Introduction of an artist(アーティスト紹介)
画家人物像
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フランシスコ・デ・ゴヤ Francisco de Goya
1746-1828 | スペイン | ロマン主義




近代絵画の創始者の一人として知られるスペインの巨匠。1780年サン・フェルナンド王立美術アカデミーへの入会が認められ、王室や貴族の肖像画を描く。その写実的な作風が当時飽食気味であったロココ美術に変わるものとして支持を受け、1786年国王付の画家、1786年、新国王になったばかりのカルロス4世の任命から宮廷画家となるが、1790年代に入ると聴覚の喪失、知識人との交流を経て、強い批判精神と観察力を会得。1801年に王室を描いた作品『カルロス4世の家族』は、中心に国王ではなく女王を描いたことで不評を買い、以降王室からの注文は減っていった。また当時のスペインはフランス軍の侵入もあり、自由革命や独立闘争などの争いが絶えなかったという情勢もあり、その時期には『巨人』『1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺』や、住んでいた家の壁に描いた連作『黒い絵』など数々の名作を描いた。1824年フランスに亡命し、ボルドーで死去。享年82歳。
Description of a work (作品の解説)
Work figure (作品図)
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裸のマハ

 (La Maja Desude) 1798-1800年頃
97×190cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

近代絵画の創始者フランシスコ・デ・ゴヤ屈指の代表作『裸のマハ』。本作は画家が≪マハ≫(※マハとは特定の人物を示す固有の氏名ではなくスペイン語で<小粋な女>を意味する単語)を描いた作品で、バロック絵画の巨匠ディエゴ・ベラスケスの『鏡のヴィーナス』と共に厳格なカトリック国家で、神話画を含む如何なる作品であれ裸体表現に極めて厳しかったフェリペ4世統治下のスペインにおいて制作された非常に希少な裸婦像作品であるが、ゴヤは本作を描いた為に、制作から15年近く経過した1815年に異端審問所に召還されている。本作のモデルについては古くから論争が絶えず、諸説唱えられているが、現在ではゴヤと深い関係にあったとも推測されるアルバ公爵夫人マリア・デル・ピラール・カイェタナとする説(画家自身が異端審問所に召還された際に証言したため)、画家の重要なパトロンのひとり宰相ゴドイの愛人ペピータとする説(作品制作の依頼主と推測されるため)、ゴヤの友人で神父バビが寵愛していた女性とする説(ゴヤの孫マリアーノが証言しているため)などが有力視されている。本作において最も注目すべき点は、その類稀な官能性にある。ベラスケスの『鏡のヴィーナス』が理想化された裸体表現の美とするならば、本作は自然主義的な観点による豊潤で濃密な裸婦表現の美と位置付けられ、特に横たわるマハの丸みを帯びた女性的肉体の曲線美や、単純ながら心地よい緩やかなリズムを刻む画面(の対角線上)への配置などはゴヤの洗練された美への探究心と創造力を感じさせる。また挑発的に観る者と視線を交わらせる独特の表情や、赤みを帯びた頬、そして計算された光源によって柔らかく輝きを帯びた肢体の描写などは、本作がスペイン絵画屈指の裸婦作品としての存在感を十二分に示す最も顕著な要因のひとつである。

関連:フランシスコ・デ・ゴヤ作 『着衣のマハ』

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着衣のマハ

 (La Maja Vestide) 1798-1803年頃
95×190cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

