Introduction of an artist(アーティスト紹介)
画家人物像
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フィンセント・ファン・ゴッホ Vincent van Gogh
1853-1890 | オランダ | 後期印象派




後期印象派の中でも最も名の知られたオランダ出身の画家。絵の具の質感を顕著に感じさせる力強く荒々しい、やや長めの筆触や、絵の具本来の色を多用した強烈な色彩による対象描写で数多くの作品を制作。特に画家の内面をそのまま反映したかのような迫真性の高い独自の表現は野獣派(フォーヴィスム)やドイツ表現主義など後世の画家に大きな影響を与えた。生前は全く作品が売れなかったものの、死後急速に評価を高め、現在では後期印象派を代表する画家のひとりとして重要視されている。画家の特徴的な作風は印象派の画家たちやアドルフ・モンティセリの影響が大きい。1853年、ベルギー国境近郊のオランダ北ブラバンド地方フロート・ツンデルトで牧師一家の子供として生まれる。1857年、弟テオ誕生。青年期は画廊見習いや炭鉱地帯の伝導師(牧師)、教師としてオランダ、ロンドン、パリなどで就労するも長続きしない。1873年、就労の為に訪れていたロンドンでの下宿先の娘アーシュラ・ロイヤーに心を奪われ求婚するも拒絶され、激しい失意に見舞われる。1880年、ケスムスの炭鉱夫の家に寄宿する中、画家になる決意を弟テオに手紙で知らせる。同年、ブリュッセルで画家ラッパルトと知り合い遠近法と解剖学を学ぶ。1882年、娼婦シーン(クリスティーヌ)と知り合い同棲するも親族に知られ、弟テオを除く家族の信頼を失う。1886年、アカデミーに入るも伝統的な権威主義に反感を抱くが、ルーベンスの明瞭な色彩に魅了される。同年3月、パリのモンマルトルに住んでいた弟テオの家に向かう。パリでアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックエミール・ベルナールポール・ゴーギャン(ゴーガン)カミーユ・ピサロジョルジュ・スーラポール・シニャックエドガー・ドガギヨマンなど当時、先端をゆく画家らと親しくなり多大な影響を受け、パレット内の色彩も急速に明るさを増す。また当時の流行のひとつであった浮世絵など日本趣味にも触れ、日本に憧れを抱くようになる。1888年、パリ生活に疲れていたゴッホは、ロートレックの勧めもあって強い太陽の光を求め友人の画家らを誘い南仏アルルへと向かうが、応じたのはゴーギャンのみであった。南仏アルルでゴーギャンと共に意欲的に制作活動をおこなうが、対象を見て描く画家と、写実的描写を否定するゴーギャンの間で討論となり、二人の間の緊張度が増す。同年12月23日夜、画家が自ら剃刀で耳を切り落とし娼婦ラシェルのもとへ届け、翌日入院。二人の共同生活は二ヶ月足らずで終了となる。耳切事件からすぐに退院するも翌1889年、画家自身の希望によりサン・レミのカトリック精神病院に入院。比較的自由な生活を送り、数多くの作品を制作(画家の代表作の多くもこの時期に生まれる)。また色調と筆触に変化が見られるようになる。1890年、パリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズに移住するも、同年7月27日に(おそらく胸部に)ピストルを撃ち自殺を図る。29日駆けつけた弟テオに見守られながら死去、享年37歳。弟テオも翌年に死去。
※耳切り事件については近年、ゴッホとゴーギャンが馴染みの娼婦を巡って口論となり、激昂したゴーギャンが剃刀を手に取りゴッホの耳を切り落としたとする新説が唱えられている。

Description of a work (作品の解説)
Work figure (作品図)
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馬鈴薯を食べる人たち(食卓についた5人の農民)


(Les mangeurs de pommes de terre (cinq paysans attablés)) 1885年
82×114cm | 油彩・画布 | ファン・ゴッホ美術館

後期印象派の孤高の巨匠フィンセント・ファン・ゴッホ初期の代表作『馬鈴薯を食べる人たち(食卓についた5人の農民)』。ゴッホが本格的に画家を志す決意を弟テオに示して数年経過した32歳の頃に制作された本作は、貧しい労働者階級の家族が、小さな慎ましいランプの光の中で夕食として馬鈴薯(じゃがいも)を食する情景を画題にした作品で、労働者への宗教画にも通じる聖性を含んだ賛美と深い共感が示されている。ゴッホは青年期に炭鉱地帯で伝導師(牧師)として就労するなど貧しい人々の生活の実態を目の当たりにしており、彼らの生活内に漂う独特の悲愴感・哀愁感や、それでも逞しく生きる労働者たちに強く共鳴していた。ゴッホは本作を制作した後に「僕はこの絵で何よりも、ランプの下で皿に盛られた馬鈴薯を食べる人々の手が、大地を耕していた手であることを明確に表現することに力を注いだ」とそれを示す言葉を残している。画面中央やや上に煌々と炎を灯し暗闇を照らす小さなランプが配され、その周りを囲むように労働者階級の人々が描き込まれている。画面左側の(おそらく夫婦であろう)若い男女は何か会話をしながら皿に盛られたジャガイモにフォークを挿しており、画面右側の少し年齢を重ねた老男女はカップにコーヒーのような飲み物を注いでいる。画面手前(最前景)には後姿の幼い女性(子供)が配され構造的に画面の左右を連結させている。強烈な陰影と光の描写によって登場人物や各構成要素は闇の中で浮かび上がるかのように表現されており、その姿や様子は風俗的な内容ながら聖画のような厳粛性を感じさせる。また太く明確な筆触によって描かれる対象の独特な質感表現は素朴的でありながら画家の主題に対する真摯な態度を見出すことができ、そのような点からも本作はゴッホの修行時代における総決算的な位置に付けられている。なおゴッホは≪馬鈴薯を食べる人たち≫を画題とした作品を(習作を含み)数多く手がけており、本作は第一作第二作に続いて第三作目(そして最終作)として制作された。

関連:『馬鈴薯を食べる人たち』第一作(最初の習作)
関連:『馬鈴薯を食べる人たち』第二作

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1足の靴(古靴、古びた靴)

 (Paires de Souliers) 1886年
37.5×45cm | 油彩・画布 | フィンセント・ファン・ゴッホ美術館

後期印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホ、パリ時代の代表作『1足の靴(古靴、古びた靴)』。本作はポール・ゴーギャンの回想によると、1877年、アムステルダムの神学校(大学)の受験を放棄し、ブリュッセルの福音伝道学校で新たに神学を学ぶ為に徒歩で同地へ向かったゴッホがその旅の途中で購入し、福音伝道学校でも三ヶ月で就学を諦め、1878年の12月に公式的な任命も無いまま、己の意思のみによって欧州有数の炭坑地帯であった、ベルギー南部のボリナージュの鉱山へ赴き、過酷な労働条件の中で働く労働者や病人の世話など慈善活動をおこなっていた、所謂「ボリナージュ滞在期」にゴッホが履いていた≪革靴≫を描いた作品である(又はパリ時代に購入した靴)。本作は印象派の登場以降、絵画芸術の先端を進んでいたでパリへ、ゴッホが絵画を学ぶ為に訪れた1886年の夏頃(又は後半頃)に制作されたと推測される作品で、荒々しく大胆な筆触ながら、皮が剥げ擦り切れた古びた靴の草臥れた状態や、過酷な状況下で使用され続けたことを容易に想像させる様子は、ほぼ的確にその形態が捉えられており、画家の描く対象(本作では靴)に対する写実的姿勢が明確に示されている。本作以降も、1886年末頃には『3足の靴』が、さらに1887年初頭〜中頃には(本作と同名称となる)『1足の靴(古靴)』が制作されており、ゴッホはパリ滞在時に複数(5点)本画題を手がけたことが知られている。ここで注目すべきは、バルビゾン派の画家ミレーの抑制的な色彩と、19世紀フランスの画家アドルフ・モンティセリの影響を感じさせる写実的対象表現の変化にある。本作や『3足の靴』では、激しく損傷した革靴の状態を冷静に観察し、的確に表現されているが、年が明けた頃に制作されたと考えられている『1足の靴(古靴)』には、それまでの写実性の中に装飾的な表現が示されており、特に画面左の靴に打ち込まれた底の滑り止め用の金具の表現や、右の靴の擦れた皺の線描表現には、それまでにはない画家の独自的表現を見出すことができる。また色彩表現においても、靴の底の橙色を始めとした暖色と、背景や床の青色(寒色)の対比的描写は特筆すべき点である。本作を始めとしたパリ時代に≪靴≫を描いた作品群はゴッホの表現手法の変化や、独自的表現への過程を示している点で、この時代を代表する≪画家としての自画像≫であるとも解釈することができる。なお本作に描かれる古靴の解釈については農民の靴とする説のほか、両方とも左足用の靴にも見えるため、画家自身と弟テオを表すとする説が唱えられている。

