Introduction of an artist(アーティスト紹介)
■ 

尾形光琳 Ogata Korin
1658-1716 | 日本 | 琳派・日本画絵師




17世紀後半から18世紀にかけて主に京都や江戸(東京)で活躍した琳派を代表する絵師。雅で優美な伝統(古典)を感じさせる大和絵的な描写の中に、斬新な構図や画面展開を取り入れ、明瞭かつ装飾的でありながら革新的な独自の様式を確立。その革新性の高い独自の様式は、当時最大の画派であった狩野派とは一線を画し、今なお琳派最大の絵師のひとりとして高い評価を得ている。1658年、京都の呉服商、雁金屋の当主・尾形宗謙の次男として生まれ、実家が裕福であったために少年時代から能楽、茶道、書道などに親しむ。30歳の時に父が死去し、財産を相続した為に40代頃まで放蕩・散財生活を送ったと考えられている。画業の始まりは画家が30代前半におこなった改名した頃と同一視されるも、本格的な活動は44歳から没する59歳までの約15年ほどであったと推測される。江戸時代前半の巨匠俵屋宗達とは直接的な師弟関係は無いものの、光琳が手がけた宗達の傑作『風神雷神図屏風』などの模写が残されることからも、宗達の画法も学んだとされる。また光琳は屏風絵のほか、香包、扇面、団扇、小袖、蒔絵、晩年には水墨画なども手がけていたことが明らかとなっており、その生涯中の制作は多岐にわたっている。なお実弟・尾形乾山は同時代を代表する陶工としても知られている。

Description of a work (作品の解説)
Work figure (作品図)
■ 

燕子花図屏風

 (Iris laevigata)
1701-04年頃 | 各150.9×338.8cm | 根津美術館(東京都)
6曲1双屏風・紙本金地着色

琳派最大の巨匠のひとり尾形光琳が40代前半頃(44〜45歳頃とする説が有力視されている)に手がけたとされる傑作、国宝『燕子花図屏風』。本作は平安時代に成立した、最も著名な日本の歌物語のひとつ≪伊勢物語(著者不明)≫の第九段「八橋」の場面を描いた作品で、光琳は生涯中しばしば、この燕子花を意匠とした作品を手がけていることが知られているが、本作はその中でも随一の代表的作品としても名高い。伊勢物語では、三河国の八橋(現在の愛知県知立市八橋町近辺。水が蜘蛛の手のように分かれて流れているために、八つの橋を渡したことから≪八橋≫と名付けられたとされている)の沢のほとりに燕子花(カキツバタ)が美しく咲いていたと記されているが、本作ではその美しく咲く燕子花のみに主点を置いて「八橋」の場面が描写されている。金地に栄える群青(燕子花の花部分)と緑青(燕子花の茎草部分)の軽妙明快で清々しい色彩、画面の中で心地よい旋律を奏でるかのような、律動的に配される燕子花の群生、そして、その燕子花の左隻と右隻での構図的対比の美しさは観る者の目を奪うばかりである。さらに平面的でありながら、橋を排した燕子花のみというシンプルな構成であるからこそ引き立つ、金地の余白の無限的空間の広がりや奥行き感は、光琳だからこそ成し得た美の世界観そのものである。また燕子花一束ごとの形状の(ほぼ同様な)類似性に、型紙の使用も指摘されている。なお光琳は本作を手がけた約10年後に、同主題を題材にした『八ツ橋図屏風』を制作している。

関連:『燕子花図屏風』全体図左隻拡大図右隻拡大図
関連:メトロポリタン美術館所蔵 『八ツ橋図屏風』

解説の続きはこちら

【全体図】
拡大表示

■ 

八ツ橋図屏風

 (Eight-Planked Bridge (Irises and Bridge))
1711-1714年頃 | 各179.1×371.5cm | メトロポリタン美術館
6曲1双屏風・紙本金地着色

