商であり批評家であったテオドール・デュレが所蔵していたものの、1893年にマネの子孫が買い取り、1998年にオルセー美術館に入った。

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鉄道

 (Le chemin de fer) 1873年
93×114cm | 油彩・画布 | ワシントン・ナショナル・ギャラリー

印象派の先駆者エドゥアール・マネ作『鉄道』。1874年のサロンへ出品された本作に描かれるのは、マネの問題作にして代表作である『草上の昼食』や『オランピア』のモデルを務めたヴィクトリーヌ・ムーランと、友人の画家(マネの隣人でもあった)アルフォンス・イルシュの娘を配される人物のモデルに、急速に近代化が進められるパリ市内ヨーロッパ橋近傍の鉄道のある風景である。本作の名称に『鉄道』と付けられているも、そこに機関車など具体的にそれを表すものは描かれておらず、鉄格子を境に画面後景を支配する真っ白な煙と右端で僅かに見えるヨーロッパ橋(サン・ラザール駅の鉄橋)のみがそれを表す要素として描かれている。これらにより公開当時は批評家たちや一般の者から数多くの批判を受けることになったものの、煙によって隠れる鉄道によって表現された近代的都市風景の描写は、今なお観る者に新鮮な印象を与えるのである。また無関心な表情を浮かべる(隣の子供にも全く関心を示さない)ヴィクトリーヌ・ムーランの虚空な眼差しと、鉄格子に手をかけ煙の向こうの蒸気機関車を見つめる子供の後姿の対照性は、画家が数多く手がけた人物画においても特に白眉な出来栄えである。

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オペラ座の仮面舞踏会

 (Bal masque à l'Opéra) 1873年
59×72.5cm | 油彩・画布 | ワシントン・ナショナル・ギャラリー

エドゥアール・マネ作『オペラ座の仮面舞踏会』。1874年のサロンに出品されるも、あえなく落選してしまった本作に描かれるのは最も著名な歌劇場のひとつで、当時はル・プルティエ街に建てられていた≪旧オペラ座(旧オペラ座は本作が描かれた1873年10月に起こった火事で焼失し、現在オペラ座はシャルル・ガルニエの設計により1875年に完成)≫を舞台に開かれた仮面舞踏会の場面である。本作に配されるシルクハットを被る男たちの群集構図には、画家が1865年に訪れたスペインで見たマニエリスム最大の画家エル・グレコ屈指の代表作『オルガス伯爵の埋葬』からの影響が一部の研究者や美術史家から指摘されている。この男たちを始め、画面左端の赤と緑の人形の格好をした男など本作中には画家の友人や知人などが多数描かれているほか、画面右端から二番目の正面を向く男として画家自身の姿が描き込まれている。本作のような風俗的主題を扱った作品の中にも画家の鋭い現実への洞察や、聖書や神話など正統的な主題への皮肉が示されている。例えば『オルガス伯爵の埋葬』での聖人や教会を支えた有力者たちの集団は、当時のパリの現代化を支えた上流階級の人々と仮装した娼婦たちの姿に変え描かれていると解釈できる。また絵画としての色彩構成も黒色の衣服に身を包む男たちが画面の大部分を占める本作の中にアクセント的な差し色として、娼婦らや人形の格好をした男や画面上部に下半身のみ描かれるの女性の脚の赤色や緑色、水平に描かれる2階部分の床や垂直に描かれる2本の大理石の柱の白色が用いられるなど非常に完成度が高い。

関連:エル・グレコ作 『オルガス伯爵の埋葬』

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アルジャントゥイユ

 (Argenteuil) 1874年頃
149×115cm | 油彩・画布 | トゥールネ美術館

印象派の先駆的存在である画家エドゥアール・マネの代表作『アルジャントゥイユ』。1875年のサロンに出品された唯一の作品である本作に描かれるのは、パリの北西、セーヌ川右岸にあるイル=ド=フランス地域圏ヴァル=ドワーズ県の街で、当時流行した舟遊び場としても著名であったセーヌ河沿いの≪アルジャントゥイユ≫に集う男女の姿で、女性の方は不明であるも、男性のモデルは『船遊び(ボート遊び)』同様、後に画家の義弟となるルドルフ・レーンホフであると推測されている。風刺画なども残されるよう、サロン出品時、本作は批評家や観衆から嘲笑され続けたことが知られているが、本作の表現や辛辣な観察眼で描写される俗物的な画題選定は特に注目に値する。未婚の男女間の集いの場としても名高かったアルジャントゥイユの舟遊び場で横縞の衣服を着た男が一人の女に寄り添いボート遊びを誘っている。しかし女は他のマネの作品同様、無関心な表情を浮かべている。男はボート遊びの後の(肉体的)快楽を期待し女を誘っているが、女なそんな男の安易な思惑を見越しているかのような態度である。本作には舟遊び場での男と女、それぞれの狙いや考えが画家の辛辣な観察眼によって鋭く描写されている。また平面性を強調した二次元的な画面構成に大ぶりの筆触によって描写される登場人物や船、水面などの構成要素の表現は当時のマネの表現様式を考察する上でも、優れた一例である。

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船遊び(ボート遊び)

 (En bateau) 1874年
97×130cm | 油彩・画布 | メトロポリタン美術館(N.Y.)

