Introduction of an artist(アーティスト紹介)
画家人物像
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ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル
Jean-Auguste Dominique Ingres
1780-1867 | フランス | 新古典主義





フランス新古典主義における最後の巨匠。極めて高度な線描を基軸とした形体描写による、厳格で廉潔な絵画を制作し19世紀前半期のフランス絵画界最大の権威者となる。生涯にわたり理想美を追い求め、幾つかの作品は発表当初、批難の的になったものの、その多くは画家の傑作として今も絵画史に燦然と輝いている。当時、最も格調が高いとされた歴史画を始め、神話画、宗教画、さらには官能性豊かな裸婦、肖像画、風景画など様々な画題を手がけている。師ダヴィットの亡命により新古典主義の後継者として名が挙げられるアングルであるが、手がけられた作品の本質にはロマン主義的な革命性や個性を見出すことができる。1780年、トゥールーズの王立美術アカデミー会員であった装飾画家の息子としてモントーパンに生まれ、幼い頃から素描の基礎を父より教え込まれる。1797年にパリへ赴きジャック=ルイ・ダヴィッドのアトリエへ入門。同アトリエで正統な新古典主義的表現を吸収し、1801年にはローマ賞歴史画部門で大賞を受賞。イタリア留学が約束されるものの、同国の財政悪化によりパリへ留まる。1806年のサロンへ『皇帝の玉座のナポレオン』を出品するも酷評を受け、失意の後にイタリアへと旅立つ。以後1824年まで同国へ滞在することとなった。イタリアではルネサンスの画家、特にラファエロの作品に心酔。肖像画制作などで身を立てながら『グランド・オダリスク(横たわるオダリスク)』など画家随一の傑作と呼び声高い作品を同地で制作した。1825年、サロンへと出品されたアングルの作品が好評を呼びパリへの帰国を決意。パリへと戻り王立絵画・彫刻アカデミー会員となったアングルに対し、フランス絵画界はウジェーヌ・ドラクロワに代表されるロマン主義者の対抗としてアングルを古典的表現の象徴として大いに期待を寄せることとなった。その後、フランスで数多くの作品を制作するものの、1834年にサロンへ出品した『聖サンフォリアンの殉教』が酷評を受け、翌1835年、再びローマへと向かい同地のフランス・アカデミー院長に就任、1840年まで同地に留まった。1841年パリへと再帰国。以後、アングルは同国で最も権威ある画家として人々から熱狂的な歓迎を受け、第二共和制美術委員、国立美術学校長、元老院議員など次々と要職の座についた。晩年期は若い画家らの指導者的立場にあったものの、1867年パリで死去。

Description of a work (作品の解説)
Work figure (作品図)
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リヴィエール嬢の肖像


(Portrait de Mlle Rivière) 1805年
100×70cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

19世紀フランス新古典主義の大画家ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル初期を代表する肖像画の傑作『リヴィエール嬢の肖像』。本作はナポレオンが皇帝に即位した、所謂フランス第一帝政時代の重要な高官フェリベール・リヴィエールが、当時15歳(又は13歳)の愛娘≪リヴィエール嬢≫の肖像画制作をアングルに依頼し手がけられた作品である。画面中央で斜めに構えつつ顔をほぼ正面に向けるリヴィエール嬢は、観る者に澄ましたような印象を与える清らかさに満ち溢れた表情を浮かべている。特に印象的なのは大きな黒い瞳と三日月状の太い眉であり、明確で純化が施された形状や輪郭の描写は彼女の純潔性を見事に表現している。さらにその無垢的で崇高な精神性はリヴィエール嬢が身に着ける(当時流行していたウエスト位置の高い)純白のドレスと絶妙に呼応しており、まるで古代の女神にも通じる幻想的な神々しさを感じることができる。また彼女が手にする毛皮の肩掛けと両手に着ける長手袋は女性的な柔らかさや曲線を強調するだけではなく、質感的な対比をも生み出すことに成功している。極めて緻密で丹念に描写された人物表現と同様、本作の背景も特に注目すべき点は多い。左右に広がる森林や湖の描写によって水平を強調しつつ、教会の尖塔の垂直が絶妙なアクセントとなっており、さらにこの尖塔はリヴィエール嬢の自然体的な直立とも呼応している。このようにルネサンス的印象を受ける牧歌的な風景表現を用いながら、綿密に計算された背景構成には若きアングルの類稀な才能を感じずにはいられない。なお本作が制作された1805年にモデルであるリヴィエール嬢はその短い生涯に幕を下ろしている。

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リヴィエール夫人の肖像


(Portrait de Madame Rivière) 1805年
116.5×81.7cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

フランス新古典主義最後の巨匠ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルが初期に手がけた肖像画の代表的作例のひとつ『リヴィエール夫人の肖像』。1806年のサロン出品作としても知られる本作は、フランス第一帝政(皇帝ナポレオン1世による軍事政権)期の要人フェリベール・リヴィエール高官の妻≪リヴィエール夫人≫を描いた楕円形肖像画作品で、アングルは同時期に高官の娘の肖像画『リヴィエール嬢の肖像』も手がけている。画面中央に配された良質な光沢を放つ青い長椅子へ腰掛けるリヴィエール夫人は自然的な振る舞いと表情を浮かべているものの、その凛としつつ優しげな視線や堂々たる姿には高官の妻としての気品を強く感じることができる。また彼女が身に着ける薄いレースのヴェールや艶やかな純白のドレスの繊細な質感描写には若きアングルの傑出した描写力を見出すことができる。さらに本作で最も注目すべき点は夫人が掛けた豪奢なインド風の肩掛けと彼女の姿態が創出する画面内の緩やかな曲線の美しさにある。かつて『ショールの女』と呼称されていたほど、本作の中で特に観る者を惹きつける異国情緒の漂う豪華な長肩掛けは、画面右端から『リヴィエール夫人の左腕、左肩、首、右肩と緩やかな曲線を描くように掛けられ、そこから脱力的に下へ降ろされる右腕に沿うような形で動きがつけられている。このショールと動きと対比的に構成されるリヴィエール夫人の胴体の動きの調和性は白眉の出来栄えである。さらにリヴィエール夫人の長さの異なる左右の腕の描写(※下げられた右腕のみに注目すると異様に長いことがよく分かる)によって写実的な不自然さを感じさせず、静的な構成の中にダイナミズム的効果を発揮することに成功している。また本作の抑えられた色数での色彩的構成は夫人の性格や当時の流行を品の良く演出している。

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皇帝の座につくナポレオン1世


(Napoléon ler sur le trône impérial) 1806年
260×163cm | 油彩・画布 | 軍事博物館(パリ)

