Salvastyle.com 自己紹介 サイトマップ リンク メール
About us Site map Links Contact us
home Information Collection Data Communication
Collectionコレクション
homeページCollection常設展示バロック美術
Introduction of an artist(アーティスト紹介)
画家人物像

ピーテル・パウル・ルーベンス Peter Paul Rubens
1577-1640 | フランドル | バロック

王の画家にして画家の王と呼ばれ、諸外国までその名声を轟かせたバロック期を代表する画家。修行時代に風景画家フェルハーヒト、アダム・ファン・ノールト(ルーベンスの後に続くフランドル絵画の巨匠ヤーコブ・ヨルダーンスの師であり義父でもある)、ファン・フェーンと三人の師から絵画を学んだ後、1600年から1608年までイタリアで、ミケランジェロの肉体表現、ラファエロマンテーニャの古典思想的表現、ティツィアーノティントレットヴェロネーゼ等ヴェネツィア派からの豊かな色彩による画面構成、コレッジョからの甘美的表現などルネサンス芸術を研究する一方、イエズス会とも接触を図る。イタリアでの滞在で一気に才能が開花し、社交性もあった画家はヴェネツィアの外交使節として、名画を寄贈するためスペインへ向かうが、途中大雨により名画を濡らしてしまう。しかし画家自身がそれを修復。その出来栄えの良さにスペイン国王は勿論イタリアの貴族からも賛辞を受けた。1608年、当時アントワープを統治していたハウスブルク家アルブレヒト大公夫妻に宮廷画家として仕え、ヴァン・ダイクヤン・ブリューゲルらと共に次々と作品を制作してゆく。総作品数は約1200点と膨大な数が残っているが、大半は工房作品か他作家との共作。ルーベンスの画家としての優れた才能や洗練された友好的な態度によってイザベラ大公妃を始め、フランス王妃マリー・ド・メディシスやフェリペ四世など当時の権力者とも交友関係を築き、使節として国交の正常化に尽力を尽くすほか、歳の離れたスペインバロックの巨匠ベラスケスとも交流を持つ。またカラヴァッジョの『キリストの埋葬』(模写作品)やティツィアーノの『ヴィーナスへの捧げもの』(模写作品)、レオナルド・ダ・ヴィンチの現在は失われた大作『アンギリアの戦い』など、ルーベンス自らが描いた巨匠たちの模写も数多く残されている。


Work figure (作品図)
Description of a work (作品の解説)
【全体図】
拡大表示
楽園のアダムとエヴァ 1600年以前
(Adam and Eva in Paradise)
180.2×158cm | 油彩・板 | ルーベンス・ハイス美術館

ルーベンスがイタリアへ留学する以前に描かれたとされる初期の代表作『楽園のアダムとエヴァ』。マルカントニオ・ライモンディの銅版画に基づく構図がとられる本作の主題は、旧約聖書における神によって創造された最初の男女で、神の庇護の下、エデンの園で暮らす≪アダムとエヴァ≫を描いたものであるが、この頃の作品にはルーベンスらしい鮮やかな色彩と躍動に溢れる様式は見られず、三人目の師であるファン・フェーンの影響である生気が欠けるものの明瞭で合理性に満ちた表現が随所に感じられる。それ故、本作は画家の様式形成を研究する上で、欠かせない作品として、現在も重要視されている。

関連:マルカントニオ・ライモンディ作『アダムとエヴァ(銅版画)』

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
キリストの割礼 (Circumcision of Christ) 1605年頃
105×74cm | 油彩・画布 | ウィーン美術学校付属絵画館

イタリアへと旅立ったルーベンスが同地で描いた作品と推測される初期作『キリストの割礼』。本作の主題は、天使のお告げによりイエス降誕の八日目に包皮を切除し、神の子に『イエス』と名付けるキリスト教の儀式≪キリストの割礼≫を描いたもので、イタリアでの古典研究と色彩表現の吸収により体得した古典思想的表現や豊かな色彩による画面構成など、随所にルーベンスの才能の開花が垣間見ることができる。本作はイエズス会に属するジェノヴァのサンタンブロジオ聖堂祭壇画のために制作された作品で、イタリアへと渡ったルーベンスとイエズス会の親密な関係性を示す作品としても興味深い。また本作の主題≪キリストの割礼≫は、≪神殿奉献≫との類似性と、卑俗性から19世紀以降は全く描かれなくなった主題でもある。

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
東方三博士の礼拝 (The Adoration of the Magi) 1609年
346×488cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

初期ルーベンスにおける最高傑作のひとつで、プラド美術館が所蔵する『東方三博士の礼拝』。本作の主題は降誕したイエスと、その礼拝に訪れる欧州、亜細亜、阿弗利加の三博士を描く≪東方三博士の礼拝(マギの礼拝、三王の礼拝などとも呼ばれる)≫で、豊かな色彩、ミケランジェロを思わせる劇的な肉体描写、大人数による画面構成などの、後に大作主義とも呼ばれた圧倒的な表現が示されている。また本作はイタリアから帰国したルーベンスの最初の作品であり、アントウェルペン市庁舎大会議室の装飾のために描かれたもので、画面右部分の馬上の人物など、画家自身による加筆がなされている。

