Introduction of an artist(アーティスト紹介)
画家人物像
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ジェームズ=アボット=マクニール・ホイッスラー
James Abbott McNeill Whistler
1834-1903 | アメリカ | 印象派・耽美主義





印象主義時代に活躍したアメリカ出身の画家。主にロンドンで活動し、調和を重んじる同系色による色彩表現や、幾度も試行錯誤を繰り返し完成させる洗練された妥協なき画面構成による肖像画や風景画で、時代を先行していた印象主義とは一線を画す独自の絵画表現を確立。当時は批評家らからしばしば辛辣な批評を受けたものの、現在ではアメリカ出身の画家の中で最も高く評価される孤高の画家のひとりとして広く認知されている。また画業後年での半濃淡の色彩を用いた静謐で神秘的な風景表現は後の象徴主義者らから高い評価を得た。ジェームズ=アボット=マクニール・ホイッスラーは1834年、マサチューセッツ州ローウェルに鉄道技師の資格を持つ(芸術の愛好者でもある)軍人の父と敬虔なクリスチャンであった母との間に生まれ、裕福な家庭のもとで音楽・絵画など芸術に触れながら青年時代を過ごす。その後、父の仕事の都合でロシアのサンクト・ペテルブルグに住み、1851年からウェスト・ポイント陸軍士官学校に籍を置くも3年後には退学、1855年からは渡仏し帝立デザイン学校で本格的に絵画を学び、さらに翌年シャルル・グレールの画塾に入る。1858年、ホイッスラーの良き友人となったアンリ・ファンタン=ラトゥールやアルフォンス・ルグロと「三人会」を結成するほか、この頃の写実主義の巨匠ギュスターヴ・クールベとの親交や、ルーヴル美術館でおこなったディエゴ・ベラスケスの模写は、画家の絵画様式の形成に多大な影響を与えた。1860年ロンドンにアトリエを構え、その後、同地とパリの往来を重ねながら精力的に活動をおこなうものの、ホイッスラー特有の小粋で洗練された感性はしばしば批評家らの標的となり、批評家ラスキンとの訴訟沙汰を始めとした新聞・出版社らとの悶着も多かった。またホイッスラーはラファエル前派や日本の(特に広重や北斎などの)浮世絵版画、中国の陶磁器などの東洋趣味に強い興味を示し、自身の絵画のモティーフにもそれらが取り入れられているほか、作品の題名に抽象的な名称や、「シンフォニー」、「アレンジメント」、「ハーモニー」、「ノクターン」など音楽用語を多用しているのも大きな特徴である。1886年、英国美術家協会会長に任命され同国の画壇の中心的な存在となり、イギリスの絵画芸術に多大な影響を与えたが、ホイッスラーの活躍が英国内における印象派の受け入れが遅れた要因のひとつであるとの指摘もある。なお1870年にロンドンを訪れたクロード・モネはホイッスラーの作品に強い感銘を受けている。1903年、ロンドンで死去。享年69歳。

Description of a work (作品の解説)
Work figure (作品図)
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ピアノにて(ピアノに向かって)

 (At The Piano) 1858-59年
67×91.6cm | 油彩・画布 | タフト美術館(シンシナティ)

印象主義時代に活躍したアメリカ出身の画家ジェームズ=アボット=マクニール・ホイッスラー最初の大作『ピアノにて(ピアノに向かって)』。本作は画家の姉デボラがピアノを弾く姿と、姉の娘がそれに寄り添い耳をかたむける姿を描いた作品で、画家とその一家が幼い頃から親しんできた音楽趣味がよく示された作品のひとつとして広く知られている。ホイッスラーが1858年のクリスマスにデボラの夫でありホイッスラーの義兄でもあるフランシス・シーモア・ヘイデン宅に滞在した頃に制作し始め、翌年渡ったパリで完成させた本作での平行に配される姉デボラと娘、そして中央のピアノの主要因や、壁に掛けられる絵画、装飾などは画面を安定させ、厳格かつ静謐でありながら、家庭的で穏やかな雰囲気をより堅固なものとさせている。この計算された無駄のない画面構成や静謐な表現は、17世紀のオランダ絵画黄金期の作品、特にヨハネス・フェルメールの作品からの影響が指摘されている。また画家の家族(親類)をモティーフとした画題は、ホイッスラーらが結成した「三人会」のひとりアンリ・ファンタン=ラトゥールも手がけており、その影響も注目すべき点のひとつである。なお本作は1859年のサロンで落選した後、翌年のロンドンでのロイヤル・アカデミー展示会には出品されている。

