Introduction of an artist(アーティスト紹介)
画家人物像
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フィンセント・ファン・ゴッホ Vincent van Gogh
1853-1890 | オランダ | 後期印象派




後期印象派の中でも最も名の知られたオランダ出身の画家。絵の具の質感を顕著に感じさせる力強く荒々しい、やや長めの筆触や、絵の具本来の色を多用した強烈な色彩による対象描写で数多くの作品を制作。特に画家の内面をそのまま反映したかのような迫真性の高い独自の表現は野獣派(フォーヴィスム)やドイツ表現主義など後世の画家に大きな影響を与えた。生前は全く作品が売れなかったものの、死後急速に評価を高め、現在では後期印象派を代表する画家のひとりとして重要視されている。画家の特徴的な作風は印象派の画家たちやアドルフ・モンティセリの影響が大きい。1853年、ベルギー国境近郊のオランダ北ブラバンド地方フロート・ツンデルトで牧師一家の子供として生まれる。1857年、弟テオ誕生。青年期は画廊見習いや炭鉱地帯の伝導師(牧師)、教師としてオランダ、ロンドン、パリなどで就労するも長続きしない。1873年、就労の為に訪れていたロンドンでの下宿先の娘アーシュラ・ロイヤーに心を奪われ求婚するも拒絶され、激しい失意に見舞われる。1880年、ケスムスの炭鉱夫の家に寄宿する中、画家になる決意を弟テオに手紙で知らせる。同年、ブリュッセルで画家ラッパルトと知り合い遠近法と解剖学を学ぶ。1882年、娼婦シーン(クリスティーヌ)と知り合い同棲するも親族に知られ、弟テオを除く家族の信頼を失う。1886年、アカデミーに入るも伝統的な権威主義に反感を抱くが、ルーベンスの明瞭な色彩に魅了される。同年3月、パリのモンマルトルに住んでいた弟テオの家に向かう。パリでアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックエミール・ベルナールポール・ゴーギャン(ゴーガン)カミーユ・ピサロジョルジュ・スーラポール・シニャックエドガー・ドガギヨマンなど当時、先端をゆく画家らと親しくなり多大な影響を受け、パレット内の色彩も急速に明るさを増す。また当時の流行のひとつであった浮世絵など日本趣味にも触れ、日本に憧れを抱くようになる。1888年、パリ生活に疲れていたゴッホは、ロートレックの勧めもあって強い太陽の光を求め友人の画家らを誘い南仏アルルへと向かうが、応じたのはゴーギャンのみであった。南仏アルルでゴーギャンと共に意欲的に制作活動をおこなうが、対象を見て描く画家と、写実的描写を否定するゴーギャンの間で討論となり、二人の間の緊張度が増す。同年12月23日夜、画家が自ら剃刀で耳を切り落とし娼婦ラシェルのもとへ届け、翌日入院。二人の共同生活は二ヶ月足らずで終了となる。耳切事件からすぐに退院するも翌1889年、画家自身の希望によりサン・レミのカトリック精神病院に入院。比較的自由な生活を送り、数多くの作品を制作(画家の代表作の多くもこの時期に生まれる)。また色調と筆触に変化が見られるようになる。1890年、パリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズに移住するも、同年7月27日に(おそらく胸部に)ピストルを撃ち自殺を図る。29日駆けつけた弟テオに見守られながら死去、享年37歳。弟テオも翌年に死去。
Description of a work (作品の解説)
Work figure (作品図)
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1足の靴(古靴、古びた靴)