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
サムソンとデリラ (Samson and Delila) 1609年
185×205cm | 油彩・板 | ロンドン・ナショナル・ギャラリー

ルーベンスの代表作『サムソンとデリラ』。イタリア滞在からの帰国直後に当時のアントワープ市長ニコラス・ロコックスのために制作された本作の主題は、カナンを奪回して間もないイスラエルの民を、ペリシテ人などの他部族から救う先駆者となった怪力者サムソンが、ペリシテ人の娼婦デリラに恋をし、自らの弱点が頭髪であることを教えてしまったことから、ペリシテ人に捕まり頭髪を剃られる場面を描いた旧約聖書の≪サムソンとデリラ≫で、カラヴァッジョの影響である深い陰影による劇的な場面描写が大きな特徴のひとつである。

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
キリスト昇架 (Raising of the Cross) 1610-1611年
460×340cm(中央), 460×150cm(各翼) | 油彩・板 |
アントウェルペン大聖堂 (シント・ヴァルブルヒス区教会旧蔵)

王の画家にして画家の王ルーベンスがアントワープに戻って最初に手がけた大規模な祭壇画で、画家随一の代表作『キリスト昇架』。主題は題名が示すよう、十字架に掛けられるキリストを描いた≪十字架昇架≫で、やや伝統的様式の構図を取りながらも、ミケランジェロの研究から会得した隆々しい肉体表現や、ティントレットを思わせる人物の複雑でうねりの示されるポーズや極端な短縮法を用いることによって、この巨大で重要な祭壇画に、それまで見られなかった劇的かつ感情豊かな効果をもたらした。シント・ヴァルブルヒス区教会の主祭壇画として描かれた本作であるが、同教会は現存せず、現在は『キリスト降架』と共にアントウェルペン大聖堂が所蔵している。

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
キリスト降架 (Descent from the Cross) 1611-1614年
421×311cm(中央), 421×153cm(各翼) | 油彩・板 |
アントウェルペン大聖堂

キリスト昇架を描き終え取り組んだ、ルーベンス随一の代表作『キリスト降架』。アントウェルペン大聖堂の火縄銃手組合礼拝堂のために発注された本作の注文主は当時市長だったニコラス・ロコックスで、当初は「火縄銃手組合の守護聖人クリストフォロス」を主題に注文をおこなったが、失いかけた教会の権威を取り戻すため、そして何よりアントワープの平和のため、見るだけで感動を伝えられる祭壇画をとルーベンスが注文主を説得し、磔刑に処され絶命したイエスの亡骸を降ろす≪十字架降下≫の主題が描かれた。キリストの亡骸を降ろす人物の力強い肉体表現は『キリスト昇架』同様、ミケランジェロによる古典的表現の影響を感じさせ、この劇的で緊張感溢れる本場面を、より一層盛り上げているほか、画家自身もデッサンに残している古代ギリシア彫刻≪ラオコーン≫のポーズを参考にしていることが指摘されている。また本作は『フランダースの犬』で画業に憧れていた主人公ネロの憧れの絵画としても知られている。

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
ケレスとバッコスがいないとヴィーナスは凍えてしまう
(Sine cerere et baccho friget venus) 1612-1615年頃
140.5×198.5cm | 油彩・画布 | カッセル州立美術館

ルーベンスを代表する寓意的神話画のひとつ『ケレスとバッコスがいないとヴィーナスは凍えてしまう』。本作は古代ローマの吟遊詩人テレンティウスの有名な一節を題名に、愛を司る女神ヴィーナスも、美食を意味する豊穣の神ケレスと、酒神バッコスがいなければ、その愛も醒めてしまうという寓意を描いたもので、当時のネーデルランド(オランダ)やフランドル(ベルギー)などで好まれた寓意的意味をもつ神話画の最も優れた好例のひとつ。

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
凍えるウェヌス (Venus Shivering) 1614年頃
142×184cm | 油彩・板 | アントウェルペン王立美術館

ルーベンスが残した寓意的神話画の傑作『凍えるウェヌス』。同じくルーベンスを代表する寓意的神話画のひとつ『ケレスとバッコスがいないとヴィーナスは凍えてしまう』と同様に、愛を司る女神ヴィーナスも、美食と酒がなければ醒めてしまうという寓意を描いたものであるが、こちらは美食を意味する豊穣の神ケレスと酒神バッコスは描かれず、実際に女神ヴィーナスがエロス(キューピッド)と共に凍えている姿が描かれた。

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
四大陸 (The Four Parts of the World) 1615-1616年
209×284cm | 油彩・画布 | ウィーン美術史美術館

フランドルを代表する画家ルーベンスの寓意画『四大陸』。ヨーロッパ、アフリカ、アジア、そしてアメリカ大陸の四大陸と、その代表的な河川を一対の河神と女神によって表現しているところにルーベンスの創意が示される。中央の黒人の女神と麦の穂の冠の河神はナイル河とアフリカ大陸を、右手前の虎とその一組の河神と女神ははアジアとガンジス河を、アジアの隣に配される唐辛子の冠を付けた河神と女神は、秘境の地アメリカとラ・プラタ河(又はアマゾン河)を、画面左の舵を手にする河神と女神はヨーロッパとドナウ河を意味しているとされている。