関連:フォッグ美術館所蔵 『3足の靴』
関連:ボルティモア美術館所蔵 『1足の靴(古靴)』

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ムーラン・ド・ラ・ギャレット


(Le Moulin de la Galette) 1886年
38×46.5cm | 油彩・画布 | ベルリン国立美術館

後期印象派の巨匠フィンセント・ファン・ゴッホを代表する肖像画作品のひとつ『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』。ゴッホがパリを訪れて半年ほど経過した1886年の10月に制作された本作は、パリの小高い丘の上にあり、現在は有数の観光名所としても名高いモンマルトルの庶民的なキャバレー(ダンスホール)≪ムーラン・ド・ラ・ギャレット≫の風景を描いた作品で、このムーラン・ド・ラ・ギャレットは印象派の巨匠ルノワールによって残される同画題の作品でも良く知られている。ゴッホはパリ滞在時に知り合い、よき友人となったアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックらと共にしばしばムーラン・ド・ラ・ギャレットへ手がけていたことが判明しており、ゴッホ自身にも馴染みのある場所であった。当時、風車の付いた粉挽き小屋とダンスホールが備わった建物であった画面中央に配されるムーラン・ド・ラ・ギャレットの左側には数名の人が屯しており、その他にはやや離れた所に2名の人物の歩く姿が描き込まれている。この時代のモンマルトルは都市開発の真っ只中にあり、本作で表現されるやや退廃的で重々しく、荒涼とした雰囲気や、質素で貧困的印象は都会的な一面と田舎的な一面が混在した当時のモンマルトルの実態をよく示している。なおゴッホはムーラン・ド・ラ・ギャレットを始めとしたモンマルトルの風景を画題とした作品を数点残しており、本作と同主題、同構図の作品がオッテルローの国立クレラー=ミュラー美術館に所蔵されている。

関連:『ムーラン・ド・ラ・ギャレット、パリ』

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カフェ・タンブランの女(タンブーランの女)


(Femme au “Tambourin”) 1886-87年頃
55.5×46.5cm | 油彩・画布 | ファン・ゴッホ美術館

後期印象派の巨匠フィンセント・ファン・ゴッホの印象的な肖像画作品『カフェ・タンブランの女(タンブーランの女)』。本作はゴッホが仲間と共にしばしば訪れていたパリの古い酒場キャバレー・カフェ≪カフェ・デゥ・タンブーラン≫の年老いたイタリア出身の女主人アゴスティーニ・セガトーリを描いた肖像画作品で、ゴッホは1886年3月から1888年2月までパリに滞在し数多くの作品を制作したが、本作はその中でも『タンギー爺さんの肖像(ジュリアン・タンギーの肖像)』と共に同時期を代表する作品のひとつとして世に知られている。一時はゴッホと恋愛関係にもあったとされている画面中央に描かれたタンブーランの女主人アゴスティーニ・セガトーリは、まるで疲れきったかのような、やや陰鬱的な表情を浮かべながら右手に火のついた煙草を持っており、特にアンバランス的に描かれる両目の焦点が定まらない表現はセガトーリの酔いの深さを顕著に感じさせる。そして円卓として使用される太鼓の上にはアルコールが置かれており、当時のパリにおいて重大な問題となっていたアルコールへの依存を暗喩させている。さらに店の奥(画面右上)には芸術に対して強い関心を持っていたアゴスティーニ・セガトーリとゴッホの高い興味を示すかのように日本の浮世絵が飾られており、セガトーリの民族的な髪型や衣服と共に異国的な雰囲気を醸し出させている。本作は描かれる主題やその独特な退廃的表現から印象派の先駆者のひとりエドガー・ドガの傑作『アプサントを飲む人(カフェにて)』の影響が指摘されており、事実、女主人アゴスティーニ・セガトーリはドガの作品のモデルを務めていたことも判明している。

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日本趣味 : 梅の花


(Japonaiserie : l'arbre (Prunier en fleurs)) 1887年
73×54cm | 油彩・画布 | ファン・ゴッホ美術館

後期印象派の巨匠フィンセント・ファン・ゴッホの日本趣味(ジャポニズム)への強い憧れと傾倒を示す代表的な作例のひとつ『日本趣味 : 梅の花』。本作はゴッホが数多く所持していた日本の浮世絵の中の1点、歌川広重屈指の傑作『名所江戸百景 亀戸梅屋敷』の模写作品である。19世紀に度々パリで開催された万国博覧会以来、日本の美術様式は『日本趣味(ジャポニズム)』として欧州各地を席巻するほど流行し、その異国情緒を感じさせる雰囲気、斬新な構図、平面的構成による鮮やかな色彩などは他の印象派の画家同様、ゴッホ自身も強く魅了された。知り合いのキュレーター(美術展企画・収集の専門家)のサミュエル・ビングから購入したと考えられている、原図となる歌川広重の『名所江戸百景 亀戸梅屋敷』に対しては、梅の枝や花を超近景として配するという大胆で奇抜な構図と、赤色から白色、そして(赤色と)補色関係にある緑色へと変化を示す鮮明な色彩に惹かれたのであろうと推測されている。本作は原図にほぼ忠実な模写であるものの、周囲にはオリジナルには存在しない漢字による装飾が施されているが、これは日本趣味的表現の強調として描き込まれたと推測されている。

関連:歌川広重作 『名所江戸百景 亀戸梅屋敷』

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日本趣味 : 雨の大橋(大はしあたけの夕立)


(Japonaiserie : pont sous la sluie) 1887年
73×54cm | 油彩・画布 | ファン・ゴッホ美術館

後期印象派の大画家フィンセント・ファン・ゴッホの日本趣味(ジャポニズム)に対する強い憧れが顕著に示される作例のひとつ『日本趣味 : 雨の大橋(大はしあたけの夕立)』。本作は19世紀前半期を代表する浮世絵師 歌川広重随一の錦絵『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』をゴッホがほぼ忠実に模写した作品である。ゴッホはこの時期、本作以外にも同じく歌川広重の『梅の花』や渓斎英泉の『雲龍打掛の花魁』など複数の錦絵の模写作品を残しており、これらの原図はゴッホの模写作品が世界的な知名度を得るに至る大きな要因のひとつとなった。原図をほぼ忠実に模している本作で最も注目すべき点は、原図となった『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』最大の特徴であり、西洋式絵画表現とは決定的に異なる雨の描写にある。上空から降る雨を複数の長い斜線によって描写する錦絵独特の手法は、西洋の一般的な雨の表現とは全く異質なものであるが、豪雨の激しい躍動感や落ちる水滴の瞬間の速度の印象度は非常に高いものであり、ゴッホも(西洋式表現と比較し)この極めて個性的で独自性豊かな表現に惹かれたが故、『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』を模写したのであろうと推測されている。さらに原図の簡素ながら大胆な構図によって描写される手前の大橋や、斜めに傾く水平線の妙にも惹かれたことであろう。なお原図には認められない周囲の漢字による装飾は、『梅の花』同様、日本趣味的表現の強調として描き込まれたと推測されている。

関連:歌川広重作 『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』

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日本趣味 : 花魁

 (Japonaiserie : figure) 1887年
105×61cm | 油彩・画布 | ファン・ゴッホ美術館

後期印象派の偉大なる画家フィンセント・ファン・ゴッホの日本趣味への傾倒が顕著に示される代表的作例のひとつ『日本趣味 : 花魁』。本作は19世紀前半(江戸時代後期)に活躍した美人画で名高い浮世絵師、渓斎英泉による花魁図≪雲龍打掛の花魁≫をゴッホが模写した作品である。ゴッホは弟テオの会社が発刊した雑誌パリ・イリュストレの1886年5月号(日本特集号)表紙に縮小掲載された≪雲龍打掛の花魁≫を見て本作を手がけたと考えられており、同時期の代表作『タンギー爺さんの肖像(ジュリアン・タンギーの肖像)』の背景にも同浮世絵の模写が描き込まれている。画面中央に配される花魁の姿は原図をほぼ踏襲しているものの、そこに用いられる色彩はある種のけばけばしさを感じさせるほど大胆な配色が施されている。これらは原図を始めとした様々な浮世絵から着想を得たゴッホの日本趣味(ジャポニズム)に対する色彩的印象そのものであり、その独自的解釈と表現は今も観る者を魅了する。また≪雲龍打掛の花魁≫の背景として描かれる画面左側の大鷺(ダイサギ)は佐藤虎清(又は一圓斎芳丸)による≪芸者≫から、画面下部の蛙は葛飾北斎による≪北斎漫画≫からの引用であると推測されている(※画面右側の竹林はパリ・イリュストレに掲載されていた作者不明の作品を写したと推測されている。

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タンギー爺さんの肖像(ジュリアン・タンギーの肖像)


(Le père Tanguy) 1887年
92×75cm | 油彩・画布 | ロダン美術館(パリ)