印象派の先駆者エドゥアール・マネ作『船遊び』。ボート遊びとも呼ばれ、制作年は1874年であるも、1879年のサロンに出品された本作に描かれるのは、印象主義の典型的な画題のひとつであった、余暇をセーヌ川で舟遊びを楽しむ人々の近代的な日常場面で、水平線を描かず場面と対象のみを切り取ったかのような日本の版画的な構図と構成が大きな特徴のひとつである。本作に描かれる人物のモデルについては諸説唱えられているものの、男性はルドルフ・レーンホフもしくはバルビエ男爵と、女性は印象派の画家クロード・モネの最初の妻であるカミーユ・モネとする説が一般的である。男女と彼らが乗る船は柔らかな陽光を浴び、輝きを帯びながら画面内へ大胆に配されている。特に(おそらく)カミーユ・モネが身に着ける衣服の縦縞模様の荒々しい筆触は、光の表現において印象的な効果を生み出している。また青々としたセーヌ川水面は、反射する陽光によって多様な色彩的表情を見せているほか、繊細で鮮やかな色彩描写は自然と観る者の視線を傾けさせるのに成功している。

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ヴェネツィアの大運河

 (Le grand canal à Venise) 1874年
57×48cm | 油彩・画布 | 老後保険会社(サンフランシスコ)

印象派の先駆者エドゥアール・マネが手がけた風景画の代表的な作例のひとつ『ヴェネツィアの大運河』。ヴェネツィアのカナル・グランデ(大運河)や青のヴェネツィアとも呼ばれる本作は、マネが休暇旅行として妻シュザンヌや画家仲間であるジェームズ・ティソと共に1874年9月、カーティス夫妻の招待客としてヴェネツィアを訪れ、パラッツォ・バルバロに滞在していた時に制作された作品で、ヴェネツィアの大運河≪カナル・グランデ(大運河)≫とそこから見える風景が描かれている。ゴンドラ上からの視点で制作されている本作の画面中央から右部にかけて配される、青色と白色で捩れた模様が施された彩色パリーナ(ゴンドラ会社の目印ともなっているゴンドラを岸に繋げるための杭)は、際立った存在感を放ち、またパリーナの奥の遠景にはサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂が見える。本作の特異な構図やスケッチ的な描写による画面左部分の建物も特筆に値するが、本作において最も注目すべき点はカナル・グランデ(大運河)の水面の表現にある。水面に映るパリーナや建物の影は大ぶりで混ざり合わない配色による描写方法によって表現されており、その筆触はクロード・モネなど印象派の画家らの手法を連想させる。これはマネが自己の表現様式に印象主義的の影響を受けて取り入れたものであり、画家の表現・描写様式的な変化が示された典型的な例のひとつである。なおマネ自身はこのヴェネツィア滞在を「退屈であった」と述べたことが伝えられている。

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胸をはだけたブロンドの娘


(La blondeaux seins nus) 1878年
62.5×51cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

印象派の先駆的エドゥアール・マネの代表的な作例のひとつ『胸をはだけたブロンドの娘』。画家随一の問題作として名高い『オランピア』以降に制作された7点の裸婦作品の中の1点である本作は、胸部がはだけた女性の半身像を画題に手がけられた作品で、モデルに関しては現在も不明とされており今後の調査や研究が期待されている。画面中央に描かれる芥子の花飾りの付いた麦藁帽子を被る娘は、やや虚ろにすら感じさせる空虚な表情を浮かべながらぼんやりと画面左側を向いている。その顔には緊張の色はもとより、他のマネの作品に見られた女性の自意識の本質と生命感が全く感じられない。これは頭痛や脚の痺れなど体調に変化の兆しが見え始めたマネが、己の行く末を想う複雑な心境が投影されているとも推測することができる。一方、画面下部の半分以上を占める娘の豊潤な姿態や、明確に輪郭線を引いた肌蹴た胸部の柔らかな曲線には女性としての見事な官能性や画家としての絵画に対する挑戦性を見出すことができる。さらに本作で最も注目すべき点は表現そのものにもある。本作は油彩を用いながらも、別の素材として松精油(テレビン油)を混合させていることが知られており、その薄塗り的効果はあたかも水彩のような表情を生み出している。この他素材との混合的描写手法は晩年期の画家の作品の大きな特徴であり、その中でも本作は秀逸な出来栄えを示している。他にも若い娘の黄色味を帯びた肌色や麦藁帽子に装飾される赤々とした芥子の花と、背景に使用されるややくすみを帯びた緑色との色彩の対比などに画家の創意と才能を感じることができる。