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白のシンフォニーNo.1 ― 白衣の少女

1862年
(Symphony in White. No1: The White Girl)
214×108cm | 油彩・画布 | ワシントン・ナショナル・ギャラリー

孤高の画家ジェームズ=アボット=マクニール・ホイッスラーが手がけた1860年代の代表作『白のシンフォニーNo.1 ― 白衣の少女』。1862年のロイヤル・アカデミー展には注目されず落選したものの、同年のバーナーズ・ギャラリーでの展示と、翌1863年の印象派の先駆的画家エドゥアール・マネの問題作『草上の昼食』と同じ落選展での展示の双方で、大きな反響とスキャンダルを巻き起こした本作は、当時、ホイッスラーが同棲していた愛人ジョアンナ・ヒファーナンを描いた全身肖像画である。本作において最も革新的であり最も批評の的となったのは、白地の背景に(同色である)白い衣服を着た女性を描いたという、その表現であるが、色彩の調和を重んじたホイッスラーの個性的な表現で描かれる本作から観者が受ける独特の感覚と白色の多様性・複雑性は特筆に値する出来栄えである。また写実主義の巨匠で画家と親交のあったギュスターヴ・クールベは、本作に示される神秘性に不快感を示しながらも高く評価したことが知られている。なお本作は公開当初は『白い服の女』という名称が用いられていたものの、同名の小説との関連性や混同されることに不満を抱き、この後、批評家ポール・マンツが本作の論ずる際に使用した≪白のシンフォニー≫という語句を名称に加えた。

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陶磁の国の姫君

 1862-1863年
(La Princesse du pays de la porcelaine)
199.9×116cm | 油彩・画布 | フリーア美術館(ワシントン)

孤高の画家ジェームズ=アボット=マクニール・ホイッスラーによる日本趣味的要素が強く示された代表的な作例のひとつ『陶磁の国の姫君』。完成した後、数年後にリヴァプールの富豪で画家の有力なパトロン兼支援者であったフレデリック・R・レイランドが購入し、現在はホイッスラーがレイランド自邸食堂の孔雀の装飾を踏まえながらデザインしたフリーア美術館(ワシントン)の孔雀の間(ピーコック・ルーム)マントル・ピースの上に飾られている本作は、女流画家マリー・スティルマンの姉であるクリスティーヌ・スパルタリをモデルに日本の伝統的な着物を着た姿を描いた肖像画的な全身女性像作品である。本作に描き込まれたクリスティーヌ・スパルタリが身にまとう鮮やかな黄色と深藍色の着物や朱色の腰帯、右手に持つ菖蒲(アヤメ)など日本伝統の花々が描かれた団扇、背後の屏風、床に敷かれる東洋的な茣蓙、スパルタリの背後に置かれる陶磁器などはホイッスラーが好み惹かれていた日本趣味(ジャポネズリー)的な要素が顕著に示された良例であるほか、それらが醸し出す東洋的雰囲気とモデルの西洋的雰囲気の類稀な融合性は特筆に値する出来栄えである。また画面全体は黄色味が支配しつつも、床面の緑色や茣蓙・着物の深い藍色、腰帯や屏風に描かれる鳥の朱色など混在となる色彩の調和と統一感は見る者に強烈な印象を与えるだけではなく、高度な完成度を示すひとつの肖像画として強い関心を惹きつけさせる。

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白のシンフォニーNo.2 ― 白衣の少女


(Symphony in White. No2: The White Girl) 1864年
76.0×51.0cm | 油彩・画布 | テート・ギャラリー(ロンドン)