近代絵画の創始者フランシスコ・デ・ゴヤが手がけた数多くの作品の中でも最も有名な作品のひとつ『着衣のマハ』。本作は画家が≪マハ≫(※マハとは特定の人物を示す固有の氏名ではなくスペイン語で<小粋な女>を意味する単語)を描いた作品で、『裸のマハ』を制作した翌年以降(1800-1803年頃?)に手がけられたと推測されている。本作と『裸のマハ』は画家の重要なパトロンのひとりで、権力を手にしてから皇太子や民衆を始め様々な方面から非難を浴びせられた宰相ゴドイが所有しており、その為、一般的にはこの2作品は宰相ゴドイが制作を依頼したものだとする説が採用されている。『裸のマハ』と同様の姿勢・構図で描かれる本作であるが、『裸のマハ』との最も顕著な差異は、マハは当時スペイン国内の貴婦人が愛用し流行していた異国情緒に溢れたトルコ風の衣服に身を包み、化粧も整えている点である。これらの描写はゴヤ特有のやや大ぶりな筆触によって繊細ながら表情豊かに表現されているほか、色彩においても黒色、金色、緑色、紅色、茶色、白色などを用いた独特の配色によってトルコ風の衣服の雰囲気や質感を見事に表現している。本作のモデルについては古くからアルバ公爵夫人マリア・デル・ピラール・カイェタナとする説が唱えられているが、画家が残したアルバ公爵夫人の素描や肖像画の顔と比較し、あまりに異なる点があるため否定的な意見を述べる研究者も少なくなく、現在では宰相ゴドイの愛人ペピータとする説なども有力視されている。なお本作と『裸のマハ』は宰相ゴドイの手からカサ・アルマセン・デ・クリスターレス、王立サン・フェルナンド美術アカデミーを経てマドリッドのプラド美術館へと移された。

関連:フランシスコ・デ・ゴヤ作 『裸のマハ』

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1808年5月2日、エジプト人親衛隊との戦闘

 1814年
(El 2 de Mayo de 1808. Lucha contra los mamelucos)
266×345cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

近代絵画の創始者フランシスコ・デ・ゴヤによる戦争画の代表作『1808年5月2日、エジプト人親衛隊との戦闘』。本作は皇帝ナポレオンが率いるフランス軍(とエジプト人で構成される奴隷傭兵親衛隊)による、スペインへの侵攻と武力統制に対してマドリッド市民が起こした、ソル広場での反乱(抵抗)と暴動の様子を描いた作品である(反乱はその後、対仏独立戦争に発展)。本作は1814年、フランス軍のスペイン国内からの撤退後にゴヤが「ヨーロッパの暴君(ナポレオン)に対する我々スペイン人の輝かしく誉れある反乱の、最も注目すべき英雄的行為の場面を絵画にて永遠に残すため」との嘆願書を摂政府へ提出したことによって制作された作品である。この嘆願書は(画家本人によれば)生活が逼迫していたゴヤが政府へ経済的援助を求めたものでもあった(なおゴヤは戦乱当時、国外脱出を望んでいたとの報告も残されている)。また国王フェルナンド7世の復位・凱旋の記念としてのほか、反乱活動への扇動と鼓舞の意味(プロパガンダ)でも、一連の対仏独立戦争は、民官双方から望まれた画題であり、この対仏独立戦争を画題として数多く作品を制作した当時の画家たち同様、ゴヤは確固たる決意と威信を懸けて本作に取り組んだ。本作はマドリッド市民の反抗と暴動を描いたものであるが、最も特筆すべき特徴は市民とエジプト人親衛隊の戦闘の場面そのものを突起させ描いた点にある。本作には主役となる描写対象は存在せず、画面の中に描かれるのは、ただ勝敗の行方がわからぬ状況で続けられる人々の闘争の姿で、(主となる対象のいない)そこには画家が嘆願書で述べた≪英雄的行為≫が名もなき市民らによって行われたというゴヤの意図がこめられている。なお本作はフランスロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワが1830年に手がけた戦争画『民衆を率いる自由の女神』に強い影響を与えたことが知られている。

関連:ゴヤ作 『1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺』
関連:ウジェーヌ・ドラクロワ作 『民衆を率いる自由の女神』

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1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺

 1814年
(El 3 de Mayo de 1808. Fusilamientos en la montaña del Príncipe Pío)
266×345cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