 (Paires de Souliers) 1886年
37.5×45cm | 油彩・画布 | フィンセント・ファン・ゴッホ美術館

後期印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホ、パリ時代の代表作『1足の靴(古靴、古びた靴)』。本作はポール・ゴーギャンの回想によると、1877年、アムステルダムの神学校(大学)の受験を放棄し、ブリュッセルの福音伝道学校で新たに神学を学ぶ為に徒歩で同地へ向かったゴッホがその旅の途中で購入し、福音伝道学校でも三ヶ月で就学を諦め、1878年の12月に公式的な任命も無いまま、己の意思のみによって欧州有数の炭坑地帯であった、ベルギー南部のボリナージュの鉱山へ赴き、過酷な労働条件の中で働く労働者や病人の世話など慈善活動をおこなっていた、所謂「ボリナージュ滞在期」にゴッホが履いていた≪革靴≫を描いた作品である(又はパリ時代に購入した靴)。本作は印象派の登場以降、絵画芸術の先端を進んでいたでパリへ、ゴッホが絵画を学ぶ為に訪れた1886年の夏頃(又は後半頃)に制作されたと推測される作品で、荒々しく大胆な筆触ながら、皮が剥げ擦り切れた古びた靴の草臥れた状態や、過酷な状況下で使用され続けたことを容易に想像させる様子は、ほぼ的確にその形態が捉えられており、画家の描く対象(本作では靴)に対する写実的姿勢が明確に示されている。本作以降も、1886年末頃には『3足の靴』が、さらに1887年初頭〜中頃には(本作と同名称となる)『1足の靴(古靴)』が制作されており、ゴッホはパリ滞在時に複数(5点)本画題を手がけたことが知られている。ここで注目すべきは、バルビゾン派の画家ミレーの抑制的な色彩と、19世紀フランスの画家アドルフ・モンティセリの影響を感じさせる写実的対象表現の変化にある。本作や『3足の靴』では、激しく損傷した革靴の状態を冷静に観察し、的確に表現されているが、年が明けた頃に制作されたと考えられている『1足の靴(古靴)』には、それまでの写実性の中に装飾的な表現が示されており、特に画面左の靴に打ち込まれた底の滑り止め用の金具の表現や、右の靴の擦れた皺の線描表現には、それまでにはない画家の独自的表現を見出すことができる。また色彩表現においても、靴の底の橙色を始めとした暖色と、背景や床の青色(寒色)の対比的描写は特筆すべき点である。本作を始めとしたパリ時代に≪靴≫を描いた作品群はゴッホの表現手法の変化や、独自的表現への過程を示している点で、この時代を代表する≪画家としての自画像≫であるとも解釈することができる。なお本作に描かれる古靴の解釈については農民の靴とする説のほか、両方とも左足用の靴にも見えるため、画家自身と弟テオを表すとする説が唱えられている。

関連:フォッグ美術館所蔵 『3足の靴』
関連:ボルティモア美術館所蔵 『1足の靴(古靴)』

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タンギー爺さんの肖像(ジュリアン・タンギーの肖像)


(Le père Tanguy) 1887年
92×75cm | 油彩・画布 | ロダン美術館(パリ)

後期印象派随一の画家フィンセント・ファン・ゴッホ、パリ滞在期の代表的な肖像画作品のひとつ『タンギー爺さんの肖像(ジュリアン・タンギーの肖像)』。1887年の秋に制作された本作はモンマルトルのクローゼル通りで画材店を営んでいたジュリアン・タンギー氏、通称≪タンギー爺さん≫を描いた作品である。タンギー爺さんはパリの若い画家たちを熱心に支持しており、金銭的に苦しい画家に対しては画材代金の代わりに作品を受け取る場合も多かったと伝えられている。ゴッホもタンギー爺さんには多大な恩恵を授かっており、本作では同氏に対するゴッホの深い敬愛の念を感じることができる。さらにタンギー爺さんに見られる太く力強い筆触による描写や厳格な正面性も、この頃の画家の表現様式を考察する上で特筆に値する出来栄えである。また本作の背景を構成する複数の浮世絵も(本作の)最も注目すべき点である。画面左中央に二代目歌川豊国の『三世岩井粂三郎の三浦屋高尾』、左下に二代目歌川広重の『東都名所三十六花選 入谷朝顔』、中央には歌川広重の『富嶽三十六景 相模川』、右上には同じく歌川広重の『東海道五十三次名所図 会石楽師』、右下には渓斉英泉の『雲龍内掛の花魁』が描かれていると推測されており、本作には表現的な影響はあまり感じさせないものの、ゴッホの日本美術への強い傾倒(画家は浮世絵の熱心な収集家であった)や、その後の平面性・奇抜な構図展開などの取り入れを予感させる。なおゴッホは1887年の冬から翌88年初頭にかけてほぼ同様のタンギー爺さんの肖像をもう一枚制作しており、こちらは現在S・ニアルコス氏が所蔵している。