琳派最大の巨匠のひとり尾形光琳が50代前半頃(54〜55歳頃とする説が有力視されている)に手がけたとされる晩年期の重要な作品『八ツ橋図屏風(八橋図屏風)』。本作は平安時代の歌物語≪伊勢物語(著者不明)≫の第九段「八橋」の場面を描いた作品で、光琳は本作を手がける約10年ほど前にも、同主題を描いた作品『燕子花図屏風』を制作している。本作と『燕子花図屏風』の最大の差異は何と言っても、『燕子花図屏風』には描かれていない橋本体の描写にある。意匠化された橋は燕子花の群生の中に突如として現れたように画面中央へ配され、人物を描かないことによるある種の静寂性・孤独性も手伝って、まるで観る者に緊張を強いるかのような独特の存在感を醸し出している。また燕子花の表現は『燕子花図屏風』と比べ、より自然な曲線的具象化を見せており、橋の抽象性や直線的形象との対比も特に注目すべき点である(この対比性はしばしば絵師の傑作『紅白梅図屏風』における梅の樹木と、図案化さえた流水の表現にも例えられる)ほか、二つの群生から三つ(又は四つ)の群生へと増加した燕子花の複雑化したリズムや意匠的変化も大きな見所のひとつである。なお幕末に活躍した江戸琳派の絵師、酒井抱一が本作をモデルに『八橋図屏風』を制作している。

関連:『八ツ橋図屏風』全体図左隻拡大図右隻拡大図
関連:根津美術館所蔵 『燕子花図屏風』

解説の続きはこちら

【全体図】
拡大表示

■ 

竹梅図屏風

 (Bamboo and plum tree) 18世紀(江戸時代)
各65.2×181cm | 2曲1双・紙本金地着色 | 東京国立博物館

18世紀琳派を代表する絵師、尾形光琳が手がけた屏風絵の傑作のひとつ、重要文化財『竹梅図屏風』。本作は宋代より始まる中国文人画で好まれた画題画題のひとつ≪歳寒三友(さいかんのさんゆう)≫、所謂≪松・竹・梅≫のうち、竹と梅を描いた作品で、遅筆で力強く描かれた凛と天に向かい伸びる竹の姿の表現と、速筆で軽やかに描かれた素実な梅の表現は、画面において対照的でありながらも紙本金地着色の余白を存分に活かし、極めて高度な統一性を感じさせることに成功している。このような光琳の表現手法によって表現される、豪華かつ装飾的でありながら、上品で優美な雅性や、ある種の静寂性・思想性をも感じさせる独特の世界観によって観る者を圧倒するのである。本画題≪歳寒三友≫とは、本来、寒中にも色褪せないこと(松と竹)、また寒中に花開くこと(梅)から、冬の寒さに堪える三種の植物として精錬潔白・節操という、文人の理想を表現したものとされるも、室町時代に伝わり、江戸時代に庶民の間でも流行した日本では、喜び祝うに値する様や美しい様を表すものとして解釈・表現された画題で、今日の日本において最も親しまれる画題のひとつとして、深く人々の生活・文化に根付いているのである。

解説の続きはこちら

【全体図】
拡大表示

■ 

風神雷神図屏風

 (Wind God and Thunder God Screens)
18世紀(江戸時代)
各166×183.5cm | 2曲1双・紙本金地着色 | 東京国立博物館