近代絵画の創始者フランシスコ・デ・ゴヤが制作した、西洋絵画史上、最も有名な戦争画のひとつ『1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺』。本作は『1808年5月2日、エジプト人親衛隊との戦闘』後、1808年5月2日夜間から翌5月3日未明にかけてマドリッド市民の暴動を鎮圧したミュラ将軍率いるフランス軍銃殺執行隊によって400人以上の逮捕された反乱者が銃殺刑に処された場面を描いたものである。処刑は市内の幾つかの場所で行われたが、本場面は女性や子供を含む43名が処刑されたプリンシペ・ピオの丘での銃殺を描いたもので、真贋定かではないが丘での処刑を「聾者の家」で目撃したゴヤが憤怒し、処刑現場へ向かい、ランタンの灯りで地面に転がる死体の山を素描したとの逸話も残されている。銃を構える銃殺執行隊は後ろ向きの姿で描かれ、その表情は見えない。それとは対照的に今まさに刑が執行されようとしている逮捕者(反乱者)たちは恐怖や怒り、絶望など様々な人間的感情を浮かべている。特に(本場面の中でも印象深い)光が最も当たる白い衣服の男は、跪きながら両手を広げ、眼を見開き、執行隊と対峙している。この男の手のひらには聖痕が刻まれており、観る者に反教会的行為に抵抗する殉教者の姿や、磔刑に処される主イエスの姿を連想させ、反乱者の正当性を示しているのである。また画面奥から恐怖に慄く銃殺刑を待つ人々の列の≪生≫、銃を向けられる男たちの≪生と死の境界線≫、血を流し大地に倒れ込む男らの死体の≪死≫と、絵画内に描かれる≪生≫と≪死≫の強烈な時間軸は観る者の眼を奪い、強く心を打つ。ゴヤは本作を含む対仏反乱戦争を画題とした油彩画を4作品制作したと考えられている(4点中2点『王宮前の愛国者たちの蜂起』『砲廠の防衛』は現在も所在が不明)ほか、版画集≪戦争の惨禍≫の中で本場面を画題とした版画も制作された。なお本作は印象派の巨匠エドゥアール・マネが『皇帝マクシミリアンの処刑』手がける際に強いインスピレーションと影響を与えたことが知られている。

関連:ゴヤ作 『1808年5月2日、エジプト人親衛隊との戦闘』
関連:エドゥアール・マネ作 『皇帝マクシミリアンの処刑』

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自画像

 (Autorretrato) 1815年
51×46cm | 油彩・板 | 王立サン・フェルナンド美術アカデミー

ロマン主義随一の巨匠であり、近代絵画の扉を開いた創始者的存在でもある画家フランシスコ・デ・ゴヤ作『自画像』。マドリッドの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに所蔵される本作は画家が生涯に度々手がけてきた≪自画像≫の中でも特に代表的な作例のひとつであり、ゴヤが69歳の頃に制作された作品である。本作が制作された頃、ゴヤは画家としての最高の地位である宮廷首席画家にまで登りつめていたものの、既に聴覚を失って(画家は1790年代半ばに大病を患い、回復するものの聴覚を失った)おり、さらに1810年頃からの体調不良によってしばしば病床に臥してしまう状態にあった。また数年前のフランス軍によるスペイン侵攻など暗い時代背景もあり、本作に描かれるゴヤ自身の姿は、25歳頃45歳頃など出世欲に従い、地位の向上に邁進していた頃の自画像作品と比較し、明らかにメランコリックで、鬱蒼とした雰囲気を携えている。中でも苦痛や幻滅の深淵へと引き込むかのような、疲憊し暗く沈んだ黒南風的な瞳とその表情は、観る者を強く惹きつける。しかしながら本作の69歳とは思えないほど若々しく描かれる画家の姿は、聴覚を失ったからこそゴヤが見出した、出世以外の生きる目的や意欲が表れたものであるとの解釈も唱えられている。いずれにしても、画家の苦悩やそれにおける精神的内面・心情が顕著に示されている本作は、画家が数多く手がけた人物画作品の中でも特に重要な作品に位置付けられている。なおプラド美術館には近年洗浄がおこなわれた本作の別ヴァージョンが所蔵されている。

関連:1771〜1775年頃制作 『自画像』
関連:1791〜1792年頃制作 『アトリエの自画像』
関連:プラド美術館所蔵 『自画像(別ヴァージョン)』

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