Introduction of an artist(アーティスト紹介)
画家人物像
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岸田劉生 Kishida Ryusei
1891-1929 | 日本 | 洋画家




大正から昭和初期にかけて活躍した近代日本を代表する洋画家。様々な表現様式を会得しながら辿り着いた、無骨な写実的描写によって対象に宿る深い精神性を鋭く見抜き表現する独自の絵画様式を確立し、『道路と土手と塀(切通しの写生)』や『麗子微笑(青果持テル)』など後に重要文化財となる作品を始めとした西洋式絵画を手がける。1891年6月23日(明治24年)、明治時代を代表する新聞記者・教育者・実業家のひとりである岸田吟香と妻の勝子の第九子(四男)として銀座に生を受ける。東京高等師範学校付属の小学校・中学校に通いながら中学時代から独自で絵画を学ぶ。1905年(明治38年)の父の死をきっかけに、翌年キリスト教に入信し洗礼を受け、熱心な信者となる。このキリスト教への入信は画家の作品に少なくない影響を与えた。1908年、本格的に絵画を学ぶ為に白馬会葵橋洋画研究所に入り、当時画壇を先導していた洋画家・黒田清輝に師事しながら外光派の表現を会得。この頃(1910年4月)刊行された文芸誌・美術雑誌『白樺』を1911年(明治44年)から愛読し始め、翌年には白樺派の武者小路実篤や柳宗悦、英国の陶芸家バーナード・リーチらと交友を重ねる。この『白樺』と周辺の人物達との出会いは画家の表現を劇的に変化させる最も大きな要因となり、後期印象派(ポスト印象派)の画家たち、特にポール・セザンヌフィンセント・ファン・ゴッホに絶大な影響を受け、この頃の作品は、むしろ模倣に近いものであった(画家自身、「露骨にそのような描き方をした」と述べている)。1912年(明治45年)、詩人・高村光太郎、画家の萬鉄五郎らとヒュウザン会を結成、同年におこなわれたヒュウザン会主催の展示会に自身の作品を14点、翌年の展示会に19点の作品を出品。1913年(明治45年)、同会の解散や小林蓁との婚姻を経て、ルネサンス芸術バロック様式などの絵画、特にドイツ・ルネサンスの巨匠アルブレヒト・デューラーの表現手法に感化され、翌年に手がけた作品には写実的表現への傾倒が顕著に示される。以後、(画家自身の言葉によると)レンブラント・ファン・レインピーテル・パウル・ルーベンスルネサンス芸術期の画家アンドレア・マンテーニャ初期ネーデルランド絵画の巨人ヤン・ファン・エイクロマン主義の画家フランシスコ・デ・ゴヤなどの古典的絵画表現の影響を受けながら自身の様式を模索・形成していった。また1918年(大正7年)に娘・麗子をモデルとした最初の作品『麗子五歳之像(麗子肖像)』を完成させる。1929年(昭和4年)、生涯一度の海外(大連・奉天・ハルビン)へ旅立つものの、帰国後に滞在先の(田島一郎の教理)山口県徳山で胃潰瘍と尿毒症を併発、同地で死去。享年38歳。

Description of a work (作品の解説)
Work figure (作品図)
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麗子微笑(青果持テル)


(Smiling Reiko with a green fruit in her hand) 1921年
45.7×38cm | 油彩・画布 | 東京国立博物館(上野)

近代日本を代表する洋画家、岸田劉生が手がけた傑作中の傑作 重要文化財『麗子微笑(青果持テル)』。画家自身の言葉によれば10日ほどで完成させたとされる本作は、愛娘である麗子を描いた連作群の中でも特に知られる作品であり、昭和46年(1971年)には国の重要文化財に指定されている。劉生は大正7年(1918年)の作品『麗子五歳之像』から実際に麗子をモデルとした肖像を制作しており、以後、立像、坐像、着物姿、洋服姿、舞姿と様々なバリエーションを持つ麗子像を描き、表現方法も油彩、水彩、墨彩、コンテと多岐に渡った。画面左上には「麗千九百二十一年十月十五日 劉」と漢字の縦書きで書かれている本作の麗子が羽織っている色彩豊かな肩掛は、ほつれる様子まで克明に描写されているものの、写実に傾倒していた1910年代後半の作品と比較するとやや大ぶりの筆触へと変化しているのは注目に値する。肩掛は本来麗子の遊友の村娘お松の所有物だったが、劉生が非常に好んだため、麗子に買い与えたショールと交換するほどであったという逸話が残されるほか、前髪を切り揃えたおかっぱ頭の麗子の瞳中には一点の光が描き込まれており、生命感と深い精神性を宿した眼差しが表現されている。また画家自身の解説ではモティーフの一部をロマン主義の画家フランシスコ・デ・ゴヤに得たとされる本作は、多くの研究者からルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作『モナ・リザ』を範とした指摘もなされているよう、口元にはアルカイック風の柔和な微笑みを湛えており、捉え難い情念性を醸し出している。そして幼さの名残り漂う小さな右手には球状の青果が携えられているが、頭部と比較すると麗子の右腕はやや小さく描かれ、劉正独自の卓越したバランス感覚と、忠実な写実をさらに突き詰め、対象に変形を加えることによって神秘的な味わいを深めていくという彼の非凡な態度を看取することができる。このように緊密な計算によって描出された麗子像には、一種の聖性を帯びたような印象さえも受ける。劉正の目指した「内なる美」を彷彿とさせる彼の画境の深まりを見せた作品であり、神秘性のある謎めいた眼差しと微笑みは、観者の心を捉えてやまない。

関連:東京国立近代美術館所蔵 『麗子五歳之像』

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【全体図】
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