関連:個人所蔵 『タンギー爺さんの肖像』

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黄色い家(アルルのゴッホの家、ラマルティーヌ広場)


(La maison jaune (La maison de Vincent à Arles)) 1888年
76×94cm | 油彩・画布 | フィンセント・ファン・ゴッホ美術館

後期印象派の偉大なる巨匠フィンセント・ファン・ゴッホ、アルル滞在期を象徴する作品『黄色い家(アルルのゴッホの家、ラマルティーヌ広場)』。本作は友人アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの勧めもあり、1888年2月から南仏プロヴァンスの町アルルでゴッホが他の画家仲間らと共に共同生活をしながら制作活動をおこなう目的で借りた家、通称≪黄色い家≫のある風景を描いた作品で、同年(1888年)の9月に制作された。このアルルでのゴッホの意欲的(希望的)で壮大な計画は、他の画家仲間から賛同を得るには至らず、結局、同時期に総合主義を確立させた(ポン=タヴェン派)の指導者的立場に近かったポール・ゴーギャンのみがブルターニュから参加するのみであった。さらに二人の共同生活はゴーギャンの到着(1888年10月末)から二ヵ月後となる12月の23日に、かの耳切り事件によって悲惨な結末を迎えることとなったが、本作にはゴッホの抱いていたアルルでの制作活動に対する大いなる夢と希望が随所に感じられる。画面中央にはアルルのラマルティーヌ広場に面する黄色い家を始めとした建物群が描かれており、画面下部には街道を行き交う人々が数人配されている。建物群と街道には南仏プロヴァンスの明瞭な光に照らされるかのように輝くような強烈な黄色が用いられており、本作は画面の2/3がこの画家の希望を感じさせる黄色によって支配されている。またそれとは対照的に画面上部(画面の1/3)は鮮やかでやや重々しい青色の空が縦横の筆触によって描かれており、黄色と青色の絶妙な色彩的対比を画面内に生み出している。本作で用いられる黄色こそ画家の生涯を通じて選定された、ゴッホが自身の個性を最も反映することのできた色彩であり、本作や傑作『ひまわり』などを始めとしたアルル時代の作品にはそれらが顕著に示されている。

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夜のカフェテラス(アルルのフォラン広場)


(Le Café de soir (Place du Forum, à Arles)) 1888年
81×65.5cm | 油彩・画布 | クレラー=ミュラー国立美術館

後期印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホ、アルル滞在期の代表作『夜のカフェテラス(夜のアルルのカフェテラス、アルルのフォラン広場)』。本作はゴッホが1888年2月から滞在した南仏の町アルルの旧市街の中央にあるフォラン広場(フォルム広場、フォロム広場、フォーラム広場とも呼ばれる)に面する、比較的裕福な階級層向けのカフェテラスの情景を描いた作品である。1888年9月に制作されたことが画家の書簡から判明している本作では、画面左側に当時の文明の発展を象徴するガス灯(人工灯)の黄色の光に照らされるカフェが輝くように描写され、画面右側と前景にはカフェへと続く石畳、そして一本の杉が描かれている。一方、画面上部(又は遠景)には窓から光の漏れる薄暗い旧市街の町並みと、青々とした夜空が印象的に配されている。黒色を全く使用しない黄色と深い青色で描かれる夜の情景表現は、ゴッホは本作で取り組んだ最も大きな要素のひとつであり、(画家にとっても馴染み深い)この黄色と青色の明確な色彩的対照性や激しい(力動的な)衝突は観る者の目と心を強く奪う。さらに夜空に輝く星々の独特な表現は、画家自身の言葉によれば夜空に咲く「天国の花」として描いた為としている。本作の黄色と青色、そして杉の木の緑色の鮮やかな色彩描写は(本作中で)最も注目すべき点ではあるが、本作の石畳の複雑な色彩表現も特筆に値するものである。画面最前景の轍の入った石畳の、やや影が落ちた暗く強い色調と、最もガス灯の光が当たるカフェテラスの前の石畳の白く反射する明瞭な色調の対比的描写は、図形化したかのような造形と共に、この頃に手がけられた画家の作品の中でも傑出した表現であり、アルルの旧市街にある夜のカフェテラスの情景の印象を決定付けている。