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
最後の審判 (The Last Judgement) 1615-1618年
600×460cm | 油彩・画布 | アルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)

ルーベンスを代表する宗教画のひとつ『最後の審判』。本作は死から復活して神と同位となったイエスによる人類の救済と断罪の審判をおこなう場面で、キリスト教義上、最も重要な教義のひとつである≪最後の審判≫を描いたものであるが、父なる神の威光によって輝かしい光を放ちつつ審判をおこなうイエスの在る至福の天上、大天使ミカエルに選定される人類の生死が激しい運動性によって表現された現世、死の底に在ってなお暗い影と苦痛が待ち受ける地獄を画家らしい繊細な筆を以って描いている。本作はドナウ河畔のノイブルグに建つイエズス会聖堂の主祭壇画としてえがかれたもので、天上のイエスによってもたらされる至福と救済の場面に重きを置いて描かれているが、本作を描いた同年(又は翌年)に、別の発注により断罪の場面を重要視した同主題を制作している(アルテ・ピナコテーク所蔵)。また混乱を避けるため現在は、本作を『最後の審判(大)』、翌年に描かれたものを『最後の審判(小)』と区別している。

関連:ルーベンス作『最後の審判(小)』 1618-1620年頃

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
レウキッポスの娘たちの略奪 1616-1618年頃
(The Rape of the Daughters of Leucippus)
224×210.5cm | 油彩・画布 | アルテ・ピナコテーク

類稀な才能によって幾多の傑作を描いたルーベンスの代表的神話画『レウキッポスの娘たちの略奪』。本作は、白鳥に姿を変えた主神ユピテルとスパルタ王レュンダレオスの妻レダとの卵から孵った双子カストルとポルックスの二人が、叔父レウキッポスの娘で既に婚約者もあったヒラエイラとポイベを誘拐し、それぞれの妻とした場面が語られる神話≪レウキッポスの娘たちの略奪≫を典拠に描かれているもので、ヒラエイラとポイベ誘拐する双子のダイナミックな運動性と、美しき娘のエロティックな表現が見る者を惹きつける。また絵画の主題として≪レウキッポスの娘たちの略奪≫は非常に珍しい主題で、本作も18世紀にドイツ人作家ハインゼの指摘があるまで、≪サニビの娘たちの略奪≫だと考えられていた。

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
聖フランシスコ・ザビエルの奇蹟
(The Miracles of St. Francis Xavier) 1617-1618年
535×395cm | 油彩・画布 | ウィーン美術史美術館

巨匠ピーテル・パウル・ルーベンスの大作『聖フランシスコ・ザビエルの奇蹟』。アントウェルペンのイエズス会の依頼により、『聖イグナティウス・デ・ロヨラの奇蹟』と共に、二聖人の聖列の前に制作され、交代で主祭壇を飾った本作は、イエズス会の創始者イグナティウス・デ・ロヨラの片腕であり、父なる神に自身の実を捧げた最初のイエズス会士のひとりで、東アジアを中心にキリスト教を伝道した日本でも馴染み深い宣教師≪聖フランシスコ・ザビエル≫の伝記に記される、様々な奇跡的な所業を描いた作品で、ルーベンス1610年代を代表する大作のひとつとして知られている。画面右側上部に青年僧を一人従え、台座に立ち様々な奇蹟を起こしている聖フランシスコ・ザビエルの姿が配され、それと対応するかのように、画面内の到る箇所でそれらが示されている。聖フランシスコ・ザビエルの上部では、天使らが舞い降りながら父なる神の威光によって異教の像が破壊され、異教の神殿に集う異教徒たちを駆逐しているほか、聖フランシスコ・ザビエルと対角線上にある画面左下部分では埋葬されようとする死人が蘇っている。また聖フランシスコ・ザビエルの真下には盲人や足なえ人、悪魔憑きなど治癒を求め集まっている。僅かに異国的風情や風俗を感じさせる本場面内の細部の描写は、聖フランシスコ・ザビエルが伝道した東洋の情景の表れであるものの、本来の東洋的風情とは異なり、幻想性や創造的描写が強く反映されている。本作の登場人物の質感に富んだ肉体表現や運動性、奇蹟を目撃し驚愕する民衆の劇的な場面描写などは、ルネサンス芸術を研究し会得した画家の優れた表現力を示す典型的な例のひとつである。

関連:ルーベンス作『聖イグナティウス・デ・ロヨラの奇蹟』

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
メデューサの頭部 (Haupt der Madusa) 1617-1618年頃
68.5×118cm | 油彩・画布 | ウィーン美術史美術館

