Introduction of an artist(アーティスト紹介)
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アントワーヌ=ジャン・グロ Antoine-Jean Gros
1771-1835 | フランス | ロマン派




フランスの初期ロマン主義を代表する画家。燃えるような激情的な色彩と、叙事詩を思わせる壮大で威風堂々とした場面展開による歴史画や肖像画を制作し、当時はフランス最大の色彩画家としての名声を博す。グロ自身は師であるジャック=ルイ・ダヴィッド新古典主義に忠実で、その形式も同主義に則っているものの、画家の革新的な作風は新たな流派であるロマン主義の祖として若い画家たちから信望を集めた。1777年、共に細密画家であった父と母の間にパリで生まれ、1791年(14歳)から新古典主義を代表する画家ジャック=ルイ・ダヴィッドのアトリエで絵画を学び、翌年ローマ賞へと応募するも失敗。1793年から絵画アカデミーに入学を認められるも、そのすぐ後、フランス革命の動乱を避けるようにイタリアへと赴き、1801年までジェノヴァを中心に滞在。その間、イタリア国内で初期ルネサンスの三大芸術家のひとりマザッチョや、マニエリスムの画家アンドレア・デル・サルトポントルモ17世紀フランドル絵画の巨匠ピーテル・パウル・ルーベンスなどの作品を研究・模写するほか、1796年、当時イタリア遠征軍の総司令官であったナポレオン・ボナパルトとその妻ジョゼフィーヌの知り合い、初期の代表作『アルコール橋のボナパルト』などを手がける。1801年、故郷であるパリへと帰国し、皇帝ナポレオンの偉業を称える大作など歴史画家・肖像画家として精力的に制作活動をおこなう。1814年、ナポレオン失墜後の王政復古時代には国王の公式な肖像画家の任に就く。1816年、エコール・デ・ボザール教授に就任。その後も制作活動を続けるも、晩年期には著しく創造力が衰え、自身の才能を自覚していた画家は、その枯渇を悲観し、1835年、セーヌ川に身を投げて自殺。画家の絶頂期に制作された『ヤッファのペスト患者を訪れるナポレオン・ボナパルト』と『アイラウの戦場におけるナポレオン・ボナパルト、1807年2月9日』はフランス・ロマン主義最初の傑作とみなされている。

Description of a work (作品の解説)
Work figure (作品図)
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クリスティーヌ・ボワイエ

 (Christine Boyer) 1800年
214×134cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

フランスロマン主義の重要な画家アントワーヌ=ジャン・グロを代表する肖像画作品のひとつ『クリスティーヌ・ボワイエ』。後に皇帝となるナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)の弟として知られるリュシアン・ボナパルトの依頼により手がけられた本作は、夭折した依頼主の妻≪クリスティーヌ・ボワイエ≫を、モデルの死後に描いた全身肖像画で、グロとクリスティーヌ・ボワイエは直接面識がなく、他の画家の肖像画を元に制作された。画面中央に描かれるクリスティーヌ・ボワイエは依頼主リュシアンが彼女を埋葬したプレシー=シャルマンの庭園を連想させる背景の中で、観る者との視線の交わりを外すかのようにやや俯き、憂鬱で儚げな表情を浮かべつつ、軽く両腕を組みながら薔薇が流れる小川の前に立っている。クリスティーヌ・ボワイエの表情は若くして亡くなった自身の運命を暗示するかのような印象を観る者に与え、また英国の肖像画様式の影響が明確に示される彼女の立つ(当時の思想的雰囲気を色濃く残す)鬱蒼とした森の自然的な風景にはクリスティーヌの心情と深く結びつく精神性を感じることができ、ここにロマン主義的全身肖像表現の典型を見出すことができる。さらに色彩や光彩表現に注目しても、クリスティーヌが身に着ける透き通った純白のドレスや肩に掛けられた(品質の良さを感じさせる)赤いショールと絶妙な対比を示す背景の緑褐色、そして深い陰影が支配する背景で一際輝くクリスティーヌ・ボワイエへ当てられた光彩描写にはグロの画家としての非常に高い力量を感じずにはいられない。