後期印象派随一の画家フィンセント・ファン・ゴッホ、パリ滞在期の代表的な肖像画作品のひとつ『タンギー爺さんの肖像(ジュリアン・タンギーの肖像)』。1887年の秋に制作された本作はモンマルトルのクローゼル通りで画材店を営んでいたジュリアン・タンギー氏、通称≪タンギー爺さん≫を描いた作品である。タンギー爺さんはパリの若い画家たちを熱心に支持しており、金銭的に苦しい画家に対しては画材代金の代わりに作品を受け取る場合も多かったと伝えられている。ゴッホもタンギー爺さんには多大な恩恵を授かっており、本作では同氏に対するゴッホの深い敬愛の念を感じることができる。さらにタンギー爺さんに見られる太く力強い筆触による描写や厳格な正面性も、この頃の画家の表現様式を考察する上で特筆に値する出来栄えである。また本作の背景を構成する複数の浮世絵も(本作の)最も注目すべき点である。画面左中央に二代目歌川豊国の『三世岩井粂三郎の三浦屋高尾』、左下に二代目歌川広重の『東都名所三十六花選 入谷朝顔』、中央には歌川広重の『富嶽三十六景 相模川』、右上には同じく歌川広重の『東海道五十三次名所図 会石楽師』、右下には渓斉英泉の『雲龍打掛の花魁』が描かれていると推測されており、本作には表現的な影響はあまり感じさせないものの、ゴッホの日本美術への強い傾倒(画家は浮世絵の熱心な収集家であった)や、その後の平面性・奇抜な構図展開などの取り入れを予感させる。なおゴッホは1887年の冬から翌88年初頭にかけてほぼ同様のタンギー爺さんの肖像をもう一枚制作しており、こちらは現在S・ニアルコス氏が所蔵している。

関連:個人所蔵 『タンギー爺さんの肖像』

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イーゼルの前の自画像(画家としての自画像)


(Self-portrait as Painter) 1888年
65×50cm | 油彩・画布 | ファン・ゴッホ美術館

後期印象派の巨匠フィンセント・ファン・ゴッホ、パリ時代の代表的な自画像作品のひとつ『イーゼルの前の自画像(画家としての自画像)』。ゴッホが南仏アルルへと旅立つ直前となる1888年の1月から2月にかけて制作された本作は、画架の前に絵筆を持つゴッホ自身の≪自画像≫作品で、パリ時代にゴッホは28点もの自画像作品を手がけているが、本作はその中でも特によく知られた作品である。画面中央に配されるゴッホ自身の姿は、パリの都会的な衣服を身に着けるわけではなく、非常に素朴な労働者階級の衣服を着ている。視線は本作を観る者へと真っ直ぐ向けられており、ゴッホの画家としてのある種の決意表明が感じられる。画面右側へは画中のゴッホが取り組んでいるのであろう絵画作品の画架(イーゼル)が、画面下部では色彩豊かな調色板(パレット)と数本の絵筆が画家の力強い右手によって握られている。本作の姿態には、現在、ルーヴル美術館に所蔵され、ゴッホ自身も目にしていたであろうオランダ絵画黄金期の巨匠レンブラントの自画像作品からの影響が、闊達な筆触にはフランス・ハルスからの影響が指摘されている。またさらに本作の筆触分割的な色彩描写や点描的描写にはパリ時代に親しくなったジョルジュ・スーラポール・シニャックなど新印象派の表現へと傾倒も見出すことができる。なおパリに時代に制作された自画像作品の中で本作以外では、1887年に制作された同じくアムステルダムのファン・ゴッホ美術館に所蔵される『暗色のフェルト帽を被った自画像』などが著名である。

関連:1887年制作 『暗色のフェルト帽を被った自画像』

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黄色い家(アルルのゴッホの家、ラマルティーヌ広場)


(La maison jaune (La maison de Vincent à Arles)) 1888年
76×94cm | 油彩・画布 | フィンセント・ファン・ゴッホ美術館

後期印象派の偉大なる巨匠フィンセント・ファン・ゴッホ、アルル滞在期を象徴する作品『黄色い家(アルルのゴッホの家、ラマルティーヌ広場)』。本作は友人アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの勧めもあり、1888年2月から南仏プロヴァンスの町アルルでゴッホが他の画家仲間らと共に共同生活をしながら制作活動をおこなう目的で借りた家、通称≪黄色い家≫のある風景を描いた作品で、同年(1888年)の9月に制作された。このアルルでのゴッホの意欲的(希望的)で壮大な計画は、他の画家仲間から賛同を得るには至らず、結局、同時期に総合主義を確立させた(ポン=タヴェン派)の指導者的立場に近かったポール・ゴーギャンのみがブルターニュから参加するのみであった。さらに二人の共同生活はゴーギャンの到着(1888年10月末)から二ヵ月後となる12月の23日に、かの耳切り事件によって悲惨な結末を迎えることとなったが、本作にはゴッホの抱いていたアルルでの制作活動に対する大いなる夢と希望が随所に感じられる。画面中央にはアルルのラマルティーヌ広場に面する黄色い家を始めとした建物群が描かれており、画面下部には街道を行き交う人々が数人配されている。建物群と街道には南仏プロヴァンスの明瞭な光に照らされるかのように輝くような強烈な黄色が用いられており、本作は画面の2/3がこの画家の希望を感じさせる黄色によって支配されている。またそれとは対照的に画面上部(画面の1/3)は鮮やかでやや重々しい青色の空が縦横の筆触によって描かれており、黄色と青色の絶妙な色彩的対比を画面内に生み出している。本作で用いられる黄色こそ画家の生涯を通じて選定された、ゴッホが自身の個性を最も反映することのできた色彩であり、本作や傑作『ひまわり』などを始めとしたアルル時代の作品にはそれらが顕著に示されている。

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ラ・クロの収穫(青い荷車)

 (The Harvest) 1888年
73×92cm | 油彩・画布 | ファン・ゴッホ美術館

後期印象派を代表する画家フィンセント・ファン・ゴッホ、アルル滞在期の作品『ラ・クロの収穫(青い荷車)』。1888年の6月頃に制作された本作は、ゴッホが強烈な陽光を求めて向かった南プロヴァンスのモンマジュール近郊ラ・クロ平野の収穫風景を描いた作品である。画面のほぼ中央へ青い荷車が描き込まれ、その水平線上の右部分へは小さな赤い荷車が、左部分へは大きな積み藁が配されている。これを中景として画面下部へは前景となる簡素な柵が背の低い木立が、画面上部へは遠景として悠々と広がるラ・クロ平野と青々とした山が構成されている。ゴッホ自身の言葉で「故郷を想い起こさせる」と、自身の抱いた心象が残っている本作のやや高い視点からパノラマ的に捉えられたラ・クロ平野の風景に対しては、しばしば17世紀オランダ絵画黄金期における風景画の巨匠ヤゴブ・ファン・ライスダール(ロイスダール)の影響が指摘されている。本作で最も注目すべき点は南仏の強い日差しによって多様に輝くラ・クロ平野の輝くような黄金色の色彩を主色とした各色彩との対比にある。平野に使用される黄色がまず前景を支配し、前景と中景の間には黄色と相性の良い緑色の木立が広げられている。そこから再度、多様な黄色が中景として画面の大部分を支配し、そして青く透き通る山々と雲ひとつ無い青空へと続いていく。この視線の流れを意識した色彩の心地良い変化と点々とアクセント的の加えられる赤色、白色などの色彩はゴッホの色彩に対する類稀な才能を良く示しており、今も観る者を魅了し続ける。なお本作の対の作品として同時期に『プロヴァンスの積み藁』が制作されている。

関連:1888年制作 『プロヴァンスの積み藁』

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種まく人(種をまく人、農夫)

 (Le semeur) 1888年
64×80.5cm | 油彩・画布 | クレラー=ミュラー国立美術館

後期印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホの色彩家としての才能が顕著に示される傑作『種まく人(種をまく人、農夫)』。本作は、強烈な陽光の輝きを求め訪れた南仏アルル滞在期(1888年2月-1889年5月)に制作された作品で、農民画家としてもよく知られている、19世紀フランス写実主義の巨匠ジャン=フランソワ・ミレーの代表作『種をまく人』に共鳴を覚え、同画題にて取り組んだ作品のひとつでもある。絵画を制作し始めた早い時期からゴッホはミレーが扱った画題≪種をまく人≫に強い固執と羨望の念を抱いており(ゴッホはミレーの『種をまく人』のエッチングを所有していたことが知られている)、画家自身、この頃書いた手紙の中で次のような言葉を残している。「種まく人を描くことは昔から僕の念願だった。古い願いはいつも成熟できるとは限らないけど、僕にはまだできることがある。ミレーが残した『種をまく人』には残念ながら色彩が無い。僕は大きな画面に色彩で種まく人を描こうかと思っている。」。このような言葉からも理解できるよう、1888年の秋頃に手がけられた本作で最も注目すべき点は過剰とも思えるほどの刺激的な色彩の表現にある。画面上部ほぼ中央には、強烈な光を放ちながら地平線へと沈みゆく太陽が配され、遠景の穂畑を黄金色に輝かせている。中景へは陽光の黄色と対比するかのような青色の凹凸の陰影が斑状に描き込まれる畑へ種を撒く農夫がミレーの『種をまく人』とほぼ同様の姿態で配されており、逆光に包まれたその姿には人間としての力強い生命力が感じられる。本作のあたかも外側へと弾けだしているような筆触による激しく鮮やかな陽光の神秘的な色彩や、画題≪種をまく人≫が象徴する人間の生への希望や生命の再生を現代的アプローチによって表現したゴッホの取り組みは20世紀前半の画家たちに大きな影響を与えたように、今なお色褪せることなく我々を惹きつける魅力に溢れている。