偉大なる新古典主義の画家ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル初期を代表する肖像画の重要作『皇帝の座につくナポレオン1世』。フランス第一帝政時、立法院からの依頼により1806年に制作され、同年のサロンへも出品された本作は、1804年、国民投票の圧倒的支持を得てフランス皇帝に就任した≪ナポレオン・ボナパルト≫の姿を描いた肖像画作品である。画面中央に配される皇帝ナポレオン1世は時が止まったかのように微動だにせず真正面を向き、観る者へと視線を向けている。その姿は己の絶対的な勝利と権力を示すかのようであり、またナポレオンの頭上には勝利と栄光を象徴する月桂樹の葉の形で構成された黄金の冠が被せられている。そして本作でナポレオンが身に着ける毛足の長い豪奢な(赤色と白色と黄金色と黒色の)衣服は、フランスの最高権力者(君主)が身に纏う衣服そのものであり、その地位の高さを容易に連想させる。さらに黄金で作られた玉座へ座するナポレオンは、世界を意味する黄金の球体を持った王を象徴する杖を右手で掲げ、祝福を与える指の形をした杖に左手で軽く添えている。このように皇帝や権力者、絶対者としての象徴的要素が至る部分へ配される本作の、堅牢で安定的な正面的構図や、画家の極めて高度な力量を示す圧倒的な写実性、真実性は観る者を否が応にも惹きつけ、そこには幻想性や神秘性すら感じられるものの、しかしそのあまりにも厳格な正面性と迫真的写実表現から、サロン出品時、ゴシック様式や初期ネーデルランド絵画の巨匠ヤン・ファン・エイクの写実性や自然主義的描写と比較され「時代錯誤的である」と酷評を浴びせられることになった。なおアングルは批評家らによる本作への酷評に強く落胆し、同年、イタリアへと旅立っている。

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ドヴォーセ夫人の肖像

 (Madame Devauçay) 1808年
76×59cm | 油彩・画布 | コンデ美術館(シャンティイー)

フランス新古典主義の大画家ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル初期を代表する肖像画作品『ドヴォーセ夫人の肖像』。アングルが『皇帝の玉座のナポレオン』をサロン出品した際に酷評を受け、失意の内に訪れたローマの地で制作された本作は、ローマ法王庁に派遣されていたフランス大使シャルル・アルキエの愛人とされる≪ドヴォーセ夫人≫をモデルに手がけられた肖像画作品である。画面中央へ配されるドヴォーセ夫人は背もたれの赤い曲線の優美な椅子に柔らかく腰掛け、顔面は真正面から、身体やや斜めに構えた姿勢で捉えられている。薄く口角を上げ、観る者へと真っ直ぐに向けられる瞳の深遠な輝きは、ほぼ左右対称に分けられた頭髪や、凛とした眉と共にドヴォーセ夫人の知性を感じることができる。さらに黒髪と合わせるかのようなドレスの深い色彩は天鵞絨(ベルベット)風の質感に程よい品位を与え、また衣服や首飾りの色彩とドヴォーセ夫人の白い肌や大きな金色のショールとの色彩的対比を生み出している。そして左手には指輪、右手には豪奢な扇子と細い腕輪が緻密な筆捌きで丹念に描き込まれている。そして何より本作で注目すべき点は、これらの描写が明らかに長すぎる左腕の不自然さを消している点にある。左腕のみに注目し、右腕や全体と比較すると変異的な右腕の長さに気がつくことができるものの、黄金のショールで左腕を隠し、また左半身を前斜めに向けて描くことで全体のバランスを整えていることがよくわかる。さらに陰影に乏しい黒色の衣服や対角的に描き込まれる丸みを帯びた赤い椅子によって、不自然さの隠蔽に成功している。このような理想美の追求のために構造的な違和をも用い、さらにそれを見事に調和化させる表現手法や写実的描写には、アングルの類稀な画才と絵画的革命性を感じずにはいられない。

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スフィンクスの謎を解くオイディプス


(Œdipe expliquant l'énigme du sphinx) 1808年
189×144cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

フランス新古典主義最後の巨匠ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル初期の代表作『スフィンクスの謎を解くオイディプス(オイディプスとスフィンクス)』。ローマ賞大賞を受賞した数年後に訪れたローマ留学での課題制作義務の最初の作品として制作、提出された作品であり、後に自ら手を加え1827年のサロンへと出品された本作はギリシア神話に典拠を得る、テバイの住人を苦しめていた女性の頭部と獅子の肉体を持つ怪物スフィンクスに「朝は4足、昼は2足、夜は3足で歩むものは何か?答えられたらテバイの地を与えよう。答えられなかったらお前を殺す」と謎をかけられ、それに見事回答を言い当てる(未来のテバイ王)オイディプスの最も有名な逸話のひとつ≪オイディプスとスフィンクス≫を主題にした作品である。画面中央に配されるオイディプスは、洞窟の入り口に陣取り謎を問いかける胸部(女性)の曲線的フォルムを強調したスフィンクスを指差し、凛々しく悠然とした姿で回答を述べている。オイディプスはスフィンクスへと身体を向けるよう上半身を丸くし、また一段高い岩の上に置かれた膝から直角に曲がる左足へスフィンクスを指差す左腕を置いている。極めて端整で古代彫刻を連想させる男性的な力強さを感じさせるこの男性裸体像であるが、複雑なしたい構成を用い、さらにほぼ真横から当てられる光彩設計により身体は平面化し、あたかも浮き彫りのような印象すら受ける。この独特の平面化こそ当時の新古典主義の様式美や自然主義的表現とは一線を画す、アングルのロマン主義的な革命性(近代性)の表れである。本作は1808年にパリの王立絵画・彫刻アカデミーへと送られるものの、平坦で厳格な画面の構成と表現に審査委員会は不満を述べたとされるが、本作の独創的な空間表現には近代の画家たちに多大な影響を与えた。なお本作の画面奥に描かれるスフィンクスに恐れ戦き逃げ出す男は、フランス古典主義の巨匠ニコラ・プッサンに着想を得たとされている。

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ラファエロとラ・フォルナリーナ


(Raphaël et la Fornarina) 1811-12年
64.7×53cm | 油彩・画布 | フォッグ美術館

19世紀フランス新古典主義最後の巨匠ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルの歴史的肖像画作品『ラファエロとラ・フォルナリーナ』。スイスの裕福な銀行家プルタレス=ゴルジエ伯爵の依頼により、画家が1806年から滞在していたローマの地で制作をおこない1814年のサロンへも出品されたことが確認されている本作は、ルネサンス期に活躍した偉大なる画家ラファエロ・サンツィオと彼の永遠の恋人(と考えられる)ラ・フォルナリーナ(パン屋の娘を意味する愛称。本名はマルゲリータ・ルティとされる)を主題に≪ラファエロの生涯≫描いた作品で、当時流行していた過去の画家の伝記に基づいた歴史的肖像画の中の1点でもある。画面中央に配されるラファエロはラ・フォルナリーナを両腕でしっかりと抱き寄せながらもその顔は画面右側に配された製作途中の画布へと向けられている。この画布に描かれるのは名高い『若い婦人の肖像(ラ・フォルナリーナ)』であり、ここには現実(抱き寄せるラ・フォルナリーナ)から理想(絵画上のラ・フォルナリーナ)への芸術的昇華の意図が指摘されている。また画面奥右側にはラファエロ屈指の傑作として知られる『小椅子の聖母』が配されており、アングルのラファエロ、そして『小椅子の聖母』に対する深い敬意の念を感じることができると同時に同作品からの着想も暗示している。なおラファエロとラ・フォルナリーナを画題とした作品は現在までに複数点知られているが、本作はその中で最も早い時期に制作されたと考えられている。