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アルルのゴッホの寝室(画家の寝室、ゴッホの部屋)


(La Chambre de Van Gogh à Arles) 1888年
72×90cm | 油彩・画布 | フィンセント・ファン・ゴッホ美術館

後期印象派を代表する画家フィンセント・ファン・ゴッホがアルル滞在期に手がけた最も重要な作品のひとつ『アルルのゴッホの寝室(画家の寝室、ゴッホの部屋)』。本作はゴッホが大きな希望と高い制作意欲を抱いて滞在していた南仏アルルで制作された作品で、(ゴッホが南仏アルルに誘った)画家たちの共同生活場所を想定して借りられた「黄色い家」の自身の寝室が描かれている。画家は弟テオに宛てた手紙の中で本作について次のように述べている。「僕は自分の寝室を描いた。この作品では色彩が全ての要であり、単純化した物体(構成要素)は様々な色彩によってひとつの様式となり、観る者の頭を休息させる。僕はこの作品で絶対的な創造力の休息を表現したかった。」。画面右側の大部分にゴッホが使用していた木製の寝具(ベッド)が置かれ、そこに沿う白壁には二枚の肖像画と不可思議な絵画が飾られている。ベッドの反対側(画面中央)には椅子が一脚置かれており、この椅子は本来白色をしていたことが判明している。画面右側には小さな木机とそこに置かれる瓶や水差し、さらに画面手前に画面中央の椅子とほぼ同様の椅子が配されている。正面の壁には三角形の窓と、その両脇に風景画らしき絵画が掲げられている。寝具、木製の机、ニ脚の椅子、壁に掛けられる絵画、木の床、窓などに持ちられる赤色や黄色の明瞭で鮮やかな色彩と、三面の壁の青味を帯びた色彩の対比は、画家自身も述べているよう本作の最も注目すべき点であり、一点透視図法を用いた急激な遠近法による空間構成と共に、本作の表現的特徴を決定付けている。なお完成後、洪水によって損傷を受けた本作が制作された翌年(1889年)、神経発作の為に入院していたカトリック精神療養院退院後にゴッホは、本作に基づく2点の複製画(レプリカ)を制作している。

関連:シカゴ美術研究所所蔵 『アルルのゴッホの寝室』
関連:オルセー美術館所蔵 『アルルのゴッホの寝室』

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ひまわり、14本

 Tournesols (quatorze) 1888年
92×72.5cm | 油彩・画布 | ロンドン・ナショナル・ギャラリー

後期印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホのおそらくは最も代表的な作品のひとつであろう『ひまわり(14本)』。本作は日本の浮世絵から強い影響を受け、同国を光に溢れた国だと想像し、そこへ赴くことを願ったゴッホが、ゴーギャンを始めとする同時代の画家達を誘い向かった、日差しの強い南仏の町アルルで描かれた作品で、本作を始めとする≪ひまわり≫を題材とした作品は、このアルル滞在時に6点、パリ時代には5点描かれていることが記録として残っている。画家の人生の中でも特に重要な時代であるアルル滞在時に手がけられた作品の中でも、最も傑出した作品のひとつでもある。本作の観る者の印象に強く残る鮮やかな黄色の使用については、ゴッホが誘った画家達と共同生活をするために南仏の町アルルで借りた、通称「黄色い家」を表し、そこに描かれるひまわりは、住むはずであった画家仲間たちを暗示したもであると指摘する研究者もいる。また、ひまわりの強い生命力と逞しいボリューム感を表現するために絵具を厚く塗り重ね描かれたが、それは同時に作品中に彫刻のような立体感を生み出すことにもなった。なおゴッホは1889年の1月に本作のヴァリエーションとなる作品を始めとして3点のレプリカ(フィラデルフィア美術館所蔵版ファン・ゴッホ美術館所蔵版損保ジャパン東郷青児美術館所蔵版)を描いているが、その意図や解釈については研究者の間で現在も議論されている。