関連:別ヴァージョン 『種まく人(種をまく人、農夫)』
関連:ミレー作 『種をまく人(ボストン美術館版)』
関連:ミレー作 『種をまく人(山梨県立美術館版)』

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アルルのダンスホール


(La Salle de danse à Arles) 1888年
65×81cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

後期印象派の孤高なる画家フィンセント・ファン・ゴッホ、アルル滞在期の代表的作例のひとつ『アルルのダンスホール』。ゴーギャンと共に共同生活を送りながら制作活動をおこなっていた頃となる1888年に手がけられた本作は、アルルのレ・リス大通りに面する≪フォリー・アルレジエンヌ劇場≫における祝祭の夕べの情景を描いた作品である。画面の手前から奥にかけて無数に描き込まれる人々は犇めき合う様にダンスホールの中で踊りに興じており、その印象は独特の退廃性に溢れている。また描かれる人々の姿も、一方では流行の衣服に身を包み、また一方では伝統的な衣服を着こなすなど多様で混沌とした様子である。画面右側に描かれる唯一観る者と視線を交わらせる女性は、画家と親しく、ゴッホがアルルを去る日まで援助を続けていた郵便配達人ジョゼフ・ルーランの妻ルーラン夫人であり、ここに画家の交友関係を見出すことができる。本作で最も注目すべき点は、互いの芸術に対する態度や視点の差異により、やや関係が悪化しつつあったゴーギャンへの理解や、氏との和解を示すかのようなクロワゾニスム的表現にある。太く明確な輪郭線によって描写される人々は線と色面とが強烈に誇張され、極めて装飾的に表現されており、さらにフォリー・アルレジエンヌ劇場の奥や二階にも無数の人々が配されると共に、原色の円で表現される黄色の光がそれらと効果的に呼応している。さらに奥行きを感じさせない平面性や日本趣味的な水平と垂直の強調、毒々しい印象すら抱かせる独自の奇抜で原色的な色彩の使用にもゴッホの個性とゴーギャンへの歩み寄りを見出すことができる。

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夜のカフェ(アルルのラマルティーヌ広場)


Le Café de nuit (Place Lamartine, à Arles) 1888年
70×89cm | 油彩・画布 | イェール大学付属美術館

後期印象派の巨匠フィンセント・ファン・ゴッホのアルル滞在期における代表的作品のひとつ『夜のカフェ(アルルのラマルティーヌ広場)』。本作はゴッホが友人アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの勧めもあり強烈な陽光を求め1888年2月に訪れていた南仏アルルのラマルティーヌ広場に面するカフェの店内を描いた作品である。1888年の9月に制作された本作についてゴッホ自身が「僕がこの作品で表現しようとしたのは、夜のカフェに潜む邪悪な力だ。この場所は人を破滅させることも、発狂させることも、犯罪を犯させることもできる。繊細な桃色や血の赤色、農赤色、そして地獄の様な雰囲気を醸し出す黄色と緑色、青色と緑色に対し、淡い緑色と激しい薄黄色の対比によって僕はそれを表現したのだ」と書簡で述べているよう、本作で最も観る者の印象に残るのは強烈な色彩と強調される遠近法によって表されるカフェの退廃的な雰囲気の描写にある。画面中央に配される長方形のビリヤード台を中心に周囲へ薄青色の四角いテーブルが置かれており、その中の数席には酒に酔う客たちが描き込まれている。さらに画面上部では天井から吊るされる4つのランプが煌々と灯っており、人工的な光によって血のような赤い壁や木製の黄色い床面を浮かび上がらせている。そして画面奥正面の壁には画家の孤独的な心理を表すような時計が象徴的に掛けられているほか、画面手前(左下)には画家が好んで描いた椅子が数脚、無造作に配されている。アルルで共に制作活動をおこなったポール・ゴーギャンは労働者階級の人々が集うこのようなカフェは好まなかったものの、本作ではゴッホの夜のカフェへの高い関心と興味が顕著に示されている。

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夜のカフェテラス(アルルのフォラン広場)


(Le Café de soir (Place du Forum, à Arles)) 1888年
81×65.5cm | 油彩・画布 | クレラー=ミュラー国立美術館

後期印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホ、アルル滞在期の代表作『夜のカフェテラス(夜のアルルのカフェテラス、アルルのフォラン広場)』。本作はゴッホが1888年2月から滞在した南仏の町アルルの旧市街の中央にあるフォラン広場(フォルム広場、フォロム広場、フォーラム広場とも呼ばれる)に面する、比較的裕福な階級層向けのカフェテラスの情景を描いた作品である。1888年9月に制作されたことが画家の書簡から判明している本作では、画面左側に当時の文明の発展を象徴するガス灯(人工灯)の黄色の光に照らされるカフェが輝くように描写され、画面右側と前景にはカフェへと続く石畳、そして一本の杉が描かれている。一方、画面上部(又は遠景)には窓から光の漏れる薄暗い旧市街の町並みと、青々とした夜空が印象的に配されている。黒色を全く使用しない黄色と深い青色で描かれる夜の情景表現は、ゴッホは本作で取り組んだ最も大きな要素のひとつであり、(画家にとっても馴染み深い)この黄色と青色の明確な色彩的対照性や激しい(力動的な)衝突は観る者の目と心を強く奪う。さらに夜空に輝く星々の独特な表現は、画家自身の言葉によれば夜空に咲く「天国の花」として描いた為としている。本作の黄色と青色、そして杉の木の緑色の鮮やかな色彩描写は(本作中で)最も注目すべき点ではあるが、本作の石畳の複雑な色彩表現も特筆に値するものである。画面最前景の轍の入った石畳の、やや影が落ちた暗く強い色調と、最もガス灯の光が当たるカフェテラスの前の石畳の白く反射する明瞭な色調の対比的描写は、図形化したかのような造形と共に、この頃に手がけられた画家の作品の中でも傑出した表現であり、アルルの旧市街にある夜のカフェテラスの情景の印象を決定付けている。

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アルルの女(読書するジヌー夫人、本を持つジヌー夫人)


(L'Arléssienne (Madame Ginoux)) 1888年
91.4×73.7cm | 油彩・画布 | メトロポリタン美術館

後期印象派の重要な画家フィンセント・ファン・ゴッホのアルル滞在期における代表的な肖像画作品のひとつ『アルルの女(読書するジヌー夫人、本を持つジヌー夫人)』。1888年の11月頃(又は1889年5月頃)に制作された本作は、南仏アルル駅前にあったカフェ・ド・ラ・ガールの主人の妻マリー・ジヌーの姿を描いた肖像画作品で、ゴッホはアルル滞在当初、「黄色い家」を借りるまでの間、このカフェに住んでいたことが知られており、ゴッホ自身も親しくなったジヌー夫人の肖像画を数点制作している。画面中央へ左斜めからの視点で描かれるジヌー夫人は濃緑色の円机の上に肘を突きながら、数冊、机上に置かれている書物へと視線を向けている。またジヌー夫人は(ゴッホが高い関心を示していた)この地方独特の民族的な衣服を身に着けており、衣服に用いられた黒色と紺青色(プルシアンブルー)は、簡素な背景となる淡い檸檬色の中で際立っている。表現手法としては質感や立体感などを否定した形態そのものへの追求や平面化された色面構成などポール・ゴーギャンエミール・ベルナールが提唱した総合主義的表現の影響を強く感じさせるものの、太く感情的な筆触や強烈な印象を与える原色的アプローチにはゴッホ独自の芸術的な確信が感じられる。なお共にアルルで制作活動をおこなっていたポール・ゴーギャンは本作と『夜のカフェ(アルルのラマルティーヌ広場)』を組み合わせ再構成した作品『アルルの夜のカフェにて(ジヌー夫人)』を制作しているほか、パリのオルセー美術館には本作とほぼ同時期(又は少し前)に、本を手紙と傘に置き換えた同画題の作品『アルルの女(ジヌー夫人)』が所蔵されている。

関連:オルセー美術館所蔵 『アルルの女(ジヌー夫人)』
関連:ゴーギャン作 『アルルの夜のカフェにて(ジヌー夫人)』

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ウジェーヌ・ボックの肖像


(Portrait d'Eugène Boch) 1888年
60×45cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

後期印象派の巨匠フィンセント・ファン・ゴッホを代表する肖像画作品のひとつ『ウジェーヌ・ボックの肖像』。本作はゴッホが南仏アルル滞在時に弟テオを通じて知り合ったベルギー出身の職業画家であり、詩人でもあった≪ウジェーヌ・ボック≫を描いた肖像画作品で、1888年の8月から9月にかけて制作されたことが知られている。ゴッホ自身はウジェーヌ・ボックと本作について次のような言葉を残している。「彼はダンテを思わせるような風貌の持ち主で、オラニエ公ウィレム1世時代のフランドルの紳士貴族を連想させる。彼が親切な男でも誰も驚かないだろう。そして(この作品で)彼は無限の空間の中に輝く蒼白い星の神秘的な光に包まれるのだ。」。画家の言葉からも良く理解できるよう、本作で最も注目すべき点は肖像画としての類稀な象徴性にある。画面中央やや上部にウジェーヌ・ボックの顔面が配され、瞳の方向こそ観る者へと向けられているものの、その視線は別の何かを見ているようである。背景には、まるで夜空の星々を思わせるように深い青色の中へ白色の点が散りばめられており、夢想家としてのウジェーヌ・ボックを強調させている。またウジェーヌ・ボックが身に着ける衣服は当時としては近代的であり、黄色実を帯びた上着や差し色的な赤色と緑色のタイは本作に使用される背景の色彩と見事な対比を示している。これらの効果的な色彩の対比と象徴性は、これまで幾多の画家が手がけてきた肖像画作品には見られない野心的な取り組みであり、ゴッホの絵画的独自性と近代性性格が良く表れている。