印象主義時代に英国のロンドンで活躍した画家ジェームズ=アボット=マクニール・ホイッスラーの代表作のひとつ『白のシンフォニーNo.2 ― 白衣の少女』。本作は画家が2年前の1862年に手がけた≪白のシンフォニー≫作品と同類の名称が付けられているものの、それと比較しホイッスラーが強く関心を示していた日本趣味的要素が描き込まれているのが大きな特徴のひとつである。前作同様、当時、ホイッスラーが同棲していた愛人ジョアンナ・ヒファーナンをモデルに描かれる本作は、英国史において最も繁栄を築いた産業革命時期(ヴィクトリア朝期)に描かれた作品であり、当時好まれたヴィクトリア朝のモティーフを画題としながらも、日本風の団扇や朱色の碗、白磁の壷など東洋的要素が効果的に配されている。ジョアンナ・ヒファーナンが身を包む、品の良い白いモスリン風の衣服は、画家の高度な技術によって透明感や空気感などの質感に迫りつつ、筆触を活かしながら見事に表現している。また衣服の白地に対する効果的な差し色として、画面右下や白磁の壷の右部分に配された桃紫色の花は、ホイッスラーの秀逸な画面構成感覚を示している。

関連:1862年制作 『白のシンフォニーNo.1 ― 白衣の少女』

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肌色と緑の夕暮れ(肌色と緑の薄暮):バルパライソ


(Crepuscule in Flesh Colour and Green : Valparaíso)1866年
58.6×75.9cm | 油彩・画布 | テート・ギャラリー(ロンドン)

印象主義時代に活躍した画家ジェームズ=アボット=マクニール・ホイッスラーが1860年代に手がけた風景画の代表的作例のひとつ『肌色と緑の夕暮れ(肌色と緑の薄暮):バルパライソ』。本作に描かれるのは画家が1866年に訪れた南米の滞在地のひとつで、チリの首都サンティアゴに近い港町バルパライソの船溜場と推測され、描く為に予め画材(絵具の色)を用意していたホイッスラーが一夜で完成させたとされている。本作が描かれた頃、バルパライソはスペイン軍(小船隊)によって包囲・砲撃されるという事件が起こっていたものの、本作では戦闘など生々しい出来事が起こった(又はこれから起こる)ことを想像するのが難しいほど、幻想的な黄昏の雰囲気が画面内を支配している。本作で最も注目すべき点は、その魅惑的な色彩の表現にある。画家が名称に付けるよう、幾艘もの船舶を浮かべる青みがかった深く多様な緑色の海面は、色彩が溶け合うかのような独特の色合いを見せている。また紫色に輝く雲間から覗く夕暮れの薄い陽光の輝きは、本作を観る者に一際強く(風景の)印象を与えている。表現手法としても素早く能動的な筆触によって一気に仕上げられた空の描写などは、刻々と変わりゆく空の微妙な表情や色彩の変化を見事に捉えている。

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白のシンフォニーNo.3

 (Symphony in White. No3) 1867年
52×76.5cm | 油彩・画布 | バーバー美術研究所

印象主義時代に英国のロンドンで活躍した画家ジェームズ=アボット=マクニール・ホイッスラー作『白のシンフォニーNo.3』。本作は『白のシンフォニーNo.1 ― 白衣の少女』、『白のシンフォニーNo.2 ― 白衣の少女』に続く、≪白のシンフォニー≫シリーズの三番目の作品であるが、≪白のシンフォニー≫と画家自身が名称を付けたのは本作は最初である(音楽的な用語を名称に用いたのも本作が最初)。同時代に活躍したラファエル前派の画家アルバート・ムーアの『頸飾り(首飾り)1875年頃制作』からの影響が指摘されている本作は、独特な淡色的な色彩や装飾性に富んだ画面構成など、ホイッスラーが1865年にムーアと出会って以来、互いに認め合いながらも影響を及ぼし合い続けたムーアの作品の匂いを如実に感じさせる。また完成時期は異なるものの、制作開始時期はほぼ同時期であることが知られている本作とムーアの『頸飾り(首飾り)』の構図やモデルの姿態、日本趣味的な構成要素などを比較してみても、殆ど同一であることから、如何に両者が刺激し合っていたかが窺い知れる。本作では、それまでの画家の作品にはあまり見られないメランコリック(憂鬱的)な雰囲気や画面全体を漂う倦怠的な空気、布地を多用した装飾的な衣服の描写などは明らかなムーアの影響であり、画家の表現様式的変化(進化)を考察する上でも本作は特に重要視される作品のひとつである。

関連:アルバート・ムーア作 『頸飾り(首飾り)』

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灰色と黒のアレンジメント 第1番 画家の母の肖像


(Arrangement in Grey and Black: Portrait of the Painter's Mother)
1871年 | 144.3×162.5cm | 油彩・画布 | オルセー美術館

