Introduction of an artist(アーティスト紹介)
画家人物像
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ポール・ドラロッシュ(ドラローシュ) Paul Delaroche
1797-1856 | フランス | ロマン主義・折衷派




19世紀前半期にフランスで活躍した画家。詩情性と演劇性に富んだ主題選定や誇張的な場面の演出などロマン主義的展開に、厳格的な構成やある一定の秩序に基づく写実的描写など古典主義的手法を高度に融合させた折衷派とも呼ばれる表現様式で、当時のサロン(官展)を代表する画家として名を馳せる。歴史画、特に英国史に典拠を得た歴史的主題作品は画家独特の悲劇性を漂わせる作風と合致し高い人気を博した。1797年、パリで裕福な家庭に生まれ、1816年に入学したエコール・デ・ボザール(パリ国立美術学校)で画家ヴァトレ、次いでアントワーヌ=ジャン・グロに絵画を学ぶ。翌1817年、ローマ賞へ応募するも落選、サロンへと望みを託すようになる。1822年、『ヨザベスを救うヨアス』でサロンへデビュー、同サロンで若きテオドール・ジェリコーウジェーヌ・ドラクロワと知り合う。1824年にサロンへ出品した『フィリッポ・リッピの生涯の一挿話』『聖ヴァンサン・ド・ポールの説教』そして『ジャンヌ・ダルクとウィンチェスターの枢機卿(ウィンチェスター枢機卿の尋問を受ける牢獄の中の病めるジャンヌ・ダルク)』の3作品が公的に認められ、以後サロン画家(官展派)として名声を高めていった。1827年に英国を旅行、1832年には王立絵画・彫刻アカデミーの正式会員に選出され、またエコール・デ・ボザールの教授を務めた。1838年と1843年には当時、ローマのフランス・アカデミー総裁であった画家の義父オラース・ヴェルネからの歓待を受けイタリアを来訪。その後、ドラローシュはヴェルネの娘と結婚している。帰国後に画家屈指の代表作であるエコール・デ・ボザールのパレ・デ・ゼチュード半円形講堂の天井大装飾画を手がける。その後、歴史画のほか上流階級からの依頼で肖像画家として活躍、晩年期には大病を患い長い間闘病生活を送りながらも数多く宗教画を手がけた。1856年、生地であるパリで死去。

Description of a work (作品の解説)
Work figure (作品図)
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若き殉教者の娘(殉教した娘)

 1855年
(La Jeune Martyre (Une martyre au temps de Dioclétien))
170.5×148cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)

19世紀フランス折衷派の画家ポール・ドラロッシュ最晩年の傑作『若き殉教者の娘(殉教した娘)』。1853年から制作が開始され画家が死する前年となる1855年に完成した本作は、3世紀ディオクレティアヌス帝時代における≪初期キリスト教の若き殉教者≫を主題とした宗教画作品で、異教の神々に生贄を捧げることを拒否した為に死刑を宣告され、両手を縛られた後にテヴェレ河へ投げ込まれた無名の聖女という、それまで画家が手がけてきた物語性を容易に理解できる歴史画とは全く異なる≪宗教に対する無垢的な殉教性≫のみに焦点があてられている点は特に注目すべき点である。前景となる画面下部へ配される殉教した若い娘は、腹部の上で両腕を十字に縛られながらテヴェレ河を漂っているが、闇の中で神秘的な輪光に包まれるその姿には彼女の清白な純潔性を強く感じることができる。また後景となる画面上部には娘の遺骸を発見する2名のキリスト教徒が描かれているが、闇に沈み込むような両者の描写には、画家の作品的特徴でもあった誇張的な場面の物語的演出に対する決別を見出すことができる。また表現手法を考察しても、極めて写実的な描写を用いながら重厚な闇の中へ光の霊妙的な詩情性と殉教という象徴的概念のみを秀出させた表現には、ドラロッシュが最晩年に辿り着いたロマン主義的な新境地が示されている。制作が開始される前年の1852年にロンドンのロイヤル・アカデミーへ出品され大成功を収めたラファエル前派の画家ジョン・エヴァレット・ミレイの代表作『オフィーリア』からの影響を強く感じさせる本作(※当時は悲劇的主題としても大流行していた。また発表当時、批評家たちから「キリスト教のオフィーリア」と形容された)は、ドラローシュが病に臥していた時に見た夢から着想が得られたとも伝えられている。

関連:ジョン・エヴァレット・ミレイ作『オフィーリア』

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【全体図】
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