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郵便配達夫ジョゼフ・ルーランの肖像


(Le facteur Joseph Roulin) 1889年
65×54cm | 油彩・画布 | クレラー=ミュラー国立美術館

後期印象派の巨匠フィンセント・ファン・ゴッホ、アルル滞在期の代表的な肖像画作品のひとつ『郵便配達夫ジョゼフ・ルーランの肖像』。本作はゴッホがアルルへ滞在していた時に親しくなり、画家に対して(アルルを離れるまで)援助を続けていた同地の郵便配達人≪ジョゼフ・ルーラン≫氏を描いた肖像画作品で、ゴッホは1888年12月から翌1889年4月の間に同氏の肖像画を4点以上制作しており、本作はその最後期の作品であると推測されている。画面中央に正面から捉えられる郵便配達夫の制服を着たジョゼフ・ルーラン氏は純真そうな澄んだ緑色の瞳を本作を観る者へと向けている。赤味の差す頬から顎にかけては髭が蓄えられており、その形状は巻き毛で描写されている。帽子や制服の清潔な紺色と対比するかのような緑色の背景(これは瞳の色彩とも呼応している)には紅白の花が描き込まれており、ジョゼフ・ルーラン氏の共和主義的な思想を考慮したかのような(ロシアの肖像画的な)ロマン主義的な雰囲気を醸し出している。本作で最も注目すべき点はゴッホ特有の大胆で荒々しい筆触による形態表現と豊かな色彩描写にある。ジョゼフ・ルーラン氏の顔面や髭部分は勿論、制服や帽子、背後の緑色まで勢いのままに描写されたかのような筆触は本作に描かれる同氏の輝くような純真的生命力を見事に表現しており、さらに緑色、青色、黄色、乳白色、赤色と色数自体は少ないものの各色が画面の中で絶妙に引き立て合うことでジョゼフ・ルーラン氏の人物像を明確に示すことに成功している。なおジョゼフ・ルーラン氏を描いた本作以外の作品ではボストン美術館に所蔵される『郵便配達夫ジョゼフ・ルーランの肖像』などが一般的に知られている。

関連:ボストン美術家所蔵 『ジョゼフ・ルーランの肖像』

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ラ・ムスメ(少女の肖像)

 (La Mousmé) 1888年
74×60cm | 油彩・画布 | ワシントン・ナショナル・ギャラリー

後期印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホの肖像画作品『ラ・ムスメ(少女の肖像、腰掛けて手に花を持つ娘)』。本作は1888年7月頃に、多作で知られる同時代のフランス人作家ピエール・ロティの小説≪お菊さん≫を読んでいたゴッホが同小説へ記述される若い『娘(ムスメ)』に着想を得て制作された空想的肖像画作品である。ゴッホは本作を手がける前年に制作した『日本趣味 : 花魁』などの作品からも分かるよう日本趣味(ジャポニズム)、そして日本そのものに対して強い興味を抱いていたことは良く知られているが、本作もそのような画家の傾向の流れのひとつとして制作された作品でもある。画面中央やや左側に丸みを感じさせる椅子に腰掛けた姿で配される若い娘は、少し緊張の面持ちを観る者に抱かせるような印象の表情を浮かべながら、左手には花が持たされている。極めて簡潔に構成される本作は名称こそ日本語の≪娘(ムスメ)≫と付けられているものの、ここには日本的特徴は殆ど示されず、顎が小さくやや膨らんだ頬など少女の顔立ちに僅かな異国情緒と東洋的なイメージを連想させるのみである。他方、表現的手法に注目すると、刺激的である意味幻覚的な衣服や水玉模様のスカートに用いられる赤や青、橙などの原色や、それを抑制させるかのような背景の薄い緑色の使用などゴッホ独特の色彩感覚の典型が本作には示されており、そのような様式的特徴の面から本作を考察すると非常に興味深い点が浮かび上がってくる。

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アルルのゴッホの椅子


(La chaise et la pipe) 1888年
93×73.5cm | 油彩・画布 | ロンドン・ナショナル・ギャラリー

後期印象派における孤高の画家フィンセント・ファン・ゴッホ、アルル滞在期の代表作『アルルのゴッホの椅子(黄色い椅子、パイプが載っている椅子)』。陽光の強烈な光と色彩と、画家仲間たちによる共同制作を熱望し、1888年の2月から南仏アルルへ滞在したゴッホが同地で制作した作品である本作に描かれるのは、画家自身が黄色い家(アルル滞在時の共同生活場所兼アトリエ)で使用していた≪椅子≫で、『アルルのゴッホの寝室』などゴッホが手がけた他の作品にも登場している。本作は、ゴッホの誘いを受け、画家仲間の中で唯一南仏アルルへと向かった大画家(そして画家としての偉大なる先輩)ゴーギャンが、黄色い家で使用していた椅子を画題とした作品『ゴーギャンの椅子(本と蝋燭が載っている椅子)』と対の作品であり、おそらくはゴーギャンとの関係に決定的な亀裂が入る直前頃に制作されたと考えられている。画面中央へは、やや高い視点から描かれる斜めに配された黄色の木椅子が描かれており、その上にはゴッホが当時愛用していたパイプ煙草が載せられている。ゴッホは弟テオへ送った手紙の中で「芸術家が座った椅子のみを描くことは、その芸術家の喪失なのだ」という主旨を述べており、本作には芸術家同士の共同生活による制作での相乗的効果を願っていたゴッホの、ゴーギャンとの緊張関係への形容し難い喪失感や失望を見出すことができる。また画家の共同生活への並々ならぬ熱意は、そのままゴッホの社会主義的な思想が反映している点も特筆に値する。表現手法としては主題である簡素な黄色の椅子と対比させるかのような床の赤褐色や壁や扉の青緑色、そして椅子と呼応させている木箱に入った玉葱など明快な色彩的表現は、椅子の存在感を際立たせることに成功している。

関連:対画 『ゴーギャンの椅子(本と蝋燭が載っている椅子)』

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ゴーギャンの椅子(本と蝋燭が載っている椅子)


(La fauteuil de Gauguin) 1888年
90.5×72cm | 油彩・画布 | ファン・ゴッホ美術館

後期印象派における孤高の画家フィンセント・ファン・ゴッホ、アルル滞在期の代表作『ゴーギャンの椅子(本と蝋燭が載っている椅子)』。本作はゴッホが南仏アルルで借りた≪黄色い家≫での共同制作に賛同(※ゴッホも熱心に誘っていた)し、同地を訪れた総合主義の創始者≪ポール・ゴーギャン≫が同家で使用していた椅子を画題とした作品で、対画として画家自身が黄色い家で使用していた椅子単体の作品『アルルのゴッホの椅子』も制作されている。画面中央にはやや曲線を強調した木製の椅子が斜めに配されており、座面部分には一本の蝋燭と2冊の小説(表紙から同時代のフランスの小説であると推測されている)が置かれている。そして椅子と同じ木製の床面は、画面左上で輝くランプの光を粒状に反射にある種のテクスチャー的な効果を生み出している。椅子の上に置かれる炎が灯された蝋燭は画家としての人生の光明を、そして儚さを同時に象徴している。またこの蝋燭に炎が灯されている点や壁部分で煌々と室内を照らすライトは本作が夜の場面であることを示しており、昼の場面を描く対画『アルルのゴッホの椅子』との時間的対比を容易に連想させる。また本作において特に注目すべき点として単純ながら効果的な色彩の使用法が挙げられる。画面を構成する色彩の主となる色味は椅子や床面に使用される茶色と、椅子の座面や壁色として使われる緑色であるが、この両色の色彩的対比と、それらを関連・調和させる炎やランプ、小説のカバーに用いられる黄色の絶妙な感覚はゴッホの色彩的才能を如実に感じさせる。

関連:対画 『アルルのゴッホの椅子』

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アルルのゴッホの寝室(画家の寝室、ゴッホの部屋)