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オシアンの夢

 (Le songe d'Ossian) 1813-35年頃
348×275cm | 油彩・画布 | アングル美術館(モントーバン)

19世紀フランス新古典主義の偉大なる巨匠ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル作『オシアンの夢』。当時イタリアへ遠征予定であったフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトのローマ駐屯時における宿舎として想定されていたパラッツォ・デル・キリナーレの装飾画(寝室の天井画)として制作された本作は、古代ケルト族が残したとされる叙事詩の著者≪オシアン※≫を主題とした作品で、本主題はロマン主義者たちに多大な影響を与えた主題としても知られている(※1763年に世間へ発表されたこの叙事詩は、スコットランドの詩人ジェイムズ・マクファーソンが古代ケルトの詩集を発見した主張していたものの、その信憑性は当時から研究者や歴史家から疑問が呈されており、現在ではほぼ同人物の空想上の創作として捉えられている)。画面中央下部に配される古代ケルト族の詩人オシアンは簡素な緑色の衣服と紅色の外套を身に着けながら、竪琴へもたれかかるように深い眠りについている。オシアンの頭上では彼が記したとされる叙事詩に登場する古き英雄や女神(女性)たちがおぼろげな霧に包まれながらグリサイユ的に描写されており、その己の運命を謳い儚げに消えゆく英雄たちの姿は、まさに夢想の出来事としての幻想性を感じることができる。英雄的主題を好んだ皇帝ナポレオン・ボナパルトの寝室に相応しい主題を非常に高度な写実的描写を用いながら、ロマン主義者の作品とも見間違えるほどの叙情性を醸し出させる本作は、画家の全作品の中でもある種の特異的に位置付けられているが、その完成度は極めて高く今も観る者を魅了する。

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ヴァルパンソンの浴女


(Baigneuse dite de Valpinçon) 1808年
146×97.5cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

新古典主義の大画家ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル初期を代表する裸婦作品のひとつ『ヴァルパンソンの浴女』。1808年のサロンへ出品され高い評価を受けたほか、1855年の万国博覧会へも出品されている本作は≪浴女≫を背面から捉えたアングルの典型的裸婦作品で、名称の≪ヴァルパンソン≫は本作を(当時)400フランで購入し所有していたヴァルパンソン氏に由来している。画面中央やや右側へ配される頭にターバン風頭巾を着けた浴女は、寝具に腰掛け一息をつくような自然体の様子で背後から描かれている。皺ひとつよらない理想化された肌の表現や、全体的に丸みを帯びた女性らしい肉感とふくらみの描写は、あたかも古代の彫刻を模したかのような完全とした形状的美しさに溢れており、観る者を強く惹き付ける。また正確なデッサンに基づいた非常に高度な写実性は本作の洗練性を視覚的に強調する効果も生み出しており、線描を重要視するアングルの様式的傾向が良く示されている。さらにこの背面から捉えられた裸婦像は、アングル晩年の代表作『トルコ風呂』などにも取り上げられるよう、画家の裸婦像に対する内面的理想形のひとつも同時に見出すことができる。なお1855年の万国博覧会への出品は、ヴァルパンソン氏と懇意であった当時21歳の若きエドガー・ドガ印象派を代表する画家のひとり)が仲介したことによって実現し、その際、アングルがドガと対面し助言を与えたという有名な逸話が残されている(※この時与えられた助言が切欠でドガはデッサンを重要視するようになった)。

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グランド・オダリスク(横たわるオダリスク)


(La Grande Odalisque) 1814年
91×162cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

新古典主義最後の巨匠ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルが34歳の時に描いた代表作『グランド・オダリスク』。主題は当時流行したオリエンタル趣味≪オダリスク≫で、皇帝ナポレオンの妹であるナポリの王妃カロリーヌの依頼により描かれたが、制作途中で帝政が崩壊した為、数年の後に画家自身の手によってサロンへ出品された経緯を持つ。女性美を輝く肌と優雅な曲線を用い、デフォルメされた抽象的表現で描かれた本作だが、発表時は調和や統一性、形式美、理知などが尊重された時代だった故、そのいびつな背中と伸びきった腕を持つ裸婦の姿に、当時の評論家から多大な非難を受けたものの、人体構造的にはあり得ない伸びきった背中や太過ぎる腰・臀部・大腿部は、アングルが美を追求した末に辿りついた表現として、現在は同画家の大きな特徴として認識されている。画家は若い頃、修行で訪れたローマでルネサンス芸術に触れ、特に巨匠ラファエロの影響を強く受け、この裸婦の顔つきもラファエロの傑作≪若い婦人の肖像(ラ・フォルナリーナ)≫の影響と思われる表現が本作には用いられている。

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レオナルド・ダ・ヴィンチの死


(La mort de Léonard de Vinci) 1818年
40×50.5cm | 油彩・画布 | プティ・パレ美術館(パリ)

19世紀フランス新古典主義の巨匠ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル作『レオナルド・ダ・ヴィンチの死』。1824年のサロン出品作としても知られる本作は、美術史家としても知られる16世紀イタリアの画家兼建築家ジョルジョ・ヴァザーリが編纂した≪美術家列伝≫に典拠を得て、ルネサンス三大巨匠のひとりレオナルド・ダ・ヴィンチが晩年、当時のヴァロワ朝第9代フランス国王フランソワ1世の招きにより同地を訪れ余生を過ごすものの、1519年の5月2日にクルーの館(クロ・リュッセ)で客死したという場面を脚色して描いた作品である。画面中央よりやや左側へ描かれる寝台(ベッド)へは老いたレオナルドが今まさに天上へ召されたのであろう白々とした姿で描き込まれており、その亡骸をフランソワ1世が(死を確かめるように)強く抱き寄せている。史実としてこのような出来事があったとは伝わっていないものの、両者の姿には老いたルネサンスの大巨匠と芸術家の庇護者としても名高い偉大なる王フランソワ1世の厚い友情と親交の深さを感じることができる。そしてレオナルドの傍らのテーブルには書物と黄金の十字架が置かれ、寝台の周囲には従者や司教など複数の人々が精緻な筆さばきで丹念に描かれている。本作の寝台や机、椅子などの構成要素や直立的な人物描写による水平・垂直の強調や、正確なデッサンによる当時の考古学に基づいた写実性の高い描写手法など新古典主義の典型的な様式は極めて秀逸の出来栄えであり、また斜的なフランソワ1世の姿態と呼応する椅子の肘掛など細部の計算された構成にも目を見張るものがある。