17世紀にフランドルを始め諸外国で活躍した巨匠ピーテル・パウル・ルーベンスが1617-18年頃に手がけた傑作『メデューサの頭部』。動物や静物の描写を得意としていた同時代の画家フランス・スナイデルスとの共作とも推測されていたが、現在は全面をルーベンスが手がけたと考えられている本作に描かれるのは、海の老人ポルキュスと海の怪物ケトの間に生まれた三人の娘(ゴルゴンたち)のひとりで蛇の頭髪を持ち、見る者を石にしてしまうと恐れられていたメデューサ(女王の意)の、英雄ペルセウスによって切り落とされた≪メデューサの頭部≫で、斬首された首から流れる鮮明な血や、自分に刃を向け死へと陥れた者を忘れまいとするかのように見開かれたメデューサの眼の生々しい描写は、本作を観る者に極めて生々しい印象を与える。一見すると本作は非常に恐々とする作品のように感じるが、英雄ペルセウスが敵対するフィネウス一味をメデューサの首を掲げ退けた(石に変えた)という伝説や、メデューサの首が戦いの女神アテネに捧げられたとされる神話から、武具や壁の装飾におけるシンボル的な要素として、しばしば用いられてきた題材であり、本作もそのような教養を持った注文主からの依頼によって制作されたと推測されている。

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
アマゾンの戦い (The Battle of the Amazons) 1618-20年頃
121×165cm | 油彩・板 | アルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)

ルーベンスによる神話画の代表的作例のひとつである『アマゾンの戦い』。画家の友人でありアントウェルペンの高名な美術コレクターであったファン・デル・ヘーストやフランス宰相リシュリューが所蔵していた来歴を持つ本作は、軍神マルスを祖先とする神話上の女部族アマゾンの軍勢とギリシア軍による戦闘を描いたもので、瞬間的な運動性に溢れたバロック的視覚表現を用いた最も良例のひとつであるとともに、戦闘という残虐性に女部族アマゾンの刺激的な官能性を加えたところにルーベンスの絵画的思想がうかがえる。また本作はティツィアーノによる≪カドーレの戦い(現存せず)≫に基づき描かれたとされている。

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
ライオン狩り (The Lion Hunt) 1620年頃
249×377cm | 油彩・画布 | アルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)

ルーベンスを代表する狩猟画『ライオン狩り』。画家直筆の手紙に記される作品と同一作であれば、本作はブリュッセル駐在英国大使ジョン・ディグビーの依頼により描かれたとされる。狩猟を題材にした作品は版画にもされるほどポピュラーなものであったが、ルーベンスは血なまぐさい戦闘的な側面を導入し、狩猟というよりも人間と獣による戦いの場面を、激しい運動性とうねるような躍動感を以って、生きるために必死に抵抗するライオンと瀕死に直面した人間の生死を表現した。二匹のライオンはいずれも勇敢かつ獰猛に狩りをおこなう人間へと噛み付き、狩人らはライオンに噛み付かれ落馬する一方で、左の人物はライオンを阻止せんがために必死に抵抗をみせている。このような人間が劣勢に立たされている構図は狩猟画としても稀であり、その点でもルーベンスが本作で残した功績は大きい。

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
花輪の聖母 (Madonna in the Garland) 1620年頃
185×209.8cm | 油彩・板 | アルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)

ルーベンスが他の画家との共作によって制作した作品の好例のひとつ『花輪の聖母』。初期ネーデルランド絵画の巨人ピーテル・ブリューゲルの次男でルーベンスの良き友人でもあったヤン・ブリューゲルが最も得意とする花の静物を描き、ルーベンスが人物を描き入れた本作は、ルーベンスの交友関係を示す資料的価値の作品としてのみならず、各々が得意分野を発揮した当時の極めて完成度の高い共作例としても重要視されている。また本作以外にも、動物画の名手として当時名を馳せていたフランス・スナイデルスとの共作『縛られたプロメテウス』など数多くの共同制作作品が残されている。

関連:ルーベンスとスナイデルスによる『縛られたプロメテウス』

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
マリー・ド・メディシスの生涯 1621-1625年
(The Marie de Medicis Series)
各部分による | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

ルーベンスの画業における最大の大作『マリー・ド・メディシスの生涯』。本作は名門メディチ家出身でフランス王アンリ4世の2番目の妻マリー・ド・メディシス(イタリア語読みではマリア・デ・メディチ)の生涯を、建設中であった新居リュクサンブール宮殿を飾るため24枚からなる場面にて描いた作品で同人から直接の依頼により2年間という契約で制作された。本作において最も目を見張るのは、決して良き王妃ではなかったマリー・ド・メディシスの生涯を神話を題材とする寓意的なアプローチによって世俗的に陥ることなく見事母君としての正当性と尊厳を示したルーベンスの類稀な発想力と表現力であり、当時からこのような寓意的表現はされていたものの、ルーベンスと工房が手がけた本作の表現は、それらとは明らかに一線を画すものであった。また本作の完成後から2年後までに、暗殺されたフランス王アンリ4世の生涯を描くことも契約されていたが、一度和解していたものの、再燃したマリー・ド・メディシスとその息子でフランス国王となったルイ13世との抗争によって下絵のみの制作で留まった。

関連:『マリー・ド・メディシスのマルセイユ上陸』
関連:『アンリ4世とマリー・ド・メディシスのリヨンでの対面』
関連:『サン=ドニ聖堂におけるマリー・ド・メディシスの戴冠式』
関連:『ミネルヴァに扮したマリー・ド・メディシス』