(La Chambre de Van Gogh à Arles) 1888年
72×90cm | 油彩・画布 | フィンセント・ファン・ゴッホ美術館

後期印象派を代表する画家フィンセント・ファン・ゴッホがアルル滞在期に手がけた最も重要な作品のひとつ『アルルのゴッホの寝室(画家の寝室、ゴッホの部屋)』。本作はゴッホが大きな希望と高い制作意欲を抱いて滞在していた南仏アルルで制作された作品で、(ゴッホが南仏アルルに誘った)画家たちの共同生活場所を想定して借りられた「黄色い家」の自身の寝室が描かれている。画家は弟テオに宛てた手紙の中で本作について次のように述べている。「僕は自分の寝室を描いた。この作品では色彩が全ての要であり、単純化した物体(構成要素)は様々な色彩によってひとつの様式となり、観る者の頭を休息させる。僕はこの作品で絶対的な創造力の休息を表現したかった。」。画面右側の大部分にゴッホが使用していた木製の寝具(ベッド)が置かれ、そこに沿う白壁には二枚の肖像画と不可思議な絵画が飾られている。ベッドの反対側(画面中央)には椅子が一脚置かれており、この椅子は本来白色をしていたことが判明している。画面右側には小さな木机とそこに置かれる瓶や水差し、さらに画面手前に画面中央の椅子とほぼ同様の椅子が配されている。正面の壁には三角形の窓と、その両脇に風景画らしき絵画が掲げられている。寝具、木製の机、ニ脚の椅子、壁に掛けられる絵画、木の床、窓などに持ちられる赤色や黄色の明瞭で鮮やかな色彩と、三面の壁の青味を帯びた色彩の対比は、画家自身も述べているよう本作の最も注目すべき点であり、一点透視図法を用いた急激な遠近法による空間構成と共に、本作の表現的特徴を決定付けている。なお完成後、洪水によって損傷を受けた本作が制作された翌年(1889年)、神経発作の為に入院していたカトリック精神療養院退院後にゴッホは、本作に基づく2点の複製画(レプリカ)を制作している。

関連:シカゴ美術研究所所蔵 『アルルのゴッホの寝室』
関連:オルセー美術館所蔵 『アルルのゴッホの寝室』

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ひまわり、14本

 Tournesols (quatorze) 1888年
92×72.5cm | 油彩・画布 | ロンドン・ナショナル・ギャラリー

後期印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホのおそらくは最も代表的な作品のひとつであろう『ひまわり(14本)』。本作は日本の浮世絵から強い影響を受け、同国を光に溢れた国だと想像し、そこへ赴くことを願ったゴッホが、ゴーギャンを始めとする同時代の画家達を誘い向かった、日差しの強い南仏の町アルルで描かれた作品で、本作を始めとする≪ひまわり≫を題材とした作品は、このアルル滞在時に6点、パリ時代には5点描かれていることが記録として残っている。画家の人生の中でも特に重要な時代であるアルル滞在時に手がけられた作品の中でも、最も傑出した作品のひとつでもある。本作の観る者の印象に強く残る鮮やかな黄色の使用については、ゴッホが誘った画家達と共同生活をするために南仏の町アルルで借りた、通称「黄色い家」を表し、そこに描かれるひまわりは、住むはずであった画家仲間たちを暗示したもであると指摘する研究者もいる。また、ひまわりの強い生命力と逞しいボリューム感を表現するために絵具を厚く塗り重ね描かれたが、それは同時に作品中に彫刻のような立体感を生み出すことにもなった。なおゴッホは1889年の1月に本作のヴァリエーションとなる作品を始めとして3点のレプリカ(フィラデルフィア美術館所蔵版ファン・ゴッホ美術館所蔵版損保ジャパン東郷青児美術館所蔵版)を描いているが、その意図や解釈については研究者の間で現在も議論されている。

関連:山本顧与太氏旧蔵(焼失)『ひまわり、5本』
関連:個人所蔵 『ひまわり、3本』
関連:ノイエ・ピナコテーク所蔵 『ひまわり、12本』
関連:フィラデルフィア美術館所蔵 『ひまわり、12本』
関連:ファン・ゴッホ美術館所蔵 『ひまわり、14本』
関連:損保ジャパン東郷青児美術館所蔵 『ひまわり、15本』

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ひまわり、5本

 Tournesols (cinq) 1888年
98×69cm | 油彩・画布 | 山本顧弥太氏旧蔵(現在は焼失)

後期印象派の偉大なる画家フィンセント・ファン・ゴッホの、現在は失われてしまった代表作『ひまわり、5本』。かつて神戸の芦屋で貿易商を営んでいた実業家山本顧弥太氏が所蔵していたものの、第二次大戦の戦火で焼失してしまうという悲劇に見舞われた本作は、フィンセント・ファン・ゴッホが強烈な陽光に憧れ、強い希望を抱いて訪れた南仏アルルで制作された6点のひまわりを画題とした作品の中の一点である。アルル時代の『ひまわり』では、ロンドン・ナショナル・ギャラリーなどが所蔵する『ひまわり、14本』のような、ゴッホが誘った画家達と共同生活をするために南仏の町アルルで借りた、通称「黄色い家」を暗示する黄色の背景のものが最も知られているが、本作では描かれる向日葵の黄色や橙色と補色関係にある深い藍色が背景色に用いられており、向日葵の数から考察しても、現在米国の個人が所有する『ひまわり、3本』と共に本作はやや特異な存在であり、『ひまわり、14本』の構成に至る過程段階の作とも、明確な色彩対比による視覚的効果を目指したとも推測されている。しかし本作が他の作品らと決定的に異なっている点は、花瓶の足元二輪の向日葵の頭が配されている点である。本画題≪ひまわり(向日葵、ヒマワリ)≫は、南仏アルルに向かう前に滞在したパリでも5点制作されるなど画家にとって最も魅力的な画題のひとつであったが、アルル時代のひまわりには画家の抱いていた南仏アルルでの制作活動や生活に対する希望など(ある種の自画像的な)心理的内面がより明確に表れており、その意味では本作のやや陰鬱にすら感じられる(パリ時代に制作された向日葵に近い)色彩表現は特に注目に値する。また向日葵や花瓶の形体描写においてもアルル時代の『ひまわり』の中では最も単純化、そして平面化されており、クロワゾニスム(対象の質感、立体感、固有色などを否定し、輪郭線で囲んだ平坦な色面によって対象を構成する描写)を思わせる太く力強い輪郭線と共に、本作の解釈・考察する上で重要視されている。

関連:ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵 『ひまわり、14本』
関連:個人所蔵 『ひまわり、3本』
関連:ノイエ・ピナコテーク所蔵 『ひまわり、12本』
関連:フィラデルフィア美術館所蔵 『ひまわり、12本』
関連:ファン・ゴッホ美術館所蔵 『ひまわり、14本』
関連:損保ジャパン東郷青児美術館所蔵 『ひまわり、15本』

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耳を切った自画像(頭に包帯をした自画像)


(Portrait de l'artiste par luimême) 1889年
60×49cm | 油彩・画布 | コートールド美術研究所(ロンドン)

フィンセント・ファン・ゴッホの代表的な自画像作品のひとつ『耳を切った自画像(頭に包帯をした自画像)』。本作はゴッホが画家としても尊敬していた友人ポール・ゴーギャンと共に制作活動をおこなった日差しの強い南仏の町アルル滞在時に起こした有名な≪耳切り事件≫の直後に制作された自画像作品である。ゴッホは対象を見ながら制作していたのに対し、ゴーギャンは描く対象の(自然主義的な)写実的表現を否定していた為、アルル滞在で両者は対立してしまう。南仏アルルでの制作活動に呼応し、複数誘った画家仲間の中でただ一人、共同のアトリエ兼生活場所である黄色い家に来訪してくれたゴーギャンから見放され独りになることを恐れたゴッホは次第に精神を病んでいき、遂には1889年12月23日の夜に芸術論でゴーギャンと激論を交わし、黄色い家を出てしまったゴーギャンを剃刀を持ったゴッホが追いかけ、ゴーギャンを一目した後、剃刀で自身の耳を切り落とし娼婦ラシェルのもとへ届けるという≪耳切り事件≫をおこしてしまう。この時のゴッホの極度の精神的緊張や狂気性は、アルル滞在時にゴーギャンが≪耳切り事件≫を起こす直前のゴッホを描いた『ひまわりを描くフィンセント・ファン・ゴッホ』にも如実に表れている。画家の大きな特徴である(モンティセリの影響を感じさせる)太く絵具の質感を残した独特の筆触で描写される本作のゴッホは、包帯で巻かれる顔側部など痛々しい様子であるが、その表情や、観る者、そして画家自身へと向けられる視線は冷静であり、一見すると落ち着きを取り戻したかのようにも見える。しかしこの事件以降、画家は幻覚と悪夢にうなされるようになり、その症状は生涯続いたと伝えられている。また背後には(異論も多いが、おそらく佐藤虎清による)浮世絵『芸者』が飾られており、鮮やかで明るさの増した色彩と共に、ゴッホの日本趣味への傾倒も示されている。なおゴッホは本作以外にも、耳切り事件直後の自画像『パイプをくわえる包帯の自画像』を残しており、この作品は切り落とした耳の傷から滴る血の色を思わせる赤色と、身に着ける衣服の緑色との色彩的対比が特徴的である。

関連:『パイプをくわえる包帯の自画像』
関連:ポール・ゴーギャン作 『ひまわりを描くファン・ゴッホ』

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アルルの病院の庭(アルルの療養院の庭)


(Le jardin de la maison de santé à Arles) 1889年
73×92cm | 油彩・画布 | オスカー・ラインハルト・コレクション