関連:山本顧与太氏旧蔵(焼失)『ひまわり、5本』
関連:個人所蔵 『ひまわり、3本』
関連:ノイエ・ピナコテーク所蔵 『ひまわり、12本』
関連:フィラデルフィア美術館所蔵 『ひまわり、12本』
関連:ファン・ゴッホ美術館所蔵 『ひまわり、14本』
関連:損保ジャパン東郷青児美術館所蔵 『ひまわり、15本』

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ひまわり、5本

 Tournesols (cinq) 1888年
98×69cm | 油彩・画布 | 山本顧弥太氏旧蔵(現在は焼失)

後期印象派の偉大なる画家フィンセント・ファン・ゴッホの、現在は失われてしまった代表作『ひまわり、5本』。かつて神戸の芦屋で貿易商を営んでいた実業家山本顧弥太氏が所蔵していたものの、第二次大戦の戦火で焼失してしまうという悲劇に見舞われた本作は、フィンセント・ファン・ゴッホが強烈な陽光に憧れ、強い希望を抱いて訪れた南仏アルルで制作された6点のひまわりを画題とした作品の中の一点である。アルル時代の『ひまわり』では、ロンドン・ナショナル・ギャラリーなどが所蔵する『ひまわり、14本』のような、ゴッホが誘った画家達と共同生活をするために南仏の町アルルで借りた、通称「黄色い家」を暗示する黄色の背景のものが最も知られているが、本作では描かれる向日葵の黄色や橙色と補色関係にある深い藍色が背景色に用いられており、向日葵の数から考察しても、現在米国の個人が所有する『ひまわり、3本』と共に本作はやや特異な存在であり、『ひまわり、14本』の構成に至る過程段階の作とも、明確な色彩対比による視覚的効果を目指したとも推測されている。しかし本作が他の作品らと決定的に異なっている点は、花瓶の足元二輪の向日葵の頭が配されている点である。本画題≪ひまわり(向日葵、ヒマワリ)≫は、南仏アルルに向かう前に滞在したパリでも5点制作されるなど画家にとって最も魅力的な画題のひとつであったが、アルル時代のひまわりには画家の抱いていた南仏アルルでの制作活動や生活に対する希望など(ある種の自画像的な)心理的内面がより明確に表れており、その意味では本作のやや陰鬱にすら感じられる(パリ時代に制作された向日葵に近い)色彩表現は特に注目に値する。また向日葵や花瓶の形体描写においてもアルル時代の『ひまわり』の中では最も単純化、そして平面化されており、クロワゾニスム(対象の質感、立体感、固有色などを否定し、輪郭線で囲んだ平坦な色面によって対象を構成する描写)を思わせる太く力強い輪郭線と共に、本作の解釈・考察する上で重要視されている。

関連:ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵 『ひまわり、14本』
関連:個人所蔵 『ひまわり、3本』
関連:ノイエ・ピナコテーク所蔵 『ひまわり、12本』
関連:フィラデルフィア美術館所蔵 『ひまわり、12本』
関連:ファン・ゴッホ美術館所蔵 『ひまわり、14本』
関連:損保ジャパン東郷青児美術館所蔵 『ひまわり、15本』

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耳を切った自画像(頭に包帯をした自画像)


(Portrait de l'artiste par luimême) 1889年
60×49cm | 油彩・画布 | コートールド美術研究所(ロンドン)