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
麦わら帽子(シュザンヌ・フールマンの肖像) 1622年頃
(Le Chapeau paille "Susanne Fourman")
79×54.5cm | 油彩・板 | ロンドン・ナショナル・ギャラリー

ルーベンスの最も良く知られる代表的な肖像作品『麦わら帽子(シュザンヌ・フールマンの肖像)』。本作はルーベンスが最初の妻イザベラ・ブラントと死別した数十年後に再婚した、二番目の妻エレーヌ・フールマンの姉であるシュザンヌ・フールマンを描いたもので、本来はフェルト帽を被っているのであるが、18世紀末より≪麦わら帽子≫との愛称で呼ばれてきた。ルーベンスの大きな特徴である筆跡を残す軽やかなタッチや女性美を追求した丸々しい肉感的な人物描写はもちろん、本作の愛称≪麦わら帽子≫の名が示すよう、身なりの良い洗練されたシュザンヌ・フールマンの衣装の表現も、本作の中で最も注目すべき点のひとつである。ルーベンスは本作の中で、肖像画らしく(美化された)的確な表現をするだけでなく、良き友人であったシュザンヌ・フールマンの内面的特徴を良く理解し描いており、それは女性としての柔らかさや優しさだけではなく、ひとりの人間の凛とした力強い眼差しを以って示されている。

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
異教の供犠に対する聖体の秘蹟の勝利 1626年頃
(The Vivtory of the Euchaist Over Pagan Sacrifices)
86.5×106cm | 油彩・板 | プラド美術館(マドリッド)

ルーベンス工房が手がけたタピスリーの代表作『異教の供犠に対する聖体の秘蹟の勝利』。本作はその下絵となる作品で、この全11点から構成される連作≪聖体の勝利≫はルーベンスのよき友人であったイザベラ大公妃が幼少期を過ごしたマドリッドのクララ会修道院のために依頼したもので、ルーベンスの下絵を工房で原寸大へ拡大しタピスリーが制作された。連作≪聖体の勝利≫は異教や悪徳に対する信仰と教義の勝利を主題とし、本作『異教の供犠に対する聖体の秘蹟の勝利』では、聖杯を掲げた天使が異教徒とその祭壇に捧げられる供物を退ける場面が描かれており、画家らしい運動性に富んだダイナミックな構図と人物描写は、古代・文明への博学を以って一層豊かに表現されている。また連作≪聖体の勝利≫の左右は円柱(又は螺旋柱)で挟み込む図像を取っているのが大きな特徴である。

関連:聖体の勝利より『狂暴、不和、憎悪に対する教会の勝利』

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
戦争と平和(Peace and War)1629-30年
203.5×298cm | Oil on canvas | National Gallery, London

ルーベンス作『戦争と平和』。スペインのフェリペ4世の使節として協定を結ぶため英国を訪れたルーベンスが、両国の平和を望み1629年から1630年にかけて英国で描かれた。

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
聖イルデフォンソ祭壇画 (Ildefonso Altarpiece) 1630-32年
全352×454cm | 油彩・画布 | ウィーン美術史美術館

ルーベンスが手がけた祭壇画の代表作『聖イルデフォンソ祭壇画』。ブリュッセル宮廷内シント・ヤコプス・オプ・デ・カウデンベルヒ教会の聖イルデフォンソ兄弟団聖堂の為に、イザベラ大公妃の注文により制作された本作は、7世紀トレドの大司教でスペイン最初のベネディト会修道士のひとりである≪聖イルデフォンソ≫の生涯と奇蹟を主題とした作品で、当時ルーベンスが持ち込み主流となっていたイタリア式の古代様式の壮麗な祭壇画形式ではなく、フランドル伝統の三連祭壇画の形式にて制作されているのが最も大きな特徴で、ルーベンスらしく豪華で華麗な運動性と色彩によって、この聖人の逸話(情熱的な聖母崇拝者であった聖イルデフォンソは聖母の処女性を否定した3人の異教徒に対し、見事論破した功績によって、幻想の中で聖母の被る絹頭巾の端を切り取ることを許された)を表現している。また左右両翼には、この聖母出現の奇蹟を目撃するルーヴェンの聖アルベルトゥス、ハンガリーの聖エリサベトが描かれた。

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
三美神 (The Three Graces) 1630年代中頃
211×181cm | 油彩・板 | プラド美術館(マドリッド)

ルーベンスが描く裸婦像の最も典型を為す代表的作品のひとつ『三美神』。本作の主題はルネサンスの巨匠ラファエロボッティチェリの≪春(ラ・プリマベーラ)≫でも描かれた、古代より描かれ続けてきた美と優雅の女神たちであるタレイア(花のさかり)、エウプロシュネ(喜び)、アグライア(輝く女)の≪三美神≫を描いたもので、ルーベンスの裸婦像の大きな特徴である豊満な肉体表現と輝く肌の質感は、この古典的主題においても如何なく発揮されている。またルーベンスは本作を生涯手放すことはなく、没後におこなわれた競売で、当時のスペイン国王フェリペ四世によって購入され、現在はプラド美術館の所蔵となっている。

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
エレーヌ・フールマン(毛皮さん・小さな毛皮)
(Helene Fourment (Het Pelsken)) 1631年頃
176×83cm | 油彩・板 | ウィーン美術史美術館