後期印象派の巨匠フィンセント・ファン・ゴッホ作『アルルの病院の庭(アルルの療養院の庭)』。本作はゴーギャンとの共同生活の果てに起こした、所謂≪耳切り事件≫後、精神の危機(著しい妄想)によって12月末から翌年の3月末までアルルの市立病院へ2度入院したゴッホが、2度目の退院した後(1889年4月)に同病院の庭を描いた作品である。アルル市立病院へ入院した時の担当医であったフェリクス・レー医師は入院中のゴッホに絵を描く許可を与え回復を試みており、ゴッホ自身も描くことで復調の兆しを示していた。そのような状況にあった当時のゴッホのお気に入りの画題でもあった病院の庭の中央には小さな噴水が設置されており、その周囲へは美しい花壇が八方に分けられながら手入れされている(これは今現在も変わらない)。本作では庭の情景をやや斜めの視点で的確に捉えながら、画面手前の左右へ配される二本の木々と、その間の背の低い4本の植木が垂直を強調しながら(画面内へ)絶妙な動きを与えている。さらに画面奥の病院施設(建物)の二段の廊下の壁面と複数の柱に用いられた明瞭な色彩が本作へ(画家の希望的心象すら思わせる)庭に植えられた花々の生命感をより強調している。

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ピエタ(ドラクロワによる)

 (Pièta) 1889年
73×60.5cm | 油彩・画布 | ファン・ゴッホ美術館

後期印象派の孤高の画家フィンセント・ファン・ゴッホの数少ない宗教画作品のひとつ『ピエタ』。神経発作と精神的病に冒されたゴッホが治療(療養)のためにサン・レミのカトリック精神病院へ入院していた時に制作された本作は、ロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワによる≪ピエタ≫を画題とした作品のリトグラフに基づく模写作品である。本作の画題≪ピエタ≫は磔刑に処され死した受難者イエスの亡骸を聖母マリアがその腕の中に抱くという、新約聖書の中でも特に崇高で悲哀に満ちた主題(※ピエタはイタリア語で「悲しみ」「慈愛」などの意味をもつ)であるが、本作には宗教的側面より画家の個人的解釈がより強く示されている。画面中央に配される赤毛の髭を蓄えた土気色の受難者イエスは、紛れも無くゴッホ自身の姿であり、そこに自身の置かれている状況や不安定な精神的状態を重ね合わせているのは明白である。さらに受難者イエスの亡骸を抱く聖母マリアの手は、画家が生の象徴的存在として捉えていた労働者階級の者と同じ印象を受けることができる。ゴッホが生涯に手がけた(本作を含む)5点の宗教画は、ドラクロワレンブラントなど何れも過去の偉大な巨匠たちの模写であり、画家独自の解釈を加えながらも巨匠たちに対する純粋な敬意を感じることができる。また本作の色彩表現に注目しても、聖母マリアの身に着ける青衣と、受難者イエスや遠景に用いられる黄色(黄褐色)との明確な色彩的対比は、画面を引き立てる上で極めて効果的に働いている。

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星月夜-糸杉と村-

 Nuit étoilée (cyprès et village)
1889年 | 73×92cm | 油彩・画布 | ニューヨーク近代美術館

ゴッホが神経発作のためにサン・レミのカトリック精神病院に入院していた際に描かれた晩年期の傑作、星月夜。ゴッホは自身が盲信していた自然世界との一体化について次のように語っている。「夜空の星をみているといつも夢見心地になるが、それは地図の上で町や村を表す黒い点を見てあれこれと夢想することに近い。何故、夜空に輝く点にはフランス地図の上の点のように近づくことができないのか不思議に思う 〜中略〜 僕らは死によって星へと到達するのだ」。星降るような空を創造したいと自身が投書した手紙の中でも語っているゴッホが、それを表現した象徴的な作品である本作の最も印象的な、渦を巻く暗雲やその中で光を放つ月の表現は観る者に強い印象を与える。本作でゴッホは、本来の静寂に包まれた闇夜を描くのではなく、自身のエネルギーを発散するかの如く、黙示禄的な印象を抱かせる激情に溢れた夜を描いた為である。また糸杉と呼ばれる天高く伸びた杉の木を始めとする大半のものは本作はゴッホが入院していたサン・レミのカトリック精神病院の病室から見た風景を元にされているが、画面中央の北欧的小村と教会はゴッホの想像によって描かれた。

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糸杉と星の見える道(夜の星空、荷車、通行人)


(Route aux cyprès) 1890年
92×73cm | 油彩・画布 | クレラー=ミュラー国立美術館

後期印象派の孤高なる画家フィンセント・ファン・ゴッホの傑作『糸杉と星の見える道(夜の星空、荷車、通行人)』。本作は画家が精神的窮地に陥り、自ら志願して入院することとなったサン・レミのカトリック精神病院「サン・ポール」で制作された作品である。画面中央には大きく枝葉を揺らめかせるように天へと伸びる糸杉が一本、象徴的に配されており、その先端となる画面上部では、糸杉を境に右側へ明々と輝く三日月が、左側には煌々と闇夜を照らす星が描き込まれている。サン・レミ滞在時期、通称サン・レミ時代にゴッホは糸杉を画題とした作品を複数枚手がけていることが良く知られているが、画家にとって糸杉は人間の生、すなわち誕生や成長、友愛、永遠への憧憬を意味していたと同時に、その終焉である≪死≫をも象徴する存在であり、精神的圧迫に苦悩していたゴッホには自身の内面世界を反映する為に最も的確なモチーフでもあった。さらに画面下部には2人の農夫と一台の荷馬車が配されており、画家の迷宮的な孤独からの脱却願望も見出すことができる。本作の表現手法に注目しても、この頃のゴッホが獲得していた、やや長い筆触による荒々しい大胆な形態描写と印象表現は本作の異様的な(ゴッホ自身の)心象世界を見事に表現しており、特に夜空に輝く星や三日月の渦巻くような筆致による光と闇の対比的描写や、農夫たちを飲み込んでしまうかのような農道の質感表現にはゴッホの(画家としての)類稀な独創性が良く表れている。

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自画像(渦巻く青い背景の中の自画像)


(Portrait de l'artiste par luimême) 1889年
65×54cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

19世紀末のフランスで活躍した後期印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホの最も著名な自画像作品のひとつ『自画像(渦巻く青い背景の中の自画像)』。かの耳切り事件後、1889年5月から神経発作により画家自身の希望でサン・レミのカトリック精神病院「サン・ポール」へ入院していた時代(通称サン・レミ時代)の9月頃に制作されたゴッホの自画像作品で、少し前(8月末頃)に手がけられた『自画像(パレットのある自画像)』と共に、ゴッホの自画像作品の中では最後期の自画像としても広く知られている。画面中央へやや斜めに構え白いシャツと上着を着たゴッホの上半身が描かれる本作の最も注目すべき点は、やはり青い渦巻き模様風の背景の描写にある。画家の観る者(或いは画家自身)の内面すらまで見据えるかのような厳しくある種の確信性に満ちた表情と呼応するかのように本作では背景が表現されており、それは耳切り事件と度重なる神経発作による画家の不安定で苦悩に満ちた感情が、あたかも蒼白い炎となってうねりながら燃え立つ渦巻き模様として具現化しているようである。サン・レミ時代のゴッホは自室のほか制作部屋が与えられるなど、比較的自由な入院生活の効果もあり、精神状況も回復(安定)しつつあったものの、それでも本作で表現される画家自身の姿からは狂気的で異様な画家の精神的内面が如実に感じられる。さらにゴッホ自身は、自身の心理の最深部まで入り込んだかのような本作の自画像表現に関してレンブラントなど17世紀オランダ絵画黄金期の伝統性に着想を得たと弟テオに宛てた手紙の中で言及している。また本作は色彩表現や表現手法においても、『耳を切った自画像(頭に包帯をした自画像)』や『自画像(パレットのある自画像)』などそれまでに手がけてきた自画像と比較し、明度と筆触に明らかな違いが示されており、幻想的で夢遊な明るさと短く流線的なタッチは、ゴッホが晩年期に辿り着いた自身の絵画表現の最も優れた例のひとつである。

関連:1889年8月末頃制作 『自画像(パレットのある自画像)』

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刑務所の中庭(囚人の運動)


(The Prison Courtyard) 1890年
80×64cm | 油彩・画布 | プーシキン美術館(モスクワ)

後期印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホが手がけたサン=レミ滞在期の代表作『刑務所の中庭(囚人の運動)』。本作はゴッホが自身の精神状態に著しい変調を覚え、強度の神経発作を起こした後に自ら望んで南仏サン・レミのカトリック精神病院サン=ポール・ド・モゾルへ入院していた時代、通称サン=レミ滞在期に制作された作品で、画家も高く評価していたフランスの版画家ギュスターヴ・ドレによる『ニューゲート監獄−運動場』に、ほぼ忠実に基づきながら画面が構成されいる。画面中央から下部に高い壁が聳える刑務所の中庭で円を描くように歩行運動をおこなう33人の囚人が整列的に配され、その傍ら(画面右下端)には3人の帽子を被った看守たちが描き込まれている。中庭で歩行運動をおこなう囚人達の表情には全く生気や希望が感じられず、あたかも出口の無い迷路を彷徨っているかのような絶望的印象すら受ける。その中で只一人、帽子を被らない列手前の(金髪の)男だけが僅かに本作を観る者の方へと視線を向けており、ここに入院中の画家の自由への渇望を見出すことができる(※一部の研究者はこの男を画家の比喩的な自画像と解釈している)。さらに画家の鬱屈的な精神状態を反映させたかのような刑務所の高い塀へ、(囚人達の様子とは対照的に)眩いほどの明瞭な光が最も強く当てられている点や、画面上部やや左側に配される二匹の白い蝶の存在も、ドレの『ニューゲート監獄−運動場』に準えたゴッホの希望の投影にも思えてくる。