フィンセント・ファン・ゴッホの代表的な自画像作品のひとつ『耳を切った自画像(頭に包帯をした自画像)』。本作はゴッホが画家としても尊敬していた友人ポール・ゴーギャンと共に制作活動をおこなった日差しの強い南仏の町アルル滞在時に起こした有名な≪耳切り事件≫の直後に制作された自画像作品である。ゴッホは対象を見ながら制作していたのに対し、ゴーギャンは描く対象の(自然主義的な)写実的表現を否定していた為、アルル滞在で両者は対立してしまう。南仏アルルでの制作活動に呼応し、複数誘った画家仲間の中でただ一人、共同のアトリエ兼生活場所である黄色い家に来訪してくれたゴーギャンから見放され独りになることを恐れたゴッホは次第に精神を病んでいき、遂には1889年12月23日の夜に芸術論でゴーギャンと激論を交わし、黄色い家を出てしまったゴーギャンを剃刀を持ったゴッホが追いかけ、ゴーギャンを一目した後、剃刀で自身の耳を切り落とし娼婦ラシェルのもとへ届けるという≪耳切り事件≫をおこしてしまう。この時のゴッホの極度の精神的緊張や狂気性は、アルル滞在時にゴーギャンが≪耳切り事件≫を起こす直前のゴッホを描いた『ひまわりを描くフィンセント・ファン・ゴッホ』にも如実に表れている。画家の大きな特徴である(モンティセリの影響を感じさせる)太く絵具の質感を残した独特の筆触で描写される本作のゴッホは、包帯で巻かれる顔側部など痛々しい様子であるが、その表情や、観る者、そして画家自身へと向けられる視線は冷静であり、一見すると落ち着きを取り戻したかのようにも見える。しかしこの事件以降、画家は幻覚と悪夢にうなされるようになり、その症状は生涯続いたと伝えられている。また背後には(異論も多いが、おそらく佐藤虎清による)浮世絵『芸者』が飾られており、鮮やかで明るさの増した色彩と共に、ゴッホの日本趣味への傾倒も示されている。なおゴッホは本作以外にも、耳切り事件直後の自画像『パイプをくわえる包帯の自画像』を残しており、この作品は切り落とした耳の傷から滴る血の色を思わせる赤色と、身に着ける衣服の緑色との色彩的対比が特徴的である。

関連:『パイプをくわえる包帯の自画像』
関連:ポール・ゴーギャン作 『ひまわりを描くファン・ゴッホ』

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星月夜-糸杉と村-

 Nuit étoilée (cyprès et village)
1889年 | 73×92cm | 油彩・画布 | ニューヨーク近代美術館

ゴッホが神経発作のためにサン・レミのカトリック精神病院に入院していた際に描かれた晩年期の傑作、星月夜。ゴッホは自身が盲信していた自然世界との一体化について次のように語っている。「夜空の星をみているといつも夢見心地になるが、それは地図の上で町や村を表す黒い点を見てあれこれと夢想することに近い。何故、夜空に輝く点にはフランス地図の上の点のように近づくことができないのか不思議に思う 〜中略〜 僕らは死によって星へと到達するのだ」。星降るような空を創造したいと自身が投書した手紙の中でも語っているゴッホが、それを表現した象徴的な作品である本作の最も印象的な、渦を巻く暗雲やその中で光を放つ月の表現は観る者に強い印象を与える。本作でゴッホは、本来の静寂に包まれた闇夜を描くのではなく、自身のエネルギーを発散するかの如く、黙示禄的な印象を抱かせる激情に溢れた夜を描いた為である。また糸杉と呼ばれる天高く伸びた杉の木を始めとする大半のものは本作はゴッホが入院していたサン・レミのカトリック精神病院の病室から見た風景を元にされているが、画面中央の北欧的小村と教会はゴッホの想像によって描かれた。

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自画像(渦巻く青い背景の中の自画像)


(Portrait de l'artiste par luimême) 1889年
65×54cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