ルーベンスが私的に描いたとされる作品であり、画家の全作品中、最も愛されている傑作『エレーヌ・フールマン』。毛皮さん、小さな毛皮とも呼ばれる本作は、1626年最初の妻イザベラ・ブラントが死去し失意に暮れるルーベンスが新たに出会った友人シュザンヌ・フールマンの妹で、1630年に挙式した若々しい二番目の妻エレーヌ・フールマンを描いた作品である。本作は画家の死後、売却することを禁止され妻エレーヌ・フールマンに寄与されるようルーベンス自身が遺言に書き残していたことからもルーベンスにとって特別な作品であることが示されているが、注目すべきは、この見事なまでの美しさを秘める裸体の表現にある。近年まで本作は妻エレーヌ・フールマンの入浴直後か、アトリエでの休憩中を即興的に描いた裸婦像であると考えられていたが、研究が進み、現在は古代ローマの彫刻≪メディチのウェヌス(慎みのウェヌス)≫と、ルーベンス自身も模写をおこなったルネサンスの巨匠ティツィアーノの≪毛皮のコートをまとう婦人≫を典拠とした美の女神ヴィーナス(ウェヌス)の姿を妻エレーヌ・フールマンをモデルに描いた作品であるとされている。また暗い背景であることから室内を描いたものとされてきたが、背景には微かに獅子頭の噴水と空が描かれていることが判明している。

関連:『メディチのウェヌス(慎みのウェヌス)』
関連:『毛皮のコートをまとう婦人』

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
聖母子と聖人たち (Madonna and Child with Saints)
1630年代後半 | 211×195cm
油彩・板 | シント・ヤコプス聖堂(アントウェルペン)

ルーベンスによる祭壇画の代表的な作例のひとつ『聖母子と聖人たち』。ルーベンスが死する数日前に本作を自分の墓に飾るよう願ったと言われ、以後今日までルーベンス一族の眠る墓を見守り続けている本作は聖母マリアと、その胸に抱かれる幼子イエスを中心に、聖ヒエロニムスや聖ゲオルギウス、マグダラのマリアなど諸聖人のほか、中央にシント・ヤコプス聖堂に収めた寄進者とされる司祭や美しい女性達数人を配した≪聖会話≫の図像が用いられている。本作に示されるヴェネツィア様式に典拠をもつルーベンスの豊潤な色彩と肉体表現による人物描写は、画家の晩年期の大きな特徴であるほか、ダイナミックな躍動感と闊達に動く強い筆跡などに絶対的な成功を収めた年老いた画家の衰えを見せない創作意欲が感じられる。なおルーベンスの死後、画家の二番目の妻であったエレーヌ・フールマンによってシント・ヤコプス聖堂へルーベンス一族の墓標を建て、画家の願いどおり本作がルーベンスの墓の上に掲げられた。

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
ヴィーナスの饗宴 (The Feast of Venus Verticordia)
1630年代後半
277×350cm | 油彩・画布 | ウィーン美術史美術館

ルーベンスの古典と神話への深い造詣が示される代表的作品『ヴィーナスの饗宴』。本作は三世紀に制作された書物フィロストラトスによる≪イマギネス≫の中の、ニンフが建設したヴィーナス像の周りで、林檎を取りながら戯れるキューピッドを典拠とし描いた作品である。画家が最も芸術的霊感を受けていたヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノによって描かれた本主題をルーベンスは自由な描写による模写で1630年代に一度描いており、本作はその発展形とも呼べる作品で、古代ローマの文筆家オウィディウスの≪祭暦≫より毎年4月におこなわれるローマの女たちによる祭事『ウェヌス・ウェルティコルディア祭(心を変えるヴィーナスの祭り)』の描写を加えて、より豊かで愛と豊穣に満ちた晩年期のルーベンスの精神性が示されている。各部分にはウェヌス・ウェルティコルディア祭で登場する人妻、花嫁、娼婦が、それぞれ中央のヴィーナス像を清める女性と像の前で香を焚く女性、右端から人形(処女性を示す)を捧げに訪れた女性、ヴィーナス像に最も近寄り、鏡を捧げようとする女性として描かれている。また≪イマギネス≫の林檎は様々な果実に変更されより豊穣を表現し、おそらくルーベンスの妻エレーヌ・フールマンをモデルに描かれた左端のニンフを始めとする大勢のニンフやサテュロスの舞踏は、愛と美の戯れを示しているとされている。

関連:ティツィアーノ作『ヴィーナスへの捧げもの』
関連:ルーベンスによる模写『ヴィーナスへの捧げもの』

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
パリスの審判 (The Judgement of Paris) 1632-35年頃
145×194cm | 油彩・板 | ロンドン・ナショナル・ギャラリー