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パオロとフランチェスカ


(Paolo et Francesca) 1819年
48×39cm | 油彩・画布 | アンジェ美術館(フランス)

19世紀フランス新古典主義の巨匠ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルによる文学主題作品の代表的作例『パオロとフランチェスカ』。1855年のパリ万国博覧会への出品作としても知られている本作は、13世紀イタリアを代表する詩人ダンテ・アリギエーリの傑作≪神曲≫の版画(クーパン・ドゥ・ラ・クープリ)に着床を得て制作された作品で、地獄篇 第5歌に記されるポレタン家の娘フランチェスカと、彼女の嫁ぎ先であるマラテスタ家の義弟パオロがはじめて接吻する場面が描かれている。容姿が醜かったマラテスタ家の息子ジャンチオットに嫁いだフランチェスカは彼の弟であったパオロに心を惹かれ、またパオロもフランチェスカに魅了される中、ふたりで読んだアーサー王物語(湖水のランストッロ)中「王妃グィネヴィアと円卓の騎士ランスロットの接吻」のくだりでパオロとフランチェスカが互いの愛に気づき口づけをするのであるが、本作では義弟パオロがフランチェスカへ身を寄せ情熱的な接吻をおこなう情景が描かれている。フランチェスカは戸惑いと罪悪感を隠し切れないながらも、思わずアーサー王物語が書かれる書物を手から落としている仕草からパオロの愛に対する甘い喜びと受け入れの感情を見出すことができる。本主題ではその後、フランチェスカの夫ジャンチオットがふたりの裏切りに激怒し両者を殺害する(※パオロとフランチェスカは地獄を彷徨うことになる)流れとなっており、本作中ではパオロとフランチェスカの口づけを目撃し剣を手にする夫ジャンチオットが画面奥右側へ描き込まれている。

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アンジェリカを救うルッジェーロ


(Roger délivrant Angélique) 1819年
147×190cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

新古典主義の巨匠ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルが手がけた中世文学主題作品の代表作『アンジェリカを救うルッジェーロ』。1819年に開催されたサロン、そして1855年のパリ万国博覧会への出品作としても知られる本作は、15世紀後半から16世紀前半期(ルネサンス期)に活躍した、同時代のイタリアを代表する詩人ルドヴィーコ・アリオストの傑作叙事詩≪怒れるオルランド(狂えるオルランド)≫の一場面に典拠を得て制作された作品で、美しく又恋多きキタイ(※インド)の姫君アンジェリカが魔術師に騙され海賊に捕らわれた後、海の怪物の生贄として鎖で岸壁に繋がれるものの、彼女に激しい恋心を抱いていた主人公のひとり遊歴騎士ルッジェーロが上半身が鷲、下半身が馬という誇り高き伝説の生物ヒッポグリフに跨りながら怪物を退治し、アンジェリカを救い出すという場面が描かれている(※救い出した後、結局ルッジェーロはアンジェリカに失恋する)。画面左側に描かれる黄金の甲冑を身に着けた騎士ルッジェーロは、雄々しくいきり立つヒッポグリフの背に乗りながら長槍で画面右下の怪物と戦っている。怪物は。毒々しく赤い口を開き鋭い牙をルッジェーロへと向けつつ、刺された槍によってもがき苦しんでいる。そして画面中央よりやや右側に配される美しきアンジェリカは太い鎖で岩礁に繋がれながら己を助けんとするルッジェーロへと視線を送っている。本作に示される古代の彫刻のように理想化されたアンジェリカの美しく均整的な姿態や、主対象を重点的に照らす演劇的な光源処理、極めて写実的ながらどこか人工的な造形を感じさせる描写などには、新古典主義の典型的様式に基づきながら、他の追随を許さないアングル独自の個性を感じることができる。なお公開された当時、ルッジェーロをペルセウス=アンリ4世、アンジェリカをアンドロメダ=フランスと置き換え、フランスを解放するアンリ4世と王政支持思想の解釈が指摘されたが、主題表現そのものにおいては引用も認められるものの、思想的意味においてはほぼ否定されている。

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 (La source) 1820-1856年
163×80cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

19世紀フランス絵画界の偉大なる巨匠ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルの代表作『泉』。画家のみならず新古典主義における裸婦の傑作としても名高い本作は、アングルがローマ賞受賞後、20年近く滞在したイタリアのフィレンツェで、おそらくは1820年頃から制作が開始された、≪泉≫の擬人像としての裸婦作品である(※≪泉≫の擬人化の典拠として14世紀の彫刻家ジャン・グージョンによる『イノサン噴水の浮き彫り彫刻』などが挙げられている)。画面中央に配される泉の擬人像は正面を向きつつ首を右側に傾げ、下がった左肩に水が流れ出る水瓶を乗せながら全身をS字にしてバランスをとってる。この体の重心を片方(本作では左足)にのせ、もう片方(本作では右足)を遊脚にすることで全身をS字形に流曲させる姿態≪コントラポスト≫は、古代ギリシャの彫刻家が祖とされ、ルネサンス期の巨匠ミケランジェロも傑作『ダヴィデ像(ダビデ像)』で用いるなど、古典的かつ伝統的な姿態構図として芸術家の間では一般化しており、また本作はそれを用いた新古典主義時代の典型的な作品としても広く知られる。皺ひとつない大理石を思わせる滑らかな肌や皮膚、均整的で理想化を感じさせる調和的な裸婦の肉体、無駄がなく明快で理知的な構図と正面性、動きの少ない安定的な画面構成などの点からも本作は、芸術におけるひとつの完成形として後世の画家たちに多大な影響を与えた。なお本作は1820年頃から制作が開始されているものの、アングルが晩年期に入って間もない1856年に画家の弟子らによって完成させられた。

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皇太子のパリ入城(シャルル5世のパリ入城)


(L'entrée à Paris du dauphin, (futur Charles V)) 1821年
47×56cm | 油彩・板 | ウォズワース・アテネウム

フランス新古典主義の巨匠ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルを代表する歴史画のひとつ『皇太子のパリ入城(シャルル5世のパリ入城)』。当時の権力者のひとりパストレ伯爵の依頼により1821年に制作され、1824年のサロンへも出品された本作は、ヴァロワ朝第3代の王であり、賢明王とも呼称された教養高き王≪シャルル五世≫が皇太子(王太子)時代に英国の捕虜として捕らえられるものの1358年にパリへと帰還したという、中世の作家ジャン・フロワサールの≪年代記≫の史実に基づいた歴史画作品である。構図や図像は15世紀フランスの画家ジャン・フーケが手がけたフランス年代記の挿絵に着想を得ていることが知られている本作では、画面中央やや右側へ白馬に跨る皇太子時代のシャルル五世が配されており、その姿は歴史に伝えられるよう、虚弱気味な痩身体で描かれている。しかし騎乗のシャルル五世は手を胸に当て、対角線上に配される忠実なフランス王家の家臣が掌を内側に向けることで示す王家への忠誠心に応えている。本作には依頼主パストレ伯爵の意向でもあるフランス王家に対する明確な忠誠の証が示されており、アングル特有の高度な写実性と新古典主義の堅牢で安定的な画面構成がその主題的内面をより強固なものとしている。