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温室にて

 (Dans la serre) 1878-79年
115×150cm | 油彩・画布 | ベルリン国立美術館

印象派の先駆的存在である画家エドゥアール・マネが晩年に手がけた肖像画的作品の代表作『温室にて』。本作に描かれる人物は画家と親交のあった知人のジュール・ギュメ夫妻で、後期から晩年期にかけての画家の作品に見られる特徴が良く示されている。モデルであるジュール・ギュメは高級地であるフォブール・サン・トレノ街で流行のドレスショップを営み、妻のギュメ婦人は画家の数少ない社交界に繋がりのある女性の友人であった。柵の向こう側から身を乗り出すジュール・ギュメは妻の方へ視線を向けているが、妻ギュメ婦人は無関心に視線を(自身の)正面へと向けている。この頃(1870年代以降)に制作された画家の作品に多く見られる、このような女性の無関心な態度は、上流階級の女性個々の自意識の本質的な表れであるとの指摘がされている。1878年の9月から翌1879年2月までの期間に制作されたことが判明している本作の温室内に茂る異国情緒に溢れた植物による圧迫的空間構成や、画面ほぼ中央で接近する互いの手の指にはめられるそれぞれの結婚指輪、夫妻のわざとらしさやぎこちなさの残る姿態の表現、鮮やかで鮮明な色彩の描写なども注目すべき点として挙げられる。なお本作が画家自身が国家に買い上げを要望するも叶わず、後にベルリンの裕福なコレクターたちによって購入された。

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フォリー=ベルジェール劇場のバー


(Le bar aux Folies-Bergère) 1881-1882年
96×130cm | 油彩・画布 | コートールド美術研究所(ロンドン)

エドゥアール・マネ最晩年の傑作『フォリー=ベルジェール劇場のバー』。画家が死の前年に完成させた、最後のサロン出典作でもある、この類稀な傑作に描かれるのは、当時流行に敏感な人々が挙って集ったパリで最も華やかな社交場のひとつであったフォリー=ベルジェール劇場のバーと、シュゾンという女性をモデルにした給仕の姿である。画家はこの頃(おそらく梅毒によって)左足が壊疽しかけており、激痛に耐えながらもフォリー=ベルジェール劇場に通い習作を描くも、痛みが増し、歩けないほどまでに悪化すると、アトリエに同劇場のバーのセットを組み、そこにモデルを立たせ本作を完成させたことが知られている。女給仕シュゾンの背後の情景は鏡に映ったフォリー=ベルジェール劇場で繰り広げられる様々な情景であり、画面右部分で紳士(モデルは画家のガストン・ラトゥーシュ又はアンリ・デュプレ)と会話する女は給仕本人の鏡に映る後姿である。中央では給仕を真正面から捉え描き、右部の鏡に映る後姿は紳士と共に角度をつけて描かれている点などから、本作では現実ではありえない構図的・空間的矛盾が生じており、発表当時は辛辣な酷評を受けたものの、平面的でありながら空間を感じさせる絵画的な空間構成や、給仕の魅惑的とも虚無的とも受け取ることのできる独特な表情は、観る者をフォリー=ベルジェール劇場の世界へと惹き込む。パリという都会の中で興じられる社会的娯楽を的確に捉え、そのまま切り取ったかのような本作では技法的にも、大胆に筆跡を残す振動的な筆さばきや色彩など特筆すべき点が多々存在し、中でも画面前面に描かれる食前酒など様々な酒瓶、オレンジや花が入るクリスタルのグラスなどの静物は秀逸の出来栄えを示している。

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ガラス花瓶の中のカーネーションとクレマティス


(Oeillets et clématite dans un vase de cristal) 1881-83年頃
56×35cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

印象派の先駆的存在であった画家エドゥアール・マネが最晩年に手がけた静物画の代表作『ガラス花瓶の中のカーネーションとクレマティス(クレマチス)』。本作に描かれるのは、ガラスの花瓶に入れられたナデシコ科ナデシコ属の多年草で、母の日に贈られる花としても知られる≪カーネーション≫と、キンポウゲ科センニンソウ属の蔓性多年草で、観賞用として最も人気の高い蔓性植物のひとつでもある≪クレマティス(クレマチス)≫である。画面のほぼ中央に配されるやや背の高い台形型のガラス花瓶に、葉のついたままの大きく花開いたクレマティスがガラス口付近に活けられており、さらにその背後にはカーネーションが数本配されている。日本美術の影響を感じさせる飾り気の無い簡素な配置ながら、クレマティスとカーネーションの構成的なバランスや絶妙な配色、そして画面の中に躍動感をもたらしている左右のクレマティスの葉の展開は特に優れた出来栄えである。さらに花が活けられたガラス花瓶の中で、水を通り微妙に変化する光の描写や質感表現は、闊達で力強さを感じさせる筆触の効果も手伝い非常に表情豊かに描かれている。最晩年期(1880年代)のマネは体調を著しく悪化させ大作を手がけることは困難な状況にあり、その為、室内に飾られていた花を描くことが多くなっていた。本作はそのような状況で描かれた典型的な画家の作品であり、≪花≫の画題にはマネの安堵や癒しを求める姿勢を窺い知ることができるが、逆に短命な花と自身の置かれた状況に対する心情を重ねたとも考えられている。

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