ルーベンスが画家が最も多く描いた代表的な神話画『パリスの審判』。本作のほかにプラド美術館所蔵による『パリスの審判』を始め、七点以上もルーベンスが描いていたことが確認されているこの主題≪パリスの審判≫は、争いの女神エリスが最も美しい女神が手にするよう、神々の饗宴に投げ込んだ黄金の林檎をめぐり我こそはと立ち上がった、ユピテルの正妻で最高位の女神ユノと、愛と美の女神ヴィーナス、知恵と戦争の女神ミネルヴァの中から最も美しい女神を、主神ユピテルにより神々の使者メルクリウスの介添でトロイア王国の王子である羊飼いパリスが選定し審判する、古来より最も人気の高かった神話のひとつで、晩年期におけるルーベンスの特徴である牧歌的な雰囲気と豊満な肉体表現による女性美が見事に示されている。この≪パリスの審判≫では最も美しい女神に自身が選ばれるよう、女神ユノは広大な領土を、知恵と戦争の女神ミネルヴァは輝かしい戦勝を、愛と美の女神ヴィーナスは人間界における最高の美女スパルタ王妃ヘレネを与えると約束し、羊飼いパリスが愛と美の女神ヴィーナスを選んだ為にスパルタ王妃ヘレネは羊飼いパリスの愛によって連れ去られ、スパルタ王国とトロイア王国の間で彼のトロイア戦争が起こったとされている。

関連:プラド美術館所蔵『パリスの審判』

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
愛の庭 -当世風社交- 1635年頃
(The Garden of Love 'Conversation a la mode')
198×283cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

ルーベンス晩年を代表する風俗画的作品『愛の庭』。画家の古い財産目録には『当世風社交』若しくは『若い女性たちの会話』と記載されているも、現在では愛の庭として名が知られている本作は、フランドル地方で流行した上流社会の集いの場面を模して男女の、とりわけ夫婦間における愛の姿を神話的理想像を用いて表現したものである。ジョルジョーネティツィアーノなどヴェネツィア派の影響を強く感じさせる神話的寓意の取り扱いについて、特に本作では愛の象徴キューピッドが手にする燃える松明や薔薇の花冠、つがいで飛来する二羽の白い鳩や孔雀が象徴する結婚(孔雀は結婚の女神ユノのアトリビュート)などに示されており、画面左端ではキューピッドが若い男女を後押ししている。本作のような晩年に手がけられた風俗画は後世の画家たちに強く影響を与え、特にヴァトーらによって確立されたロココ美術における『雅宴画(フェート・ギャラント)』の先駆となったことは最も重要な特筆すべき点のひとつである。

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
我が子を喰らうサトゥルヌス
(Saturno devorando a un hijo) 1635-1638年頃
180×87cm | 油彩・画布 | プラド美術館(マドリッド)

バロック期を代表する巨匠ルーベンスが残す傑作的神話画『我が子を喰らうサトゥルヌス』。スペイン国王フェリペ4世が営んでいた狩猟の為の別館トーレ・デ・ラパラーダの装飾として描かれた本作の主題は、天空神ウラノスと大地の女神ガイアの間に生まれた6番目(末弟)の巨人族で、ローマ神話の農耕神で土星の惑星神でもあるサトゥルヌスが我が子のひとりによって王座から追放されるとの予言を受け、次々と生まれてくる息子達を喰らう場面≪我が子を喰らうサトゥルヌス≫を描いたもので、ルーベンスの描き出すリアリズムに富んだ迫力と緊張感に溢れたサトゥルヌス像は後世の画家に少なくない影響を与えており、後に近代絵画の創始者の一人として知られるロマン主義の大画家フランシスコ・デ・ゴヤも自宅の壁に描いた名高い連作≪黒い絵≫のひとつとして、同主題≪我が子を喰らうサトゥルヌス≫を描いている。ギリシア神話のクロノスと同一視されるサトゥルヌスという主題は中世から様々な寓意的(又は哲学的)解釈がされており、本作では祭暦を視覚的に具現化した姿によって示されている。また本作の黒雲に乗る裸体のサトゥルヌス像は、ルネサンス期最大の巨匠ミケランジェロによる最高傑作『最後の審判』中の自身の生皮を持つ聖バルトロマイからの影響が指摘されているほか、バルトロメウス・スプランヘルの原画に基づくヘンドリク・ホルツィウスの銅版画の構図に関連されると考えられている。

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
農民の踊り (Peasant's Dance) 1635-1640年頃
73×106cm | 油彩・板 | プラド美術館(マドリッド)

ルーベンス晩年の傑作『農民の踊り』。外交使節として多忙な日々を送ったルーベンスがその役割を終え、エレーヌ・フールマンとの再婚の後に手にした幸福と安らぎの生活の中で興味を持った風景や農民の生活が描かれた作品である本作は、同じく画家随一の代表作の『愛の庭 -当世風社交-』が描かれた直後から制作されたと推測されている。イタリア絵画風の古代的な田園風景の中で、中央の巨木を中心に複数人の男女が貧富の差なく楽しげに生の喜びを満喫するかのように踊っている。ここに描かれるのは外交使節として多忙を極めたルーベンスが抱いていた平和への切なる願望と、逞しく生き生きとした農民(庶民)の生活の態度への賞賛に他ならない。うねりにも似た画家独自の激しい躍動感と溢れるばかりの光と色彩に満ちた描写には、他の作品同様ルーベンスの暗喩的な作意が感じられ、本作ではそれが幸福と喜びという感情によって表現されている。また本作には同朋であり初期ネーデルランド絵画の大画家ピーテル・ブリューゲルによる同名作品からの影響と参照も指摘されている。