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ルイ十三世の誓願

 (The Vow of Louis XIII) 1824年
421×262cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

19世紀フランス新古典主義時代随一の画家ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルを代表する宗教画作品のひとつ『ルイ十三世の誓願』。ローマに滞在していたアングルがイタリアで名を馳せパリへと戻る前年の1824年に、画家の故郷モントーバンのノートル・ダム大聖堂の依頼によって制作された本作は、1638年の聖母被昇天の日(8月15日)にフランス国王ルイ13世が同家の守護聖人でもある聖母マリアと幼子イエスへ誓願する姿を主題に描かれる宗教画作品である。画面上部中央へ配される幼子イエスを抱く聖母マリアは神々しく輝く光に包まれながら厳粛で清廉な表情を浮かべている。この聖母マリアの姿はアングルがイタリアで強く影響を受けたルネサンス期の三大巨匠のひとりラファエロ・サンツィオの『システィーナの聖母』を模しているが、原図と比較するとアングル独特の堅牢的な形式性がより色濃く反映されている。また画面ほぼ中央に配される左右の緑色のカーテンを広げる2天使を境に、画面下部やや左側へ王を示す冠とブルボン家の紋章である百合が先端についた黄金の杖を聖母マリアへ差し出し誓願するルイ13世が描き込まれている。本作のやや過ぎた感も認められる古典様式を強く意識した堅硬な画面構成や色彩表現、極めて高度な写実的描写などは成熟期を迎えつつあるアングルの絵画的特徴がよく示されている。

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マルコット・ド・サント=マリ夫人の肖像


(Mme Marcotte de Sainte-Marie) 1826年
93×74cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

19世紀フランス新古典主義最後の大画家ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルを代表する肖像画作品のひとつ『マルコット・ド・サント=マリ夫人の肖像』。本作はアングルの良き友人であり、同時に画家の有力なパトロンのひとりであったマルコット・ダルジャントゥイユの義姉となる≪サント=マリ夫人≫をモデルに描いた肖像画作品である。画面中央で黄色の敷布が掛けられた椅子にゆったりと座るサント=マリ夫人は、その大きな瞳を観る者へと向けながら魅惑的な表情を浮かべている。顔面部分では特に人としての意思の強さを感じさせる濃い眉毛や、やや厚みのある唇や結い上げられた巻き毛の髪型の繊細な描写に描写家としてのアングルの類稀な才能を感じずにはいられない。さらに姿態へと目を向けてみると寛ぎを感じさせるリラックスしたサント=マリ夫人のポーズにはモデルに対する画家の親和的な心地良い関係を見出すことができる。そして本作で特に注目すべき点は色彩表現の秀逸さにある。サント=マリ夫人が身に着ける衣服はボリューミーでありながら派手過ぎない茶褐色をベースとした色彩で統一されており、モデルの品位を際立たせることに成功している。それは夫人が手にする書物によってより強調されている点も注視したい。さらに黄色の敷布や身に着ける少数の装飾品に用いられる黄色や黄金色と茶褐色との対比、そして暗い背景へと続く色彩的連続性の秀逸さは今も観る者を強く惹きつける。

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ホメロス礼賛

 (L'apothéose d'Homère) 1827年
386×515cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

新古典主義最後の画家ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルが手がけた神話画主題作品の傑作『ホメロス礼賛』。元はルーヴル宮「シャルル10世美術館」の「第9の間」の天井画として制作された本作は、『イリアス』や『オデュッセイア』などの叙事詩の著者として知られる古代ギリシアの偉大なる詩人≪ホメロス≫と、彼を礼讃する45人の偉人・寓意像を描いた作品である。画面中央に配される詩人ホメロスはイオニア様式のパンテオン(万神殿)を背に杖を持ちながら椅子に鎮座している。ホメロスの傍らでは有翼の勝利の寓意像(勝利の女神)が彼に月桂樹の冠を被せようとしており、またホメロスの一段下には彼が手がけた傑作叙事詩≪イリアス(朱色の衣服)≫と≪オデュッセイア(緑色の衣服)≫の寓意像が拝されている。さらにホメロスの周囲にはアレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)、プラトン、アイスキュロス、ウェルギリウスなど始め、アペレス、ラファエロ、フェイディアス、ニコラ・プッサン、ラシーヌ、さらにはダンテなど合計45人もの歴史上の偉大な人物や芸術家、詩人などが時代を問わず描き込まれている。本作で最も注目すべき点は、本作で用いられる新古典主義的様式美と描かれる主題の意味にある。極めて堅牢で厳格的な左右対称性の高い構図が用いられる本作の典型的な新古典主義の様式美は、本作の主題となる古代・古典への礼讃そのものを表している。これは新古典主義者であるアングルの古代・古典に対する意思表現そのものであるとも言える。さらに本作に登場する人物はアングルが影響を受けてきた歴史上の人物でもあり、そのような点から本作は画家の人生の縮図的な側面も見出すことができる。なお本作は1855年にパリ万国博覧会へと出品された際に「第9の間」から取り外され、現在は模写が展示されている。

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ルイ=フランソワ・ベルタン氏の肖像


(M.Louis-François Bertin) 1832年
116×96cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

フランス新古典主義最後の巨匠ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルを代表する肖像画作品『ルイ=フランソワ・ベルタン氏の肖像』。本作はオルレアン朝ルイ=フィリップ1世在位時(7月王政期)の重要な実業家で、情報誌≪論争新聞(ジュルナル・デ・デバ)≫の主催者としても知られる≪ルイ=フランソワ・ベルタン≫氏を描いた肖像画作品である。画面中央に配されるベルタン氏は真っ直ぐ視線を(本作を)観る者へと向けており、その観る者を鋭く観察するような視線や意志の強さを感じさせる真一文字に結ばれた口元などは対象(ベルタン氏)の厳しい性格を顕著に示している。また木椅子へやや斜めに腰掛けながら手を両膝の上に置いた重厚な姿態には大物実業家としての本質的内面性を見出すことができる。当時の新聞業界を牛耳る存在であった本作のモデルであるベルタン氏の肖像画を制作するにあたり、アングルはその人物像を肖像画として如何に表現するか、相当苦心していたことが知られており、本作でのベルタン氏の身構えるような姿態は、画家が同氏が一人で部屋にいるところを密かに観察していた最中、ベルタン氏が立ち上がろうと両手で膝頭を掴んだ姿を目撃し、それに着想を得たと伝えられている。本作の非常に緻密で精緻な写実的描写と計算された画面構成と構図が高い水準で融合される本作の描く対象の内面性までもを捉え、そこから本作を観る者まで肉薄するかのような人物表現はアングルの肖像画作品の中、特に男性肖像画の中でも白眉の出来栄えを示しており、今なお画家随一の代表作として人々に強い感銘を与え続けている。