関連:ギュスターヴ・ドレ作 『ニューゲート監獄−運動場』

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アイリスのある静物(花瓶に入った背景が黄色のアイリス)

 (Nature morte : iris (dans un vase, sur fond jaune))
1890年 | 92×73.5cm | 油彩・画布 | ファン・ゴッホ美術館

孤高なる後期印象派の巨匠フィンセント・ファン・ゴッホ、1890年を代表する静物画作品『アイリスのある静物(花瓶に入った背景が黄色のアイリス)』。本作は神経発作の治療で滞在していたサン・レミでの苦悩と退屈の生活から脱する為に1890年5月に友人であり精神科医でものあったポール・ガシュの居るオーヴェールへと出発するゴッホが、その数週間前に制作した静物画作品である。花という画題、鮮やかな黄色の単色的背景、丸みを帯びた花瓶など、前年に制作された名高き『ひまわり』の連作を彷彿とさせる本作に描かれるのは、アヤメ科アヤメ属の多年草≪アイリス(菖蒲)≫で、ゴッホは本作を制作した1890年の5月にこのアイリスを含む様々な静物画を手がけているが、その精神状況はもはや非常に危機的状況にあった(この頃、ゴッホ自身が弟テオに宛てた手紙の中で「僕には新鮮な空気が必要だ。ここに居ては退屈と哀しみに押しつぶされてしまう。」と、サン・レミでの生活の苦しみを訴えていたほど、画家の神経発作と精神的不安が悪化していた)。本作はそんな状況から脱する為にオーヴェールへと向かう数週間前に制作された作品であり、画家の狂気性と希望が画面の中で入り交じる類稀な静物画でもある。画面中央に描かれる青い花を咲かせた美しいアイリスは画家の太く明確な輪郭線による独特の描写で、あたかもその生命を咲き誇らせるかのように堂々と力強く描かれている。花の間からのぞく緑色の葉も画家の強烈な観察的視線をそのまま表現したかのように鋭く直線的であり、観る者の目を惹きつける。その中で画面右下に描かれる萎れたひと束のアイリスは画家の不安定で漠然とした恐れを感じさせる。そして背景や花瓶に使用されたアイリスと色彩的対比を示す明度の高い黄色が、画家の絵画への純粋な想いを反映させたかのように強烈な輝きを放っている。なおゴッホは本作以外にもアイリスを画題に作品を複数制作していることが知られている。

関連:J・ポール・ゲッティ美術館所蔵 『アイリス』
関連:メトロポリタン美術館所蔵 『花瓶のアイリス』

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オーヴェールの教会

 (Eglise d'Auvers) 1890年
94×74cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)

後期印象派の偉大なる巨匠フィンセント・ファン・ゴッホ最晩年の代表作『オーヴェールの教会(オーヴェールの聖堂)』。本作はかの有名な耳切り事件後、精神的に不安定となったゴッホが、1890年5月20日からパリ北西イル=ド=フランス地域圏のオーヴェール=シュル=オワーズに赴き、画家の友人であり、セザンヌなど新しい芸術家たちへの支援を惜しまなかった医学博士(精神科医)ポール・ガシェのもとで治療・療養生活を過ごした最後の二ヶ月間で手がけられた80点あまりの作品の中の1点で、12世紀頃に同地へ建てられ、以後、改修が重ね続けられてきた≪教会≫を描いた作品ある。空間が渦巻いた深い青色の空を背景に、逆光的に影の中に沈む重量感に溢れた本作のオーヴェールの教会は、何者をも寄せ付けぬような、不気味とも呼べるほど非常に厳めしい雰囲気を醸し出している。そして構造的にはほぼ正確に描かれているものの、その形体は波打つように激しく歪んでおり、教会の近寄りがたい異様な様子を、より一層強調している。これらをゴッホの不安と苦痛に満ちた病的な心理・意識世界の反映(顕示)と解釈するか、あくまでも画家として技術的・表現的な革新性を見出したゴッホの極めて個性的な対象表現と解釈するか、その意見は批評家・研究者の間でも分かれているが、ひとつの絵画作品として本作を捉えた場合、ゴッホ最晩年期の筆触の大きな特徴である、やや長めで直線的な筆使いと共に、本風景(情景)に示される精神的迫真性は圧巻の一言である。さらに色彩表現においても、画面中央から上部へは、まるで教会が負(邪悪)のエネルギーを放出しているかのような暗く重々しい色彩を、下部へは一転して、大地の生命力を感じさせる明瞭で鮮やか色彩が配されており、この明確な色彩的対比は画家の数多い作品の中でも秀逸の出来栄えである。

関連:『ポール・ガシェ医師の肖像(ガッシェ博士の肖像)』

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ポール・ガシェ医師の肖像(ガッシェ博士の肖像)


(Dr. Paul Gachet) 1890年
67×56cm | 油彩・画布 | 個人所蔵(米国)

後期印象派の孤高なる画家フィンセント・ファン・ゴッホが最晩年に手がけた肖像画の代表作『ポール・ガシェ医師の肖像(ガッシェ博士の肖像)』。本作は、ゴッホがサン・レミのカトリック精神療養院での生活で、さらに精神的不安定状態へと陥ってしまったゴッホが、1890年5月20日からパリ北西イル=ド=フランス地域圏のオーヴェール=シュル=オワーズに赴き、新たな治療を受けていた画家の友人であった医学博士(精神科医)ポール・ガシェを描いた単身肖像画である。パリのオルセー美術館にほぼ同時期に制作された同構図のポール・ガシェ医師の肖像が所蔵されているが、本作と比較するとその表現には狂気染みた画家の強迫観念的な精神的危機を見出すことができる。画面中央に描かれるポール・ガシェ医師は視点が合わず虚空を見つめるような姿で描かれており、その姿態は伝統的な古典絵画でのメランコリック(憂鬱)を示すような片肘を突き握られた拳を蟀谷あたりに当てている。また本作の太く短い筆触の流れによって表現される独特の質感表現や明確な輪郭線は極限の精神状態にありながらも表現における独自性を見失うことが無かったゴッホの画家としての意識の強さや依存度の高さを感じることができる。ゴッホ自身は本作に対して「僕は写真のようにただ似せるのではなく、情熱に満ちた表現で肖像画を描きたい。この作品では現代の社会そのものの悲痛な表情を伝えたいのだ」と妹に宛てた手紙の中で述べている。なお当時の大昭和製紙(2003年に日本製紙と合併)の名誉会長であった斉藤了英氏が1990年5月に開催されたオークションで、ルノワールの傑作『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場』と共に、115億円という破格の値段で購入したものの、97年に夏に海外へ売却されており、現在の取引価格は1億3610万ドル(約132億円)と推測されている。

関連:オルセー美術館所蔵『ポール・ガシェ医師の肖像』

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烏のいる麦畑(カラスのいる麦畑)


(Champ de blé aux corbeaux) 1890年
51×103.5cm | 油彩・画布 | ファン・ゴッホ美術館

後期印象派の偉大なる画家フィンセント・ファン・ゴッホ最晩年を代表する風景画『烏のいる麦畑(カラスのいる麦畑)』。本作はゴッホがサン・レミのカトリック精神療養院での生活が自身の精神状態を悪化させていると判断し、パリ北西オーヴェール=シュル=オワーズに向かい友人であり精神科医でもあったポール・ガシェ医師の療養院で生活を始めた最晩年期(1890年5月〜7月)の7月頃に制作された風景画作品である。本作に描かれる麦畑の風景は、まるでゴッホの精神状態をそのまま反映させたかのように、陰鬱で不吉な雰囲気に満ちた印象を強く感じさせる。太く短い筆触によって力強く描写される麦畑は強烈な色彩的輝きに満ちていながらも、どこか不安定であり、また深淵な濃青色のグラデーションで描写される重々しい空との激しい色彩的対比や、うねるような表現もそれを助長させている。さらに画面内へ緊張感を与える低空を飛ぶ烏(カラス)の一群は、画家自身の生命の終わりを予感させるような不吉さを否が応にも観る者に抱かせる。本作を描いた数週間後の7月27日に、自らの胸部へピストルを撃ち込み自殺を図っていることからも、画家が極めて危機的な精神的状態にあったことが窺い知ることができる。しかし、本作はそんな緊迫的状況だからこそ描くことのできた類稀な風景画の傑作であり、本作が放つ独特の圧迫感や予言めいたある種の象徴性は今も観る者を惹きつけて止まない。

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Work figure (作品図)


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