関連:ピーテル・ブリューゲル作『農民の踊り

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
戦争の惨禍 (The Horrors of Wars) 1637-1638年
206×345cm | 油彩・画布 | ピッティ美術館(フィレンツェ)

ルーベンスが手がけた政治的寓意画の最高傑作のひとつ『戦争の惨禍』。当時のトスカーナ大公フェルディナンド・ディ・メディチのために、大公の宮廷画家ユストゥス・シュステルマンスの依頼によって制作された本作は、約10年近く前に描いた画家の代表作『戦争と平和』と同様、三十年戦争などに代表される欧州の国際情勢の悪化に基づいた主題を描いた作品で、ヤヌスの神殿の開いた扉(古代ローマではこの扉が閉じられているときは平和とされていた)から出てきた軍神マルスが恋人であるウェヌス(ヴィーナス)の制止を振り切り、調和や愛、文化、学問、芸術などを蹂躙しながら復讐の女神アレクトや戦争によって引き起こされる疫病や飢饉の怪物に導かれ邁進してゆく姿を描いたもので、ルーベンスが政治的な声明を込めた最後となる作品である。本作において争いや破壊の象徴となる軍神マルスは、愛と美の女神ウェヌスやクピドの抱擁と愛撫を振り切り剣と盾を振りかざしている。ここで戦いの女神ミネルバではなく愛と美の女神ウェヌスが描かれ、その愛は争いの前で残酷なほどに無力に表現されている。また軍神マルスやマルスを導く復讐の女神アレクトの足下では、我が子を抱いた母による慈愛や多産の寓意や、背を向け壊れたリュートを手にする調和の象徴、書物や素描、一致の象徴である束ねられた矢などが無残にも踏み躙られている。また画面左部分に配されるベールを裂かれ宝飾具を一切身に着けない黒衣の女性は度重なる略奪や争いに見舞われた悲惨な欧州の寓意的表現であり、そのアトリビュートとして隣の天使(又は精霊)がキリスト世界を象徴する十字架と組み合わされた地球儀を手にしている。なお依頼主であるシュステルマンスへ送った画家自身の手紙による本作の解説が現在も残っており、本作の各象徴を読み解く文献として特に重要視されている。

関連:ルーベンスによる油彩下絵『ヤヌスの神殿』

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
ステーンの塔がある風景 1636-1638年頃
(Landscape with the Tower of Steen)
131×229cm | 油彩・画布 | ロンドン・ナショナル・ギャラリー

フランドル絵画の大巨匠ピーテル・パウル・ルーベンスを代表する晩年の風景画作品『ステーンの塔がある風景』。本作に描かれるのはルーベンスが1635年に購入したメヘレンとブリュッセルの間にあるエレヴェイトの領地の田園及びステーン城の風景である。画家の王として君臨し続け、特使として諸外国を巡っていた人生の晩年を過ごすに相応しい、この美しく穏やかな田園の朝もやの眩い詩情的な大気と光に照らされ柔らかく輝きを放つ木々や生き生きと労働する人物を、豊かでありながら非常に繊細で軽やかな描写によって表現している。このような表現はステーン城購入以前の作品にも幾度か用いられてきたが、本作においては濃密な画家の風景の捉え方がひとつの作品として存分に示されている。なお本作はジェノヴァの貴族からイギリス国へと渡った来歴を持ち、同国の画家ジョン・コンスタブルなどに多大な影響を与えたことも知られている。

解説の続きはコチラ

【全体図】
拡大表示
自画像 (Self-Portrait) 1639年頃
109.5×85cm | 油彩・画布 | ウィーン美術史美術館

王の画家にして画家の王と呼ばれ、諸外国までその名声を轟かせたバロック期を代表する画家ピーテル・パウル・ルーベンスが晩年に残した自らの姿『自画像』。ルーベンスは最初の妻イザベラ・ブラントとの結婚を記念して1610年頃に描いた『ルーベンスとイザベラ・ブラント』や1623年頃に皇太子であったチャールズ1世のために制作した自身の肖像画『自画像』など、その生涯において素描を含め数点、自画像を残していることが知られているがそのどれもが自身の社会的立場を示す記念的作例や公的な意味合いの強い表現がなされている。しかし本作においては図像的には1623年頃の『自画像』同様、尊厳に満ちた大きな帽子と黒服に身を包み騎士としての姿で描かれているも、その表情からは公的な肖像画としてより、年老い、痛風に悩まされる自己の内面を深く見つめ描写したかのような、ある種の憂鬱さを含む鋭い眼光をもって描かれている。このような内省的な表現を感じさせる表現はルーベンスの作品としては稀であり、同時にオランダ絵画黄金期最大の巨匠レンブラント・ファン・レインにも通じる本作における最も魅力のひとつなのである。

関連:アルテ・ピナコテーク蔵『ルーベンスとイザベラ・ブラント』
関連:ウィンザー城王室コレクション『自画像』

解説の続きはコチラ
Copyright (C) Salvastyle.com - ++ All Rights Reserved.