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ヤッファのペスト患者を訪れるナポレオン・ボナパルト


(Bonaparte visitant les pestiféré de Jaffa) 1804年
523×715cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

ロマン主義における偉大なる先人アントワーヌ=ジャン・グロを代表する作品『ヤッファのペスト患者を訪れるナポレオン・ボナパルト』。1804年のサロンに出品され人々から熱い視線を集めた本作は、1799年にフランス軍がイスラエル(パレスチナ)の都市ヤッファを攻略した数日後、英雄ナポレオン・ボナパルトが同地を訪れ、ペストを患った兵士たちが溢れる病院で患者らを見舞う姿を描いた作品である。画面中央よりやや右へ配される英雄ナポレオン・ボナパルトはペストを患った瀕死的な兵士のひとりと対峙し、勇敢にもその患部へ手を伸ばしている。その光景や英雄の行いは、まるで神話画や宗教画の登場人物を思わせるようなほど崇高で神々しい印象を観る者に与えることに成功しているおり、さらにナポレオンの背後で鼻を押さえ悪臭を遮るベルティエ元帥の姿を始めとした周囲の人物らがそれをより強調している。そして光によって画面中で明確に浮かび上がる本場面とは対照的に、征服されたヤッファの人々(アラブ人や東洋人)は画面左下の深い影が落ちる瓦礫の上や壁際で力なく竦むのみである。このヤッファ訪問後、英雄ナポレオンはペストの蔓延を防ぎ軍隊に遅延が発生しないよう、患者らに毒薬を飲ませる命令を下していたことが現在では明らかとなっており、本作の陰惨で残忍なこの事実を感じさせずナポレオンの英雄的側面が強調された場面設定や構成、表現は特に注目すべき点である。

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アイラウの戦場におけるナポレオン・ボナパルト、1807年2月9日(エロの戦場のナポレオン・ボナパルト、1807年2月9日)

 (Napoléon sur le camp de bataille d'Eylau) 1808年
521×784cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

ロマン主義の巨匠アントワーヌ=ジャン・グロの傑作『アイラウの戦場におけるナポレオン・ボナパルト、1807年2月9日(エロの戦場のナポレオン・ボナパルト、1807年2月9日)』。『ヤッファのペスト患者を訪れるナポレオン・ボナパルト』と共に、フランスロマン主義最初の傑作と見做される本作は、皇帝ナポレオン・ボナパルト による永遠の統治を示す≪グランド・マシン(大作の意)≫の1点として制作された作品で、1807年2月7日から8日にかけて東プロイセンで起こったフランス軍とロシア軍の争い≪アイラウの戦い≫の翌日が場面の舞台となっている。本作の画題≪アイラウの戦い≫ではフランス軍は勝利を収めたものの、激しい吹雪や極寒などによって苦戦の連続を強いられ、同地での戦闘では計22,000人もの死傷者を出すという極めて陰惨な状況にあり、本作ではその過酷的な状況を当時としては類稀な写実性で描き出されている。画面中央よりやや右側には将軍らを伴いながら馬に跨り戦場を駆けながら兵士たちに謁見を許す皇帝ナポレオンの姿が堂々と描かれており、この凛々しく高貴な表情はナポレオン自身からの指示であったとされている。またナポレオンの周囲には皇帝に謁見する兵士らが配され、ナポレオンの偉大性を強調させている。さらに画面下部には本戦闘で死した名も無き兵士らの死体が無残に積み重ねられており、この戦闘の激しさと消耗をよく示している。本作で最も注目すべき点は、(あくまでも勝者フランス軍の都合によるものであるが)史実に基づいた即時的で非常に写実性の高い場面描写にある。特に本作の画面下部(前景)に丹念な筆触によって描き込まれる雪の積もった死者の恐怖感や重・軽傷者たちの苦痛に溢れた光景や、戦闘後の不安で混沌とした雰囲気の中を行き交う皇帝ナポレオンを始めとした登場人物の態度などは、観る者に強烈な印象を残す表現描写であり、ロマン主義の形成に多大な影響を与えた。

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