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聖サンフォリアンの殉教(聖シンフォリアヌスの殉教)


(Le martyre de saint Symphorien) 1834年
407×339cm | 油彩・画布 | サン・ラザール大聖堂(オータン)

フランス新古典主義最後の巨匠ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルの大作『聖サンフォリアンの殉教』。フランス中西部ブルゴーニュ地域圏の都市オータンのサン・ラザール大聖堂の祭壇画として制作された本作は、同地で殉教した2〜3世紀頃の聖人≪サンフォリアン(シンフォリアヌスとも呼ばれる)≫が、異教の神である古代の地母神(農耕神)キュベレーへの信仰・礼拝を拒絶したことで同地の支配者から斬首の刑に処される前に母親が城壁の外から励ましの言葉を叫び、それに応えるという同聖人の最も知られる逸話を主題とした作品で、アングルは本作を10年の歳月をかけて建築物や登場人物が身に着ける衣服など細部にわたり教会の意向に合わせて描いたことが知られている。前景として画面中央やや右側へ配される簡素な白い衣服を身に着けた聖サンフォリアンは、斜め後ろ上部を振り返りながら父なる神への忠実な信仰心を示す古代の仕草である両の腕を高々と上げながら刑場へと連れ出されている。聖サンフォリアンの周囲には幾多の民衆、兵士、刑執行人の姿などが細密な筆使いで丹念に描かれており、それらは指差しをする赤衣の男を頂点に人山を形成している。そして画面左上には聖サンフォリアンの母親が息子の仕草と呼応するかのように両腕を広げて息子に励ましの言葉を投げかけている。1834年のサロン出品作としても知られる本作は、やや明度に乏しい色調や窮屈な群衆表現などによって新古典主義者たちから酷評を受け、失意の中でローマへと向かい同地のフランス・アカデミー院長として1840年まで国外に滞在している(※しかし本作はロマン主義者たちには高評価を受けていたと伝えられている)。

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奴隷のいるオダリスク


(Odalisque à l'esclave) 1839-40年
72×100cm | 油彩・画布 | フォッグ美術館

フランス新古典主義の偉大なる巨匠ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル後期を代表する裸婦作品のひとつ『奴隷のいるオダリスク』。アングルがパリの友人シャルル・マルコット・ダルジャントゥイユから1821年に依頼を受け、大凡20年の経過後、サロンでの酷評に失意し訪れた自身2度目の滞在となるローマで完成された本作は、当時の東方趣味(オリエンタリズム)の流行に基づいた≪オダリスク(イスラム社会における後宮の女性を意味する)≫を主題とする裸婦作品である。アングルと対極に位置付けられていたロマン主義の巨匠ドラクロワがサロン(官展)へ『アルジェの女たち(1834年)』を出品し、大きな反響と賛辞を得ていたことからも理解できるよう、19世紀当時のフランス絵画界(及び文化)では東方趣味がひとつの大きな流れとなっており、本作もそれに準じた作品のひとつと位置付けられる(アングル自身、1814年にほぼ同主題の傑作『グランド・オダリスク』を手がけている)。前景として画面下部やや右側に両腕を頭部付近で組みながら寝そべるオダリスク(後宮の女性)が配されており、絶頂後の恍惚を思わせるような艶かしい表情や、柔らかく優美な姿態の曲線には眼を奪われるばかりである。またオダリスクと対称的な位置に配される楽器を奏でる召使との着衣的な対比も秀逸である。さらに本作ではオダリスクの足位置にオダリスクを囲う権力者を暗示させるかのように豪奢な帽子や衣服の一部が丹念に描き込まれていることは、そのまま我々が作品を目にする視点が権力者(サルタン)の視点であるという解釈もおこなうことができる。そして画面奥には後宮(ハーレム)の守衛である黒人の臣下が前景より一段階暗く描かれている。本作は絵画的表現に注目しても、朱色の円柱や装飾された手摺柵、壁に描かれるイスラム的文様で強調される垂直や水平など新古典主義様式を明確に感じさせながら、それと対比するかのようなオダリスクの曲線美にはアカデミズム的理念を見出すことができる。

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ドーソンヴィル伯爵夫人の肖像


(Comtesse d'Haussonville) 1845年
131.8×92cm | 油彩・画布 | フリック・コレクション

19世紀フランス新古典主義最後の巨匠ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルを代表する肖像画作品のひとつ『ドーソンヴィル伯爵夫人の肖像』。アングルが2度目のイタリア滞在から帰国し、人々からフランス画壇の最高権威者のひとりとして熱狂的に迎えられて間もない1845年に制作された本作は、アカデミー会員としてもよく知られた名門貴族ドーソンヴィル伯爵の夫人であり、ブロリ公女の義姉妹でもある社交界の花形≪ルイーズ・ド・ブロリ≫をモデルに制作された肖像画作品である。画面中央へ配されるドーソンヴィル伯爵夫人は大きな鏡台へ凭れ掛かるように立ちながら視線を観る者へと向けており、右手は胴から下腹部を押さえるような、左手は顎のあたりに軽く添えるような姿態を見せている。この独特な左手の仕草は、2度のイタリア滞在中で熱心に研究していた古代ローマの彫刻に倣った≪瞑想≫を意味するものであり、ドーソンヴィル伯爵夫人の知性と教養の高さを示している。また伯爵夫人が身に着ける衣服は艶やかな光沢を帯び一見して品質と(夫人の)地位の高さを理解することができる。そして伯爵夫人の背後の鏡台には彼女の後頭部が映っており人間としての2面性を暗喩させている。極めて高度で卓越した技術を用いた細部への徹底的で妥協なき取り組みによる写実的描写や、美しきドーソンヴィル伯爵夫人の魅力的な顔立ちや表情なども特筆に値する出来栄えであるが、本作で最も注目すべき点はあえて非現実的な人体描写をおこなうことで観る者へ理想的な形体の視覚認識をおこなわせている点にある。伯爵夫人の左肩から背にかけての急激な湾曲は人体の骨格構造的には有り得ないものであり、また両腕の長さも画面奥側の右腕が極端に長く描かれている。しかし画面全体としては人体の不自然さを全く感じることは無く、むしろ湾曲は伯爵夫人の女性らしさを、左右の腕は全身姿態の絶妙な均衡を保たせる効果を発揮している。このような理想美追求のための現実性の変改はアングルの大きな特徴であり、本作には画家の美に対する確固たる信念・対峙がよく示されている。

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水からあがるヴィーナス(ヴィーナスの誕生)


(Vénus Anadyomène) 1807-1848年
163×92cm | 油彩・画布 | コンデ美術館(シャンティイ)