江戸文化最大の絵師のひとりとして高い評価を得ている琳派の絵師 尾形光琳の屏風絵の中でも特に重要視される作品のひとつ、重要文化財『風神雷神図屏風』。本作は光琳が深く感銘と影響を受けていた17世紀を代表する絵師俵屋宗達が手がけた傑作『風神雷神図屏風』を模作した作品であるが、原図(宗達風神雷神図屏風)と比べ風神・雷神の全体が収まるよう若干大きめの寸法で、やや装飾的に描かれているのが大きな特徴で、全体的には(おそらくは用意周到に時間をかけて)極めて忠実に原図を模しているものの、細部では光琳の解釈に基づいた独自性が示されている。中でも最も顕著な差異は、風神、雷神各々の視線にある。宗達の『風神雷神図屏風』では風神は眼球のほぼ中央に、雷神は(下界を見るように)右斜め下に黒眼が描かれていることに対し、光琳の『風神雷神図屏風』では互いの視線が交わるように、風神は眼球のほぼ真右に、雷神は眼球のほぼ真左に、若干小さく黒眼が描写されている。さらに宗達の風神、雷神の姿は仏彫の様な(神々の姿に相応しい)殊勝な雰囲気や威厳に満ちているが、光琳の風神、雷神は原図と比べ、それぞれを擬人化させたかの如く、優しく温和な雰囲気が漂っているほか、弱まった陰影や尖形などの、多少様式化された装飾的な表現に光琳の独自性が示されている。また風神、雷神の乗る黒雲の描写にも明確な違いがみられ、宗達同様たらし込み技法によって描かれる光琳の黒雲は、原図より乱層雲のような重々しい質量感に溢れている。なお光琳に多大な影響を受けた(幕末に活躍した)江戸琳派随一の絵師、酒井抱一が本作(尾形光琳による『風神雷神図屏風』)の模作『風神雷神図屏風』を残しているほか、かつては同氏が本作の裏面に『夏秋草図屏風』を描いていたことが知られている(現在は保存上、分離されている)。

関連:俵屋宗達筆 『風神雷神図屏風』
関連:酒井抱一筆 『風神雷神図屏風』
関連:酒井抱一筆 『夏秋草図屏風』

解説の続きはこちら

【全体図】
拡大表示

■ 

紅白梅図屏風

 (Red and White Plum Blossoms)
18世紀(江戸時代) | 各156.0cm×172.2cm | MOA美術館
2曲1双・紙本金地着色、又は金泥着色

琳派の中でも最も名の知れた絵師のひとり尾形光琳が晩年に手がけた代表作、国宝『紅白梅図屏風』。琳派芸術の最高傑作ともされる本屏風に描かれるのは、紅白の梅の花が咲くニ本の梅樹と、画面上部から下部へと末広がりに流れる水流で、光琳が俵屋宗達の様式に傾倒していたことが知られているが、本作も宗達の『風神雷神図屏風』の対照性を強く意識されていると考えられている(※光琳は自らも『風神雷神図屏風』の模作(参照)を残している)。2003年にMOA美術館が依頼し東京文化財研究所がおこなった『紅白梅図屏風』の研究・調査によって、本作の大部分を占める金地部分は、本来の説であった金箔を貼ったものではなく、金泥を用いて金箔を模し、箔足(金箔が重なり合う部分)を加え描いたものであると結論付けられたことは研究者や絵師らに大きな衝撃を与えた(ただ、この説は現在も異論・否定論も多く、今後の更なる調査・研究が期待されている)。本作に描かれる、光琳梅と呼ばれ後に流行した、輪郭と花弁のみで構成される非常に単純化された梅花の表現や、梅の樹幹の写実的な表現手法として用いられた≪たらし込み≫技法は、まさに装飾性の高い光琳の琳派芸術のひとつの到達点として、高貴で荘厳な美しさを携えている。また光琳波と呼ばれるS字に屈曲し、渦巻模様に図案化された独特の水流部分は、銀箔が用いられている考えられていたが、2003年の調査によって型紙を使用し(おそらく黒藍色の)有機色料で描かれたと結論付けられたことも特筆すべき点のひとつである。なお、本作の解釈について、金地の明と水流の暗、老熟した白梅の樹の静と若々しい紅梅の樹の動、写実性を感じさせる梅の樹幹部分と図案化された水流部分など多くの対照性が認められることから、光琳と実弟・乾山と解釈する説や、光琳と中村内蔵助(光琳の後援者)と解釈する説など様々な説が唱えられている。

関連:俵屋宗達筆 『風神雷神図屏風』

解説の続きはこちら

【全体図】
拡大表示


Salvastyle.com 自己紹介 サイトマップ リンク メール
About us Site map Links Contact us

homeInformationCollectionDataCommunication
Collectionコレクション