印象主義とは一線を画す孤高の画家ジェームズ=アボット=マクニール・ホイッスラーの最も知られる代表作のひとつ『灰色と黒のアレンジメント 第1番 画家の母の肖像』。本作に描かれるのは、画家の母アンナ・マティルダ・ホイッスラーの全身座像を真横から描いた肖像画で、ホイッスラーの母親に対する深い敬愛や情念が強く示されている。本作のモデルであるアンナ・マティルダ・ホイッスラーは、1804年ノースカロライナに生まれた敬虔なクリスチャンで、1864年から10年間ロンドンのホイッスラーと同居しており、本作はその頃に制作(制作期間は1871年の8月から10月の3ヶ月)された作品で、1872年にロンドンのロイヤル・アカデミー展示会で、翌年の1873年にパリの画商デュラン=リュエルの画廊で『灰色と黒のアレンジメント 第1番』の名称で展示されるも、特に反響を得るには至らなかった。この名称は画家が本作で示した色彩における調和性をより効果的に強調するために音楽用語を用い名付けたものである。さらに本作は母アンナ・マティルダ・ホイッスラーが英国のイースト・サセックス州にある同国の歴史上最も重要な町のひとつヘイスティングスで1881年に死去した後、1883年にパリのフランス美術家協会のサロンへ『画家の母の肖像』と名称を改め、再出品されると、大きな反響(3等を受賞)と批評を呼んだ。画家はミドルネームをアボットから母の旧姓であるマクニールへと変えるほど母を敬愛しており、本作の静謐で落ち着いた雰囲気や色彩、温和ながら抑制的で瞑想的な独特の表現などからもそれを窺い知れる。また後世の画家らに多大な衝撃を与え、強い影響を及ぼした、本作の座する母の真横からの肖像展開は、当初の予定では立像であったものの、健康状態が思わしくない母を考慮し、すぐに座像へと変更していることがX線の調査などからも明らかとなっている。

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灰色と黒のアレンジメント 第2番 トマス・カーライルの肖像

(Arrangement in Grey and Black, No2: Portrait of Thomas Carlyle)
1872年 | 171×143.5cm | 油彩・画布 | グラスゴー市美術館

印象主義とは一線を画す孤高の画家ジェームズ=アボット=マクニール・ホイッスラー作『灰色と黒のアレンジメント 第2番 トマス・カーライルの肖像』。本作は画家随一の代表作『灰色と黒のアレンジメント 第1番 画家の母の肖像』と同様の題名が付けられるよう≪灰色と黒のアレンジメント≫シリーズの第二作目として知られる作品で、当時のイギリスの著名な評論家兼歴史家トマス・カーライルが第一作目を見て感嘆し、ホイッスラーに肖像を制作させたと伝えられている。本作では制作当時、既に77歳を過ぎていたカーライルの寡黙で威厳的な人物像が見事に示されている。特に黒衣に身を包むカーライルの横顔は、数年前に妻を亡くし精神的にも疲弊を見せていた陰鬱な一面がよく表現されており、虚空を見つめるかのような視線には複雑な表情が見え隠れしている。また画面全体から醸し出される静謐で静寂な独特の雰囲気の描写も秀逸の出来栄えであり、画家自身、本作について「この肖像画は会心の出来である。彼の柔和ながら悲しみに沈む眼差しや、誤解を受けやすいであろう(彼の)敏感な感受性を描き出すことが出来た。私は彼のそのような性質を好ましく思う」と言葉を残している。

関連:『灰色と黒のアレンジメント 第1番 画家の母の肖像』

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ノクターン ― 青と金、オールド・バターシー・ブリッジ


(Nocturne : Blue and Gold, Old Battersea Bridge)1872-75年
66.6×50.2cm | 油彩・画布 | テート・ギャラリー(ロンドン)