19世紀フランス新古典主義の偉大なる画家ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルを代表する神話画作品のひとつ『水からあがるヴィーナス(ヴィーナスの誕生)』。画家27歳となる1807年から構想(※素描も残されている)されていたものの、完成まで実に40年以上の歳月を要した本作は、愛と美と豊穣の女神で、ギリシア神話におけるアフロディーテと同一視される≪ヴィーナス(ウェヌス)≫を画題に女神の誕生の場面を描いた作品である。女神ヴィーナスは神々の最初の王としても知られる天空神ウラノスから滴った精液が海に落ち、その泡から誕生したとされており、本作では女神が泡から生まれ出でる光景が官能的に描かれている。画面中央に配される美の女神ヴィーナスは黄金に輝く長い髪を両手で柔らかく掻き揚げながら観る者へと視線を向けており、その無感情的ながら堂々としたその姿には美の女神としての神々しさを感じることができる。また片足(本作では左足)に重心をかけ(※コントラポスト)、さらに身体手足全体で大きなS字の曲線を形作る姿態で女神の裸体は描写されているが、本作で用いられる誇張的なS字曲線は女神の官能性をより強調する効果を発揮している(※比較参照:アングル作『泉』)。そしてヴィーナスの足元には愛の神アモール(別名キューピッド。ギリシア神話におけるエロスと同一視される)たちが無邪気な様子で纏わり付くように配されている。さらに後方へ目を向けてみると左側には夜明けを思わせる太陽が昇り、濃青の海がその陽光によってうっすらと輝いている。本作で前景に描かれる女神ヴィーナスと薄暗い背景の色彩的対比は、彼女の艶かしい官能性と共に特筆に値する出来栄えを示している。なお本作にはルネサンス三大巨匠のひとりで、画家自身多大な影響を受けていたラファエロ・サンツィオの『ガラティアの勝利』からの影響が指摘されている。

参照:オルセー美術館所蔵『泉』
参照:ラファエロ・サンツィオ作『ガラティアの勝利

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パフォスのヴィーナス

 (Vénus à Paphos) 1852年頃
91.5×70.5cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

フランス新古典主義最後の大画家ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルとその弟子らによる共同制作の典型的な作品のひとつ『パフォスのヴィーナス』。本作は画家の高名な弟子ポール・フランドラン(フランドラン兄弟)がが描いた、当時の上流社会の社交界の常連であったアントワネット・バレー女史の素描に基づき、もう一人別の高名な弟子アレクサンドル・デゴッフと協作(※デゴッフは背景を担当)して手がけられた、美の女神≪ヴィーナス(ギリシア神話におけるアプロディーテと同一視される)≫を主題とした作品である。元々アントワネット・バレーの肖像画として制作され始めたのか、それとも最初からヴィーナスを意図として制作されたのか、その真意は不明であるものの、アングルが数多く手がけたヴィーナス主題の作品の中で特に図像(イコノグラフ)的典型が示される本作では、画面中央に果物を手にした裸体のヴィーナスが麗しく艶かしい視線を観る者へ向けながら座する姿で描かれている。画面右下には愛の神キューピッド(ギリシア神話におけるエロスと同一視される)であろう幼い子供がヴィーナスの手にする果物に触れており、両者の関係性を象徴させている。また画面左上には海の泡から生まれた美の女神ヴィーナスが降り立った聖地として知られるキプロス島西部の都市パフォスの神殿が描き込まれている。本作の古典主義的な主題表現や様式美も特筆すべき出来栄えであるが、最も注目すべき点はヴィーナスの裸体表現にある。一見して厳格な写実性の逸脱を理解することのできる理想的曲線美が誇張がヴィーナスの肉体のフォルムには、画家が追い続けてきた不自然を超越した美の調和を明確に見出すことができる。

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聖ペテロの天国の鍵の授与

 1820年頃-1841年頃
(Jésus remet à saint Pierre les clefs du paradis)
280×217cm | 油彩・画布 | アングル美術館(モントーバン)

19世紀フランス新古典主義時代を代表する画家ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルによる宗教画作品『聖ペテロの天国の鍵の授与』。画家のローマ第一次滞在時に同地のトリニタ・ディ・モンティ教会からの依頼により制作が開始され、20余年の経過の後、完成をみた作品である本作は、新約聖書マタイ伝16章18-1 9に記される、主イエスがキリスト十二使徒第1の弟子≪聖ペテロ(聖ペトロ)≫へ天国の鍵を授与する場面≪聖ペテロの天国の鍵の授与≫を描いた作品で、1855年の万国美術展への出品作品としても知られている。本作の主題≪天国の鍵の授与≫は、キリスト十二使徒が集う中、神の子イエスが跪く聖ペテロに対して「わたしはこの岩の上のわたしの教会を建てる。黄泉の国もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐのは天上でもつながれ、あなたが地上で解くことは天上でも解かれる」と、天国の門を開く鍵を与える場面で、聖ペテロの名称は教会の中心人物たる≪岩(アラム語でジェファ)≫に由来している。本作では、画面左側へ天上を示しながら天の鍵を聖ペテロへ与える主イエスが光輪と共に神々しく描きこまれ、その足元には跪いた聖ペテロが信仰深く、かつ神の威光に畏怖するような眼差しで主イエスを見つめている。さらにその背後では他のキリスト十二使徒たちが各々様々な表情を浮かべながら本場面に立ち会う姿が配されている。主イエスの厳格な正面性や物音ひとつ感じさせない静謐な場面描写、そして独特の静けさと呼応する、まるで時間が止まっているかのような非運動性には典型的な新古典主義の様式が示されている。なお本作をてがけるにあたりアングルはルネサンス三大巨匠のひとりラファエロ・サンツィオが手がけたタピスリー下絵『聖ペテロの天国の鍵の授与』に着想を得ている。

関連:ラファエロ作 聖ペテロの天国の鍵の授与』

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聖餅の聖母(オスティアのマリア)


(La Vierge à I'hostie) 1854年
直径113cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

新古典主義の巨匠ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルによる宗教画の代表的作例のひとつ『聖餅の聖母(オスティアのマリア)』。1855年のサロン及び同年に開催されたパリ万国博覧会への出品作として知られる本作は、主イエスの肉体の実体化として聖体礼儀で食される、聖別された無発酵パン≪聖餅(オスティア、ホスチアとも呼ばれる)≫の前の≪聖母マリア≫の姿を描いた作品で、ルネサンス三大巨匠のひとりラファエロ・サンツィオの工房作品『ろうそくの聖母』に着想を得て制作されたと考えられている。円形(トンド)形式で手がけられる本作では円の頂点から中央に線を引く形で主題となる聖母マリアと白布の掛けられたテーブルへ置かれる黄金の聖爵へと乗せられる聖餅(オスティア)が配され、その左右には香炉を覗き込む天使(画面左側)や燭台の蝋燭に炎を灯す天使(画面右側)が描かれている。画面構成としては古典様式を彷彿とさせる厳格で聖性が際立つな正面性と左右の対称性が顕著に示される本作の聖母マリアは貞淑な表情を浮かべながら聖餅へと視線を向けつつ、身体はやや斜めに構え胸の前で両手を合わせる肢体にて描写されている。聖母マリアの腹部あたりに描かれる聖餅は偉大なる主の奇跡を連想させるかの如く、非現実的に黄金の聖爵の上で垂直に立っており、その正面性や完全な円形には宗教的な神秘的印象も見出すことができる。また本作は表現手法に注目しても、一切の染みや傷がない理想化された構成要素の滑らかで人工的な描写や簡潔な画面構成には新古典主義の最高権威者としての立場的表現が感じられる。なおロシアのプーシキン美術館やフランスのボナ美術館、ブラジルのサンパウロ美術館には本作のヴァリアントや油彩習作が所蔵されている。