19世紀末のフランスで活躍した後期印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホの最も著名な自画像作品のひとつ『自画像(渦巻く青い背景の中の自画像)』。かの耳切り事件後、1889年5月から神経発作により画家自身の希望でサン・レミのカトリック精神病院「サン・ポール」へ入院していた時代(通称サン・レミ時代)の9月頃に制作されたゴッホの自画像作品で、少し前(8月末頃)に手がけられた『自画像(パレットのある自画像)』と共に、ゴッホの自画像作品の中では最後期の自画像としても広く知られている。画面中央へやや斜めに構え白いシャツと上着を着たゴッホの上半身が描かれる本作の最も注目すべき点は、やはり青い渦巻き模様風の背景の描写にある。画家の観る者(或いは画家自身)の内面すらまで見据えるかのような厳しくある種の確信性に満ちた表情と呼応するかのように本作では背景が表現されており、それは耳切り事件と度重なる神経発作による画家の不安定で苦悩に満ちた感情が、あたかも蒼白い炎となってうねりながら燃え立つ渦巻き模様として具現化しているようである。サン・レミ時代のゴッホは自室のほか制作部屋が与えられるなど、比較的自由な入院生活の効果もあり、精神状況も回復(安定)しつつあったものの、それでも本作で表現される画家自身の姿からは狂気的で異様な画家の精神的内面が如実に感じられる。さらにゴッホ自身は、自身の心理の最深部まで入り込んだかのような本作の自画像表現に関してレンブラントなど17世紀オランダ絵画黄金期の伝統性に着想を得たと弟テオに宛てた手紙の中で言及している。また本作は色彩表現や表現手法においても、『耳を切った自画像(頭に包帯をした自画像)』や『自画像(パレットのある自画像)』などそれまでに手がけてきた自画像と比較し、明度と筆触に明らかな違いが示されており、幻想的で夢遊な明るさと短く流線的なタッチは、ゴッホが晩年期に辿り着いた自身の絵画表現の最も優れた例のひとつである。

関連:1889年8月末頃制作 『自画像(パレットのある自画像)』

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オーヴェールの教会

 (Eglise d'Auvers) 1890年
94×74cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

後期印象派の偉大なる巨匠フィンセント・ファン・ゴッホ最晩年の代表作『オーヴェールの教会(オーヴェールの聖堂)』。本作はかの有名な耳切り事件後、精神的に不安定となったゴッホが、1890年5月20日からパリ北西イル=ド=フランス地域圏のオーヴェール=シュル=オワーズに赴き、画家の友人であり、セザンヌなど新しい芸術家たちへの支援を惜しまなかった医学博士(精神科医)ポール・ガシェのもとで治療・療養生活を過ごした最後の二ヶ月間で手がけられた80点あまりの作品の中の1点で、12世紀頃に同地へ建てられ、以後、改修が重ね続けられてきた≪教会≫を描いた作品ある。空間が渦巻いた深い青色の空を背景に、逆光的に影の中に沈む重量感に溢れた本作のオーヴェールの教会は、何者をも寄せ付けぬような、不気味とも呼べるほど非常に厳めしい雰囲気を醸し出している。そして構造的にはほぼ正確に描かれているものの、その形体は波打つように激しく歪んでおり、教会の近寄りがたい異様な様子を、より一層強調している。これらをゴッホの不安と苦痛に満ちた病的な心理・意識世界の反映(顕示)と解釈するか、あくまでも画家として技術的・表現的な革新性を見出したゴッホの極めて個性的な対象表現と解釈するか、その意見は批評家・研究者の間でも分かれているが、ひとつの絵画作品として本作を捉えた場合、ゴッホ最晩年期の筆触の大きな特徴である、やや長めで直線的な筆使いと共に、本風景(情景)に示される精神的迫真性は圧巻の一言である。さらに色彩表現においても、画面中央から上部へは、まるで教会が負(邪悪)のエネルギーを放出しているかのような暗く重々しい色彩を、下部へは一転して、大地の生命力を感じさせる明瞭で鮮やか色彩が配されており、この明確な色彩的対比は画家の数多い作品の中でも秀逸の出来栄えである。

関連:『ポール・ガシェ医師の肖像(ガッシェ博士の肖像)』

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