■
フランソワ・ジェラール Baron François-Pascal Gérard
1770-1837 | フランス | 新古典主義
18世紀フランス新古典主義を代表する画家のひとり。確かな技量を感じさせる基本に忠実な形態描写や対象を的確に捉えながら理想化させた表現を用いて古典主義的な絵画を制作。その陶器を思わせる滑らかかつ流麗で冷ややかな表現は時として無機質的、甘美的過ぎるとも評されるものの、当時は肖像画制作において国内外から重宝された。1770年、ローマで生を受け(※父はローマ教皇庁駐在フランス大使ベルニ枢機卿の執事をおこなっていた)幼少期を同地で過ごす。1782年、パリへと帰国し程なく彫刻家パジュー、次いで画家ギイ=ニコル・ブルネのアトリエで絵画を学ぶ。1785年にサロンへ出品された
ジャック=ルイ・ダヴィッドの代表作『
ホラティウス兄弟の誓い』を見て同氏と該当作品に熱狂、翌1786年には
ダヴィッドのアトリエに入門した。1789年、サロンへ出品しローマ賞第二等を受賞(※第一等は同門のジロデが受賞)するものの、翌年のローマ賞には父が死去したため応募を辞退。1791年から1793年までイタリアを訪れる。1795年にサロンへ出品した『ベリサリウス』で最初の成功を収め、1798年、現在では画家随一の代表作として評価される『
プシュケとアモル』を出品するものの、当時は甘美的過ぎるなど満場一致の賞賛には至らなかった。1800年以降、ナポレオン・ボナパルトの肖像画注文が決定的となりジェラールは画家として確固たる地位を築き、人気を不動のものとした。その後、帝政時代の高位高官や上流階級層の肖像画を制作するなど画家として順調に制作活動をおこない、マルメゾン宮などの装飾なども手がけるようになった。ジェラールは帝政崩壊後もその地位を脅かされることはなく、諸外国の君主などからの注文を受け続けていたほか、王政復古時に即位したフランス国王ルイ18世からは男爵の地位を授かっている。1837年、パリで死去。高い教養も身につけ、権力者などとも交友が深かったジェラールは
アングルやシェフェールなど若き芸術家などへの協力も惜しまなかったと伝えられている。