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トルコ風呂

 (Le bain turc) 1859-63年頃
110×110cm | 油彩・画布(板) | ルーヴル美術館(パリ)

新古典主義を代表する画家ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルが晩年期に手がけた裸婦作品の集大成的作品『トルコ風呂』。本作はオスマン帝国に派遣されていた英国大使夫人モンタギュー夫人が残した書簡集(1805年刊行)に記されるトルコ風呂の情景の一説に、さらにその書簡集に基づいて制作された数点の版画に着想を得て手がけられた≪浴女≫を主題とする作品である。画面中央前景には優雅に楽器を奏でる女性や、怠惰的にソファーへ寝そべる女性、髪に香油を付ける女性などが配されており、後景には音楽に合わせて踊る者、会話を楽しむ者、飲食する者などさまざまな女性たちが描き込まれている。本作に登場する女性たちは舞台が風呂である為、全て裸体(※これもモンタギュー夫人の書簡集に基づいている)であり、この裸婦の群衆的様子や独特の雰囲気には、アングル自身も強く惹かれていた西洋文化とは全く異なる豊潤な異国情緒とエロチシズムが感じられる。さらに画面前景の楽器を奏でる背を向けた裸婦はアングル初期の傑作『ヴァルパンソンの浴女』との、魅惑的な視線を向けながら怠惰的に横たわる裸婦には『グランド・オダリスク(横たわるオダリスク)』との造形的特長の一致が明確であり、本作は画家がそれまでに手がけた裸婦像の統合的再構成という面も見出すことができる。さらに製作過程を考察すると、本作は当初、四角形の画面で制作されていたものの、その後、幾度も画家自身の手によって修正を加えられ続け、ついには1862年から完成となる1863年までの間にイタリア風の円形画(トンド)形式へと画面そのものを変更するに至っている。なお本作の豊潤な官能性や総合的肉体描写は後期印象派の巨匠ポール・セザンヌを始め、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、アンリ・マティス、パブロ・ピカソなど後世の画家たちに多大な影響を与えた。

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博士たちと議論するキリスト


(Jésus au milieu des docteurs) 1842-62年
265×320cm | 油彩・画布 | アングル美術館(モントーバン)

19世紀に活躍したフランス新古典主義の巨匠ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル晩年期を代表する作品『博士たちと議論するキリスト』。1842年から着手され20年もの歳月をかけ1862年に完成させられた本作は≪博士たちと議論するキリスト≫を主題とした作品である。本作の主題≪博士たちと議論するキリスト≫は新約聖書ルカ福音書2:41-51に記される逸話で、過越祭を祝うためエルサレムへ赴いた12歳のイエスと両親(ヨセフとマリア)が祭りの終了後、故郷ナザレへの帰路に発つものの、ヨセフとマリアが旅の途中、イエスが居ないことに気づき急いでエルサレムへ戻り三日後に同地へ再着、イエスが神殿でユダヤの博士(神学者)らと議論(問答)を交わしていた姿を発見し、「なぜ帰路に着かなかったのですか?私たちは心配をしたのですよ」と両親がイエスに問いかけたところ、「どうして私を捜したのですか?私が父の家(=神殿)に居るのは当然です」と返答したという内容で、5世紀には作例が見られる伝統的な主題でもある。主(父なる神)への帰属と神の子イエスの神童ぶりを示す話として主題が解釈される本作では、古典に則り画面中央の最も高い位置に少年の姿のイエスが配されており、右腕を上へ左腕を前に向け整然と講釈するイエスの姿態には神の子としての神々しさを存分に感じることができる。またイエスの左右には弁論に驚愕する神学者が、前景となる画面下部にはイエスの論説を討議し合う博士たちが綿密に描写されている。そして画面右側へはイエスを迎えに来た歳暮マリアと聖ヨセフが光輪と共に描き込まれている。本作の精緻な対称性や主題を強調する厳格な正面性、高度な写実描写による安定的で秩序高い画面構成と場面展開はアングルの古典様式が良く示されている。

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黄金時代

 (L'âge d'or) 1862年
46.3×61.9cm | 油彩・画布 | フォッグ美術館

フランス新古典主義最後の巨匠ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル最晩年の作品『黄金時代』。本作は古代ギリシアの詩人ヘシオドスの≪労働と日々≫や古代ローマの偉大なる詩人オウィディウスの≪変身物語(転身物語)≫へ、全ての人々が平安と繁栄を享受する人類の歴史上最高の時代として描かれる≪黄金時代≫を主題とした作品である。本作は、元々1842年から1849年にかけてリュイヌ公爵オノレ・ダルベールの依頼により同氏が所有するパリ郊外ダンピエールの館ミネルヴァの間の壁画として構想、制作が着手されるものの、妻マドレーヌの死(1849年)など様々な理由で未完成のまま制作中止となった作品を、1862年に画家自らが小型のヴァリアントとしてほぼ忠実に再現、完成させた作品である。画面中央へは神像が置かれる祭壇を囲むように三美神や四季の象徴たちが音楽に合わせ踊る姿が描かれており、その中心にはフルートを奏でる幼子が配されている。画面右側では画家自身「美しき安逸に包まれる一群」と呼んだ、花冠を被った美しい男女や果物やワインを飲食する男女が黄金時代の喜びを分かち合うかのように描き込まれ、その頭上では天使が無邪気に花びらを散らせている。さらに画面左側では正義を司る女神アストラエア(アストライア)が説く美徳の教えに多くの人々が耳を傾ける光景が描かれている。そして画面中央やや右側奥には全景を見渡せる位置として、黄金時代を統治する農耕を司る時の翁サトゥルヌスの像が配されている(※ダンピエールの館の壁画ではサトゥルヌス像は画面右側は配されていた)。アングル自身、本主題においてはサトゥルヌス神と女神アストラエアの2名を重要視しているという解釈をおこなえるものの、原図(壁画)の依頼主であり熱心な王政復古主義者であったリュイヌ公爵の「黄金時代=正義の時代=王政時代」という政治的理念が反映しているという別解釈も述べられている。

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Work figure (作品図)


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