印象主義時代に活躍した画家ジェームズ=アボット=マクニール・ホイッスラーの代表作『ノクターン ― 青と金、オールド・バターシー・ブリッジ』。画家の有力なパトロンのひとりであったフレデリック・R・レイランドの依頼により制作された、ロンドンの情景を描いた作品≪ノクターン≫シリーズのひとつである本作は、ロンドンのテムズ川に架かるバターシー橋を描いたもので、屈曲する橋を部分的に捉え、下から見上げるという独特の構図展開や画面構成に日本の浮世絵からの影響が指摘されている。また複雑かつ多様な青色を基調とした単色的な色彩構成は、本作に付けられる名称≪ノクターン(夜想曲)≫の名に相応しい詩的で抒情的な印象を観る者に強く与える。この頃のホイッスラーは夜景の中の光と闇のし瞬間的な美しさの描写に強い関心を示しており、本作は良質な作例のひとつとして広く人々に認知されている。そして画面の中でアクセント的に煌く、黄色の光の粒の描写は、その瞬間的な美的描写の最も際立った表現のひとつでもある。なお本作の画題選択にはウォルター・グリーヴスからの影響の指摘されている。

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灰色と緑のハーモニー:シシリー・アレキサンダー嬢


(Harmony in Gray and Green : Miss Cicely Alexander)
1872-73年 | 190.2×97.8cm | 油彩・画布 | テート・ギャラリー

印象主義時代にロンドンで活躍した画家ジェームズ=アボット=マクニール・ホイッスラーが1870年代に手がけた肖像画の代表的作例のひとつ『灰色と緑のハーモニー:シシリー・アレキサンダー嬢』。本作は裕福な銀行家で美術収集家であったシシリー・ヘンリエッタ・アレキサンダーの依頼により、同氏の9人の娘のひとりを描いた肖像画作品である。1870年以降に手がけられたホイッスラーの肖像画は、ロココ美術全盛時代にイギリスで活躍した英国絵画史屈指の大画家トーマス・ゲインズバラの等身大的肖像画に倣う肖像展開がおこなわれるが、本作では当時席巻した王室様式、所謂ヴィクトリア朝様式に見られる過度の品性や感傷性、装飾性などを一切廃し、色調を抑制し落ち着きと格調が融合したの独自的な色彩描写、薄塗りによる軽やかで繊細な筆触、単純で明快な構図、そして日本の浮世絵を着想源とした色彩と形状による画面構成や展開などの肖像表現によって、画家の肖像画作品を代表する完成された(独自性の強い)美的様式が強く示されている。また本作の全身立像としての対象の捉え方やその表現に、スペイン・バロック絵画の巨匠ディエゴ・ヴェラスケスの影響が古くから指摘されている。なお本作での肖像画に似つかわしくないモデルの少女の無愛想な表情は、本作を制作するために衣服の意匠やモデルの少女の姿勢(ポーズ)を己の意とするようホイッスラーが厳密に指示したことで、しばしば少女が号泣した為であると考えられている。

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黒と金のノクターン ― 落下する花火


(Nocturne in Black and Gold : The Falling Rocket) 1875年
60.3×46.6cm | 油彩・画布 | デトロイト美術研究所

印象主義時代に活躍した画家ジェームズ=アボット=マクニール・ホイッスラー屈指の傑作『黒と金のノクターン ― 落下する花火』。1877年の夏に開催されたグロヴナー・ギャラリーの初開場記念展に出品された8作品の中の1点で、画家自身によると2日間で完成させたとされる本作は、夜のクレモン公園の中で打ち上げられた花火の落下する火花とその風景を描いた作品で、≪ノクターン(抒情的夜想曲の意)≫と音楽用語が名称に用いられている本作にホイッスラーは、「この作品で私は一切の外的な関心を排除し、芸術的関心のみを示した。それは線と形状、そして色彩の配置によるものであり、調和性に優れた結果をもたらすのであれば、それらから発生する如何なる偶然(的な効果や結果)でも、私は利用するのだ。」との言葉を残している。公開当時、批評家ラスキンが本作を「まるで公衆の面前で絵具の壺の中身を(画面に)投げつけ、ぶちまけただけのようだ。」と厳しく批難・嘲笑したため、ホイッスラーが名誉毀損の訴訟を起こす事態にも発展しているものの、夜景の中で無作為に散ってゆく火花の描写は絵具(の質感)そのものであり、名称を知らなければ大多数の者は、本作に何が描かれているかを理解するのが困難であることは容易に推測できるが、現在となっては、当時、芸術的流行の最先端都市であったパリでも類のないほどの非常に抽象的なアプローチや現実に対する非再現性、調和的で冒険的な展開、大胆な描写表現は、後のアメリカの抽象(絵画)芸術を予感させる驚嘆すべき作品と位置付けられている。

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